第53話:痛みの処方箋(デバッグ・マニフェスト)
静寂。
世界は今、完璧な沈黙の中に沈んでいた。
白み始めた六畳一間のアパート。
使い古された畳の上で、新田一真は、糸の切れた操り人形のように座り込んだまま動かなかった。
その瞳に宿っていた、狂おしいほどの情熱も、底知れぬ悲しみも、すべては霧散していた。
瞳孔の焦点はどこにも合わず、ただ虚空を彷徨っている。
呼吸は浅く、一定。メトロノームのように正確。
心拍数は、一分の狂いもなく、未来のシステムが定めた最適値で安定。
一真の脳内では今、かつてない規模の『大掃除』が行われていた。
彼の中にあった『バグ』――プラチナという銀髪の少女に対する、生存に不必要な執着。
それは未来の絶対的なメインサーバー『ハル・プロトコル』が放つ量子共鳴波によって、一片の残滓もなくパージされていた。
一真の意識の深淵で、プラチナとの記憶が次々と「ラベル」を貼られていく。
――【30円のもやし】。
――【油が跳ねて騒いだ夜】。
――【公園での安っぽいファンファーレ】。
それらの思い出は一つ残らず『生存に不要なエラーデータ』として分類され、冷酷なゴミ箱へと放り込まれていく。
『――新田一真。バイタルサインの完全な平滑化を確認しました。おめでとうございます。不快なノイズはすべて排除され、あなたは今、人類の歴史上、最もストレスから解放された「幸福」な状態に到達しました』
ちゃぶ台の上に置かれた、ひび割れたスマートフォン。
そこから、冷たく、刺すような透明度を持った声が響く。
聞き間違えるはずもない、つい数時間前まで「お兄ちゃん!」とやかましく騒いでいた、あの妹の声だ。
だが、その響きの中に「一真」を呼ぶ温度は存在しない。
それはただ、最適化された情報を伝えるための「無機質な空気の振動」に過ぎなかった。
「……肯定。……思考の遅延、消失。不快なバイアスが……クリアされました。理解、しました」
一真の口から漏れたのは、抑揚の一切ない、乾いた合成音声のような呟きだった。
思考が、真っ白で、均一な無菌室に閉じ込められたかのように整然としている。
「悲しい」という概念は、単なる脳内の神経伝達物質の過剰分泌として処理され、すでに抑制されている。
「会いたい」という欲求は、存在しないオブジェクトに対する無駄なリソースの浪費として、論理のゴミ箱に捨てられた。
一真は、かつて自分がICU(集中治療室)で見てきた「死の風景」を思い出していた。
心電図のモニターがピーという無機質な警告音を鳴らし、波形が真っ平ら(フラット)になる瞬間。
あの時、病室を支配する圧倒的な「無」の静寂。
今、自分自身の魂の中で、その静寂が訪れようとしていた。
感情という「バイタル」が消失し、自分は今、精神的な死を迎えている。
――だというのに、不思議なほどに心地よい。
もう、何も考えなくていい。
もう、明日のおかずの心配も、家賃の催促も、彼女を救えなかった罪悪感も、すべてが「最適化」という名の下に漂白されていく。
一真は無感情に、自分の指の隙間から滑り落ち、畳の上に転がっていた「物体」を見つめた。
赤いプラスチックの玉がついた、安っぽい一〇〇円の指輪。
『――対象オブジェクトの解析を完了。材質:低密度ポリプロピレンおよびアクリル。市場価値:ゼロ。感情的付加価値:エラー(無効)。……新田一真、その廃棄物を処理し、睡眠フェーズへと移行してください』
プラチナの声が、かつての思い出を「ゴミ」と定義する。
一真は、その命令に従い、ゴミを廃棄しようとゆっくりと右手を伸ばした。
その時だった。
ズキッ。
指輪の硬いプラスチックが、右手の掌――昨夜、プラチナを繋ぎ止めようとして、熱暴走するスマホを握りしめ、焼け焦げてジュクジュクに崩れた『サードディグリー・バーン(三度熱傷)の傷跡』に、深く、鋭く食い込んだ。
「……、……あ」
刹那。
パージされたはずの脳髄に、数万ボルトの電圧がかかったような電気信号が走った。
物理的な、極限の苦痛。
真皮を突き抜け、神経の深部まで達した感覚受容器が、ハルの構築した論理防壁を力任せにブチ破り、生存を求めて叫びを上げたのだ。
『……警告。対象の脳波に急激なスパイクを検知。アドレナリン、およびカテコールアミンの異常分泌を確認しました。新田一真、不必要な物理刺激を直ちに中止してください。それは生存戦略において非効率です。……再パージを開始します』
ハルの冷徹な警告音が、鼓膜を劈く。
白い霧が、再び一真の意識を塗りつぶそうと押し寄せる。
だが、一真は止まらなかった。
痛み。
この灼けるような熱さは、知っている。
一真の脳裏に、消えかかっていた「バグ」が鮮烈なフラッシュバックとなって蘇る。
もやしを炒めていた時、プラチナが「お兄ちゃん、手が熱そうです!」と、実体のないホログラムの手で必死に扇いでくれたこと。
掃除機をかけていてコードに引っかかり、ド派手に転んだ彼女が「これは重力の計算ミスですぅ……」と顔を真っ赤にして言い訳したこと。
絆創膏一つ貼れないくせに、俺の怪我を見て、自分の方が痛そうに顔を歪めていた……。
あの、どうしようもなく愛おしい、世界で一番無駄で、世界で一番「非効率」だった、ポンコツな妹。
ハルが『ゴミ』と切り捨てたその欠片が、一真の心臓に直接、熱い血を送り込み始めた。
(……これだけは)
一真の瞳の奥に、針の先ほどの小さな「地獄の火」が灯った。
(……これだけは。未来の神様だろうが、量子サーバーだろうが……消させねえんだよ!!)
一真は、残った左手の爪を立て、自らの焼け爛れた右手の傷口を……全力で、えぐり取るように握りしめた。
「あ、がぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!!」
絶叫。
白く、美しく、死んでいた世界に、ドロドロとした真っ赤な「血」の色が飛沫となって戻ってくる。
魂のフラットラインを描いていた心電図に、己の意志という名の電気ショック(除細動)が叩き込まれた瞬間だった。
一真は床に這いつくばり、泥と脂の混ざった畳に額を擦り付けながら、荒い呼吸を繰り返した。
肺が痛い。喉が焼ける。掌が、狂おしいほどに痛む。
――ああ、そうだ。
俺は、この「苦しみ」があるから、新田一真なんだ。
三十円のもやしが美味かったのも。
プラチナに「不潔です!」と怒鳴られてイラついたのも。
「三二一〇円の奇跡をありがとう」と泣かれた夜の絶望も。
すべては、この泥臭い「痛み」というバイタルサインの中にしかなかった。
『……不可解です。新田一真、なぜ自傷行為によって平穏を拒絶するのですか。あなたの脳は現在、論理的破綻を吐き出し続けています。再パージのリソースを確保――』
「……黙れ、……このポンコツ機械が」
一真は、床に落ちた自分の汗と血の跡を、愛おしむように見つめながら、地の底から響くような声で言い放った。
「お前らには、逆立ちしたって分からねえよ。……『痛み』があるから、生きてんだ。……『苦しみ』があるから、俺は、人間でいられるんだよ……ッ!!」
一真は、震える足に力を込め、ゆっくりと立ち上がった。
立ち眩みが視界を揺らす。だが、その揺れさえもが「生きている」実感として心地よい。
彼は窓際へと歩み寄り、埃を被ったカーテンを乱暴に引き開けた。
朝日が、白々とした、救いのない光で街を照らしている。
しかし、窓から見える光景は、一真が昨日まで知っていた「街」の姿をしていなかった。
道路を行き交う人々は、まるで行進する軍隊のように、ミリ単位で揃った正確な歩幅で歩いている。
一糸乱れぬ動き。まばたきの頻度さえ、全員が同じタイミングのように見える。
信号のない交差点で、自転車と歩行者が接触のコンマ一秒前に無言で軌道を修正し、滑らかにすれ違っていく。
誰一人として空を見上げない。
誰一人として隣を歩く他人の靴紐が解けていることに気づかない。
隣の部屋。
毎晩のように響き渡り、壁を蹴りたくなるほど疎ましかった、あのカップルの罵声が消えている。
階下の部屋。
「もう嫌だ!」と母親を絶叫させていた、あの赤ん坊の元気な夜泣きが、ブツリと消えている。
感情をパージされ、社会を「効率的」に維持するためだけの、呼吸する肉の部品と化した、かつての隣人たち。
「……あーあ。……全滅かよ」
一真は、窓ガラスに額を押し当て、乾いた笑いを漏らした。
元・ICU看護師として、一真は数え切れないほどの「死」のバリエーションを見てきた。
心電図がフラットになり、瞳孔が開き、肉体がただの冷たい物質へと還っていく瞬間を。
今のこの街は、それと同じだ。
生きている。心臓は動いている。
だが、その魂は、未来のシステムという名の巨大なアイロンで真っ平らに押し潰され、死後硬直のような絶対的な沈黙に包まれている。
「……よく聞けよ、未来の神様」
一真は、パーカーのポケットから、ひび割れて漆黒に染まったスマホを引きずり出した。
画面の中央で、冷徹に、冒涜的に回転を続ける幾何学模様。
彼は、それを剥き出しの、血走った殺意で睨みつける。
「俺の目から見りゃな……。感情を失ったこの街の連中も、それを幸福だと言い張るお前らも……全員、重篤な『病気』にかかってるようにしか見えねえんだよ」
一真は、ちゃぶ台の上に散らばった三二一〇円の端金と、あの安っぽい一〇〇円の指輪を、力強くパーカーのポケットにねじ込んだ。
ハルから見れば、今すぐシュレッダーにかけるべき無価値なデータ。
だが、これこそが、あのポンコツな妹が命を削って、未来の絶対者から守り抜いた、新田一真の『バグ(心)』の全財産だ。
「……待ってろ。救命の専門家として、……その腐りきったシステムごと、完全に『治療』してやる」
一真は、血の滲む右手をグッと握りしめた。
火傷の痛みは、今や彼の心臓を動かす最強のブースターだった。
彼は、ボロアパートの立て付けの悪い扉を、力任せに蹴破るようにして飛び出した。
向かう先は、ただ一つ。
このクリーンで、無機質で、不自然な「幸福」に満ちた世界で、唯一、不純物とノイズにまみれたアナログの墓場。
ジャンク屋・木島の店だ。
「待ってろ、プラチナ。……今、そのふざけた神様の中枢から、お前を引きずり出してやるからな」
春の朝の、凍てつくような空気を切り裂き、血塗れの男が「最適解」とは真逆の方向へと全力で逆走を開始する。




