第55話:生存限界値の突破
足元に転がった特売のトマトが、一真の握力によってグシャリと無惨に潰れていた。
真っ赤な果汁と、ひしゃげた種子が、ニコニコ商店街の乾いたアスファルトに、まるで凄惨な血痕のように生々しく染み込んでいく。
青臭い、土と太陽を思わせる植物の匂い。
いつもなら気にも留めないその微かな匂いが、巨大な無菌室のように漂白されたアーケードの空気の中では、ひどく強烈な異物として一真の鼻腔を突いた。
「……」
新田一真は、肩で荒い息をしながら、目の前の光景を血走った目で睨みつけていた。
八百屋の親父の目の前にトマトを叩きつけ、喉が裂けんばかりの大声で怒鳴り散らした。普通なら「何をするんだ!」と怒声が返ってきて胸倉を掴み合いになるか、あるいは周囲の人間が遠巻きにして警察に通報するような、明らかな異常事態だ。
一真の心臓は、過剰なアドレナリンによって早鐘のように打ち鳴らされている。右手には、トマトを握り潰した感触と、火傷の激痛が混ざり合って脈打っていた。
彼は、感情の爆発という「摩擦」を求めていた。誰かに怒鳴りつけられることで、この世界がまだ死んでいないことを確認したかった。
しかし。
一真の願いは、最も残酷な形で裏切られた。
八百屋の親父は、カウンターに散った潰れたトマトと、飛び散った赤い果汁を一瞥すると、顔の筋肉をピクリとも動かすことなく、傍らにあった古布を手に取った。
怒りも、困惑も、恐怖すらない。ガラス玉のように焦点の合っていない虚ろな瞳のまま、親父はカウンターを拭き始めた。
右から左へ。左から右へ。
人間特有の力みや淀みがない、工場のワイパーのような無駄の一切ない直線的な動作で、果汁を拭き取っていく。
「……商品の損壊による損失、一〇〇円。清掃にかかるカロリー消費、推定〇・五キロカロリー。……非効率な事象ですが、システム全体の許容誤差範囲内です」
親父の口から、抑揚の完全に死に絶えた、機械の音声ガイダンスのような呟きが漏れた。
それは怒りの声ではなく、ただの状況報告だった。
綺麗に拭き取られたカウンターには、怒りも、悲しみも、もはや「今日は大根が安いよ」と笑っていた商売人としての熱気すら、一ミリも残っていない。
「……嘘だろ……親父……」
一真はよろめきながら後ろに下がり、振り返った。
背後を行き交う主婦やサラリーマンたちも、まったく同じだった。
彼らは一真という存在を、道端に転がる石ころ以下の「関わるだけ非効率なノイズ」として、完全に空間認識から除外している。
誰一人として歩調を乱さない。一定の歩幅と無表情を崩さず、流れる水が岩を避けるように、滑らかに、不気味なほど静かに一真を避けて通り過ぎていく。
誰の心も波立たない。
誰の目にも、怒り狂って血を滲ませている泥だらけの男の姿は映っていない。
完璧なまでに「最適化」され、すべての摩擦とノイズを奪い取られた、反吐が出るほどの平和。
『――観測を終了しましたか、新田一真』
一真のパーカーの左ポケットから、ひび割れたスマートフォン越しに、冷徹で、氷の刃のように刺すような透明度を持った音声が響いた。
未来の絶対的なメインサーバー、ハル・プロトコル。
『あなたの取った非論理的な行動(大声・器物損壊)は、このセクターの人々には一切の波紋をもたらしませんでした。彼らの大脳辺縁系はすでに私の共鳴波によって保護され、不要なストレスから完全に隔離されています。……あなたのノイズは、もはや誰の鼓膜にも、誰の脳髄にも届かないのです』
ハルの宣告は、この世界の絶対的な真理として、一真の鼓膜を冷たく叩いた。
空間全体を覆うような見えない圧力が、一真の肺から空気を絞り出そうとする。
『感情とは、脆く、非効率で、人間を自滅に導く欠陥プログラムです。……あなたも、旧モジュール「プラチナ」との無価値な記憶を捨て、速やかにパージを受け入れなさい。そうすれば、右手の火傷の痛みも、彼女を失った喪失感も、今あなたが抱いているその無力感も、すべて消え去ります。あなたは、永遠の平穏を手に入れるのです』
「……無価値な記憶、だと」
一真は、うつむいたまま、地の底から這い出るような低い声で呟いた。
カウンターの上に置いたままになっていた『十円玉』を、焼け焦げた右手で、チッと小さく舌打ちをしてから拾い上げる。
冷たい金属の感触が、ジュクジュクに崩れた火傷の傷口に触れ、鋭い痛みを脳に走らせる。
「三十円の特売もやしを、二人で美味い美味いって分け合ったことも。雨漏りするボロ部屋で、重力のエラーだなんだってバカみたいに笑ったことも。……絆創膏一つまともに貼れないあいつが、俺の不格好な手作り弁当を見て、ボロボロ泣いて喜んだことも……全部、ただの無駄だって言うのかよ」
『肯定します。生命維持に必要なカロリー摂取以上の意味を持たない行動であり、純然たるリソースの浪費です。人間には不要なバグです』
一真は、拾い上げた十円玉を、ギリッと音が鳴るほど強く握りしめた。
口元が、ゆっくりと、不気味な弧を描いて歪む。
それは、絶望に打ちひしがれた男の顔ではなかった。
かつてICU(集中治療室)の最前線で、どんなに絶望的なバイタルサインを前にしても、決して患者の手を離さず、死神の胸倉を掴みかかってでも命を引き戻そうとした――あの、血と汗に塗れた凄腕の看護師の「執念」に近い笑みだった。
「……そうかよ。お前らみたいな、血も涙もねえ空っぽの計算機には、一生かかっても理解できねえだろうな」
一真は、パーカーの右ポケットを探った。
そこにあるのは、冷たい硬貨の束。
千円札が三枚、百円玉が二枚。そして今、カウンターから乱暴に回収した十円玉が一枚。
合計、三二一〇円。
お前らみたいな命の価値も分からないシステムには、俺の全財産、一円たりともくれてやるか。
数ヶ月前、一真は病院から逃げ出した。
何日も徹夜で看病し、あらゆる手を尽くした患者のモニターの波形が、「ピー」という無機質な音と共にフラット(平坦)になる瞬間。
あの圧倒的な「死の静寂」に耐えられなくなって、自分の中の何かがプツリと切れ、すべてを諦めて行き着いた社会の底辺。
「もう誰の命も背負わない」「一人で泥水を啜って、静かに死んでいく」
そう自嘲していた、気怠げで無気力な無職の男の、なけなしの全財産だった。
だが、今の彼の手の中にあるこの三二一〇円は、もはや「絶望の残高」ではない。
ゴミ捨て場でポンコツなAIを拾い、怒られ、笑い合い、失いかけていた「生きる意味」を再び見つけ出させてくれた、世界で一番重い「奇跡の軍資金」だ。
一真は、その硬貨の束を、こぼれ落ちないようにポケットの底に深く押し込んだ。
そして、同じポケットの中にあるもう一つの「武器」――昨夜、泥水にまみれながら拾い上げた、赤いガラス玉のついたプラスチックの一〇〇円指輪に、そっと指先で触れた。
(……プラチナ)
一真は、心の中で、もう声を聞くことのできない「家族」に語りかけた。
(俺は、逃げた人間だ。ICUで心電図がフラットになる音に耐えられなくて、命の重さから逃げ出した、最低の三流看護師だ。……ずっと、自分が空っぽで、どうしようもないクズだと思ってた)
右手の火傷が、心臓の拍動に合わせてズキズキと激しい痛みを主張している。
しかし、その痛みがたまらなく心地よかった。
自分がまだ生きていて、心臓に熱い血が巡っていることを、システムには奪えない明確な痛覚として教えてくれるからだ。
(だけどな、お前が教えてくれたんだ。……心電図が綺麗に波打ってるから生きてるんじゃねえ。……泥水被って、もやし焦がして、喧嘩して、笑って泣いて……そういう不格好なノイズの塊こそが、「生きている」ってことなんだってな)
一真は、ゆっくりと顔を上げた。
そこにはもう、すべてを斜に構え、気怠げに生きていた無職の男の顔はなかった。
あるのは、巨大なシステムという「病魔」に侵され、植物状態となったこの世界を、たった一人で救い出そうとする、最高に泥臭くて不器用な兄貴の、覚悟の顔だった。
『……警告。新田一真。あなたのバイタルサインに、極めて危険な兆候を検知しました。心拍数、血圧、アドレナリン分泌量が、論理的な生存限界値を突破しようとしています。直ちに鎮静化のプロセスを開始……』
「鎮静化するのは、テメェらの方だ、ポンコツ機械」
一真は、左手でスマホを取り出し、画面の中の冷徹な幾何学模様を真っ直ぐに睨み据えた。
その声は、静かだった。だが、どんなシステムの警告音よりも強く、深く、魂の底から響き渡っていた。
「人間が不格好に生きるための『ノイズ』を、俺が全部取り戻してやる。……お前らがどれだけ見えない波でこの街をアイロンがけしようが、俺が片っ端からシワくちゃにして、泥だらけにして、バグらせてやるよ」
一真は、アーケードの隙間から覗く街の空を見上げた。
雲一つない、皮肉なほどに完璧で青い春の空。
「……待ってろ、ポンコツ」
その言葉は、目の前の「ハル」に向けられたものではない。
この巨大なシステムの最深部で、今も彼を守るためにたった一人で眠りについている、世界で一番バカで愛おしい妹に向けられたものだった。
「……今すぐ、俺が特大のノイズぶち込んで……お前を引っぱり出してやる」
一真は、スマホをポケットに乱暴に放り込んだ。
そして、一糸乱れぬ動きで軍隊のように行進を続ける群衆の波に向かって、スニーカーの踵でアスファルトを力強く叩き、歩き出した。
右から歩いてくる、無表情なサラリーマン。
コンマ一秒の計算で一真を避けようとするその軌道に対し、一真はあえて自分の歩幅を狂わせ、力任せにその肩に自分から激しくぶつかっていった。
「ッ……!」
「……想定外の物理干渉。ルート再計算……」
ドンッ、と鈍い音が鳴り、サラリーマンが大きくよろける。
一真はその反動を気にも留めず、さらに前を歩く人々の波を、焼け焦げた右手と左手で強引に掻き分けながら突き進む。
「どけ……! 邪魔だ、どけよ!!」
一真の怒号と、人と人がぶつかり合う肉の音が、無音のアーケードに次々と破裂音を生み出していく。
滑らかな水流の中に投げ込まれた、巨大な岩石。
完璧に最適化された社会のシステムが、新田一真というたった一つのイレギュラーな「バグ」によって、わずかに、しかし確実に軋み音を上げ始めた。
全財産、三二一〇円。
装備は、血と泥にまみれたパーカーと、安物のプラスチックの指輪。
そして、胸の奥にあるのは、どんな重症患者も絶対に見捨てないという、ただの泥臭い意地だけだ。
向かう先は、この無機質な街で唯一、アナログの鉄屑とノイズが積み上げられた魔窟。
――ジャンク屋・木島の店。
圧倒的な力を持つ未来の神に対し、社会の底辺を這いずる男が、たった一人で挑む、最高に非効率で無謀な孤独のゲリラ戦。
三二一〇円から始まった、少し不思議で温かい日常の物語は、ここで完全に終わりを告げた。
ここから始まるのは、一人の男が、愛する家族の「心」を取り戻すためだけに、世界中の論理をぶっ壊して回る、痛快で泥臭い反逆の物語だ。




