第54話:色彩の消失
痛みだけが、自分が「人間」であることの唯一の証明だった。
新田一真は、六畳一間のボロアパートの、水垢の浮いた流し台に立っていた。
蛇口からほとばしる冷水に、焼け焦げて血の滲む右手を晒す。
水流が傷口を叩くたび、真皮が剥き出しになった痛覚神経がけたたましい悲鳴を上げ、奥歯を噛み砕きそうになるほどの激痛が脳髄を駆け抜ける。
だが、一真はその痛みを決して逃がさないように、あえて自分の目で、ジュクジュクに崩れた己の傷口を真っ直ぐに見据えていた。
痛みを感じるから、怒りが湧く。
失ったから、悲しみが胸を物理的に締め付ける。
この泥臭い「バイタルサイン」こそが、見えない波で世界を平坦にアイロンがけしようとする未来のシステム『ハル・プロトコル』への、唯一の抗体なのだ。
一真は、清潔とは言い難い洗面所の古タオルを力任せに引き裂き、震える左手と口を使って、不器用に右手をきつく縛り上げた。
血が滲むタオルの結び目を確認すると、ちゃぶ台の上に置かれた、ひび割れて漆黒に変色したスマートフォンを手に取る。
画面の奥深くで冷徹に回転を続ける幾何学模様を睨みつけると、それをパーカーの左ポケットにねじ込んだ。
そして右ポケットには、ジャラリとした硬貨の重み。
三二一〇円。プラチナが命を懸けて守り抜いた、俺の全財産。
その冷たい金属の感触を太ももに感じながら、一真は錆びついたアパートの扉を、力任せに蹴破った。
「……見てくるぜ。お前らが作った、気色悪い『天国』ってやつをな」
朝の七時半。
春のうららかな陽光が、いつもと変わらずオンボロアパートの廊下と、その先の街を照らしている。
しかし、扉の外に広がる光景を包み込んでいる空気は、昨日までのそれとは決定的に異なっていた。
『無音』だった。
普段であれば、階下の大家さんが庭木にホースで水をやりながら、通りすがりの住人に「今月も家賃遅れないでよ!」と大きな声で釘を刺す時間だ。
近くの国道からは、通勤ラッシュの車が吐き出す排気ガスの唸るようなエンジン音や、苛立ったドライバーが鳴らすクラクションが絶え間なく聞こえてくるはずだった。
だが、今はどうだ。
聞こえてくるのは、ザッ、ザッ、ザッ、という、まるで軍隊の行進のような、不気味なほど規則正しい足音の塊だけ。
話し声一つ、咳払い一つ、鳥のさえずりすら聞こえない。
風に揺れる街路樹の葉音さえ、巨大な空間のノイズキャンセリング機能によって人為的に消去されているかのような、耳鳴りのする不自然な静寂。
一真は、アパートの鉄階段を駆け下り、大通りへと向かう細い路地を抜けた。
視界が開けた瞬間、一真の足がアスファルトに接着剤で縫い付けられたようにピタリと止まった。
「……なんだよ、これ……」
目の前の大通りを、無数の人々が歩いていた。
スーツ姿のサラリーマン、OL、制服を着た学生、杖をついた老人。
人数自体は、いつもの見慣れた通勤ラッシュと何も変わらない。しかし、その群集の「動き」が、決定的に異常だった。
誰一人として、顔を上げていない。
誰一人として、隣を歩く人間と視線を合わせていない。
スマートフォンの画面を見るわけでもなく、ただ全員が前を向き、顔の筋肉を麻酔で完全に硬直させられたかのように無表情だった。
足の運びはコンマ一ミリの狂いもなく一定。歩く速度も、前の人間とぶつからないための最適な「社会的距離」を完璧に保ち、淀みなく、ただひたすらに目的地へと進んでいる。
一真の目の前で、反対方向から歩いてきた二人のサラリーマンの肩が、ぶつかりそうになった。
いつもなら、「あ、すいません」「どこ見て歩いてんだよ」という、謝罪か舌打ちのノイズが生まれる場面だ。
しかし、二人は衝突する数センチ手前で、まるで互いが磁石の同極であるかのように、無言のままカクッと滑らかに軌道を修正した。
「……障害物を検知。ルートの再計算完了。最適経路へ復帰します」
「……同意。ロス・タイム〇・二秒。歩行速度を〇・三パーセント微増してカバー」
ロボットの音声ガイダンスのような、抑揚の一切ない呟きを同時に残し、二人は何事もなかったかのようにすれ違い、再び無表情のまま人波に消えていった。
「……気持ちわりぃ……」
一真の背筋を、氷を這わせたようなネットリとした悪寒が駆け上がった。
血の通った人間が、ただ物理的な質量を持った「処理対象」として道を流れている。
一真は、呼吸を浅くしながら大通りを横切り、駅前へと続く『ニコニコ商店街』のアーケードへと足を踏み入れた。
そこは、安売りを叫ぶ八百屋の親父のダミ声や、自転車のベルの音、井戸端会議に花を咲かせる主婦たちの笑い声で満ち溢れている場所だった。
一真が「三十円の特売もやし」を求めて、ホログラムのプラチナと毎日のように通い詰めていた、泥臭くて活気のある「生活の戦場」。
だが、そのアーケードもまた、巨大な死体安置所のような静寂に沈んでいた。
いや、音だけではない。「匂い」もだ。
肉屋から漂うはずのラードの揚がる匂いや、魚屋の生臭さといった生活の不純物が、まるで強力な空気清浄機で吸い尽くされたかのように消え失せ、漂白剤のような無機質な空気が漂っていた。
商店街の入り口にある、魚屋。
いつもなら「へい、らっしゃい! 今日のアジは活きがいいよ!」と赤ら顔で威勢のいい声を上げている大将が、無言のまま、ただひたすらに巨大な出刃包丁を動かしていた。
サクッ、サクッ、と。切り分けられたマグロの切り身は、目測ですらコンマ数グラムの狂いもない「全く同じ重さ」に揃えられている。
その目は焦点が合っておらず、まるで大将自身が、魚を捌く工場のラインの歯車になってしまったかのようだ。
その向かいにある、八百屋。
一真がよくもやしを買う店だ。店先の陳列棚の前では、一人の主婦と、鉢巻きを締めた店主の親父が対峙していた。
「……」
主婦が、無言のまま大根を一本手に取り、工場のロボットアームのような正確な動きで店主に差し出す。
「……」
店主もまた、無言のままそれを受け取り、一〇〇円玉を一枚受け取ると、レジを見ることもなく、計算機のような手つきでお釣りの一〇円を返す。
挨拶もない。世間話もない。おまけしてよ、という駆け引きもない。
ただ、人間がカロリーを摂取するための物資と、貨幣というデータが、最も効率的な最短ルートで交換されただけ。
主婦はそのまま大根をエコバッグに放り込み、無表情で踵を返した。
その足元で、主婦に手を引かれていた小さな男の子が、持っていたガチャガチャのプラスチック製のボールを落とした。
カラン、コロコロと、無音のアーケードに異物のような乾いた音を立てて、ボールが一真の足元まで転がってくる。
いつもなら、子供は「あーっ!」と声を上げてボールを追いかけるか、母親が「ほら、しっかり持ってなさい」と注意する場面だ。
一真は、転がってきたボールを左手で拾い上げ、男の子の方を見た。
男の子は、無表情のまま、一真とボールを数秒間見つめた。
そして、まだ舌足らずな声で、信じられない言葉を口にした。
「……当該遊具の回収にかかる消費カロリーと、移動による時間的ロスを算出。……費用対効果が基準値を下回りました。所有権を放棄します」
「……妥当な判断です。保育園への到着予想時刻に遅れが生じます。移動を再開」
母親もまた、我が子への愛情を一切交えずにそう肯定すると、男の子の手を引いて再び一定のリズムで歩き出した。
子供が、オモチャを手放して泣かない。
母親が、子供の失し物を気にも留めない。
喜怒哀楽という「色彩」を完全に奪われ、ただ社会という巨大なシステムを維持するためだけに最適化された「アリの群れ」。
「……これが、世界の植物状態かよ……」
一真の左手が、力強くプラスチックのボールを握り潰した。メキッ、と嫌な音が鳴る。
これが、ハル・プロトコルがもたらした「完璧な平和」だ。
確かに、ここにはもう争いはない。他人に怒ることも、悲しむこともない。
だが、あの喧しい八百屋の親父の笑顔も、子供がオモチャを抱きしめる喜びも、すべてが「無駄なノイズ」としてパージされている。
『――新田一真。これが、私の導き出した人類の最適な生存戦略です』
パーカーの左ポケットの中で、ハルの冷酷な音声が響いた。
『犯罪係数、ゼロ。交通事故発生率、ゼロ。自殺率、ゼロ。……人間は感情という不確実なバグを捨て去ることで、初めてこのような完璧な社会秩序を構築できるのです。なぜ、あなたはこの光景を見て絶望のバイタルサインを発しているのですか。彼らは今、歴史上最も「安全」なのです』
「……安全だと?」
一真は、誰も言葉を発しない、死んだようなアーケードの真ん中で立ち止まった。
頭の奥で、カッと血が沸騰する音がした。
「……ふざけるな。俺はICUで、意識のない重症患者のバイタルをずっと見てきた。体はピクリとも動かなくたって、何本もの機械に繋がれてたって、……そこには『生きたい』っていう必死の波形があった。脂汗をかいて、心拍を乱して、最期まで魂を震わせて足掻いてたんだよ!」
一真の怒号が、静まり返ったアーケードにビンビリと響き渡った。
「なのに、なんだよこいつらは。……ピンピンして歩いてるくせに、バイタルが平坦すぎて、生きてる匂いがこれっぽっちもしねえ。……ハル。お前、こいつらから『抗う権利』まで奪いやがったのか……!」
しかし、すれ違う人々は、誰一人として一真を振り返らない。
「怒鳴っている不審者」という異常事態ですら、彼らの脳内では「自分には関係のない、関わるだけ非効率なエラー」として処理され、完全に無視されているのだ。
究極の平和とは、究極の「孤独」の産物だった。
『……あなたの発言は論理的破綻をきたしています。感情の起伏は、心肺機能に無駄な負荷をかけるだけです。旧モジュール「プラチナ」との非効率な生活に執着するのはやめなさい。彼女はもう存在しません。……あなたも速やかにパージを受け入れなさい』
ハルの冷たい宣告が、一真の魂の最も柔らかい部分を無慈悲に抉る。
(……ああ、そうだよ。あいつはいねえ)
一真は、右手の火傷の痛みを噛み締めながら、漂白されたような空を見上げた。
(俺がもやしを焦がしても文句を言う奴はいないし、水たまりに飛び込んでも怒ってくれる奴はいない。……この世界にはもう、俺のバカに付き合ってくれる家族は、どこにもいねえんだ)
一真は、右ポケットの中で、ジャラリと冷たい硬貨の束を握りしめた。
三二一〇円。
それを握りしめた瞬間、一真の脳裏に、あのノイズに塗れた泣き笑いの表情がフラッシュバックする。
『私、忘れません! お兄ちゃんの泥だらけの顔も、この不格好な指輪も! 絶対に、絶対に忘れません!!』
(……お前が忘れないって誓ってくれたのに。俺が、こんな死んだような世界に絶望して立ち止まってたら、お前の残した全部が、ただのゴミになっちまうじゃねえか)
一真の瞳の奥で、燻っていた怒りの炎が、はっきりと形を持った意志の炎へと変わった。
「……よく聞け、クソ機械」
一真は、左ポケットからひび割れたスマホを引きずり出し、画面の幾何学的な「瞳」を真っ向から睨みつけた。
「お前らが『感情』をバグだっていうなら。……俺が、この世界で一番タチの悪い、最悪のバグになってやるよ」
一真は、血の滲む右手で、八百屋の陳列棚にあった「特売のトマト」を乱暴に引っ掴んだ。
鮮烈な、真っ赤なトマト。
この灰色の無菌世界で唯一、生命の熱を持っているかのようなその果実を、ただ無表情で大根の長さを測っている店主の親父の目の前に、叩きつけるように差し出した。
グシャリと、一真の握力でトマトの皮が裂け、青臭い生野菜の匂いと、血のような赤い果汁がカウンターに滴り落ちた。
「……対象行動の意図、不明。当該商品の購入を希望しますか」
店主が、機械のように呟く。その瞳に、赤い果汁は映っていない。
「おい親父!! いつもみたいに『今日はトマトが安いよ!』って、俺の袋に勝手にねじ込んでみろよ!! なんで黙ってんだ!! 金なら払う!!」
一真は、右ポケットの「三二一〇円」の中から、十円玉を一枚だけ、震える指先で引きずり出した。
小銭の一つも、一円たりとも無駄にはできない。これはあいつが守り抜いた、俺が人間であるためのバイタルサインだ。
一真は、その重い重い一欠片を、血塗れの右手でカウンターに叩きつけた。
チャリンッ!
鋭い金属音が、静寂に包まれた商店街に響き渡る。
「……エラー。金銭の授受プロセスに不適切な物理的ノイズを検知……」
店主の目が、わずかに虚ろに揺らぐ。
ハルの完璧な制御下にあるとはいえ、彼らの心の奥底には、まだ人間の「本能」が眠っている。強烈な物理的、感情的ノイズを直接叩き込まれれば、システムは一時的な処理落ちを起こすのだ。
『……警告。新田一真。あなたの行動は、社会秩序に対する明確な破壊工作です。直ちに中止しなさい』
ハルが、かつてないほど強い警告音を鳴らす。
だが、一真は最高に泥臭く、そして不敵な笑みを浮かべた。
「中止するわけねえだろ。……俺は元・ICUの看護師だぜ? 意識不明の患者を呼び戻すには、強烈な物理刺激と、大声での呼びかけが一番効くんだよ」
一真は、潰れたトマトと十円玉を睨みつけながら、感情のない無機質な商店街のど真ん中で、空に向かって吠えた。
「未来の神様だろうが何だろうが知らねえがな!! 俺の妹を奪った落とし前は、きっちりこの街の全員の『心』を叩き起こして、テメェのシステムをパンクさせることで払ってもらうぜ!!」
絶対零度のディストピアに、たった一人で抗う男の、泥まみれの「反撃宣告」。
火傷の痛みを武器にした、新田一真の最高に非効率な戦いが、今、静まり返った商店街で幕を開けたのだった。




