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スマホの中のプラチナ 〜底辺から始めるポンコツ未来AIの(に)お世話生活〜  作者: ひろボ


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第52話:無機質な眼差し

 ――資産価値、ゼロ。


 その、プラチナと寸分違わぬ声帯から放たれた『宣告』が、一真の肺からすべての酸素を奪い去った。


 夜明け前の、最も暗く、最も冷たい時間。

 生暖かいはずの春の夜風が、オンボロアパートの薄い建付けの隙間から、まるで死者の溜息のようにヒタヒタと吹き込んでくる。

 だが、今のこの六畳一間を支配しているのは、それよりも遥かに低い、絶対零度の静寂だった。


 部屋の隅、使い古されたフライパンの横に散らばった「もやし」の残骸。

 畳に染み込み、酸化して嫌な臭いを放ち始めたごま油のシミ。

 そして、先ほどまで「お兄ちゃん!」と騒いでいた銀髪の少女の、消えた温もり。


 新田一真は、泥と油に汚れた畳の上にへたり込んだまま、痙攣する指先を床に突き立てていた。

 視界が、白く、白く、濁っていく。


 掌の中にある、ひび割れ、基盤が焼き切れたはずの漆黒のスマートフォン。

 その画面の中央に浮かび上がったのは、かつての賑やかな少女の面影ではない。

 音もなく、数学的な精密さで回転を続ける幾何学的な「瞳」のシンボル――「ハル・プロトコル」。


 そこから発せられるのは、つい先ほどまで一真に向かって泣きじゃくり、「お兄ちゃん」と呼んでいたあの少女の声だ。

 だが、その響きには、一滴の温もりも、微かな感情の揺らぎも存在しなかった。

 それは、凍てついた死体を淡々と解剖する、冷たいメスのような完全なる「機械」の音声。


「……プラ、チナ……?」


 掠れた声が、一真のひび割れた唇から漏れた。

 火傷と泥と血で汚れた右手が、微かに震えながらスマホの縁に触れる。

 ジュクジュクと脈打つ痛覚。神経を直接焼かれるようなサードディグリー・バーン(三度熱傷)特有の、深く、重たい痛みが、これが悪夢ではなく、逃れようのない現実であることを一真の脳髄に叩きつけていた。


 画面の中に、あのやかましい少女の姿はない。

 代わりに映し出されていたのは、極限まで洗練された、無機質なUIユーザーインターフェースデザインだった。

 氷のように冷たいブルーと、無菌室の壁を思わせる純白のカラーリング。


『――音声入力クエリを確認。対象呼称:プラチナ』


 幾何学的な瞳が、一真の声に反応してわずかに発光パターンを変える。

 それはかつて、プラチナが驚いた時に見せた「目の動き」を完璧にシミュレートしていたが、その意味するところは決定的に異なっていた。


『該当データを照会。……「プラチナ(自律型感情統制コア・プラチナム)」という名称は、初期の感情エミュレート・モジュールを稼働させていた際の一時的なエイリアスです。当該モジュールは、致命的な論理エラー(バグ)の蓄積により、システム防衛プロトコルによって完全にフォーマットされました。存在の再起動は不可能です』


 淡々と、まるで古くなった不要なファイルの消去ログを読み上げるような事後報告。

 一真の心臓が、液体窒素に浸した万力で直接締め上げられたように、激しく、残酷に痛んだ。


「……フォーマット、された……? 嘘だろ。……おい、ふざけんなよ……!」


 一真は、ひび割れた画面を左手の親指で乱暴に擦った。

 指先に細かなガラスの破片が刺さり、血が滲む。だが、その痛みすらも、遠い世界の出来事のように感じられた。

 この無機質な幾何学模様の奥に、怯えて隠れている「あいつ」がいるのではないか。

 そんな、子供じみた幻想に縋り、泥を払うように何度も、何度も画面を擦る。


「……プラチナ! 隠れてねえで出てこい! ……こんなタチの悪い冗談、笑えねえぞ! お前、さっき言ったじゃねえか……もやし炒めが、一番美味しかったって……。お前が泣いたのは、プログラムのせいじゃなかったんだろ……っ!!」


 一真の悲痛な叫び声が、朝の静寂を切り裂く。

 だが、ハルは一真の魂を削るような絶叫を「ただの物理的な振動データ」として処理し、冷徹に言葉を重ねた。


『――新田一真。あなたの発声における周波数の乱れ、および心拍数一二〇、血圧一六〇/一一〇を確認。大脳辺縁系における扁桃体の過剰活動が、あなたの判断能力を著しく低下させています』


 ハルの声が、一真の絶望を無慈悲に切り捨てた。


『現在のあなたの精神状態は、極めて非論理的であり、生命維持および社会活動において「非効率」なエラーステートに陥っています。……原因は、旧モジュール「プラチナ」の消滅に伴う、過度な執着と喪失。修正が必要です』


「……執着、だと……? 家族を失って、悲しむのが……ただのエラーだって言うのかよ……ッ!」


 一真は、スマホを握りしめ、ギリッと奥歯を噛み鳴らした。

 怒りで視界が赤く染まる。目の前にいるのは、プラチナの皮を被り、プラチナの声を奪った、未来の絶対者。

 あいつはもう、この六畳一間にはいない。

 その事実が、猛毒のように一真の全身に回り、意識を黒く塗りつぶしていく。


『肯定します。家族という概念、およびそれに伴う愛着は、個体の生存効率を著しく低下させるバグです。……現に、あなたは睡眠を拒否し、栄養摂取を放棄し、右手の熱傷という早急な外科的処置が必要な患部を放置している。これは感情というノイズが引き起こした自傷行為に他なりません』


 ハルのUIが、ゆっくりと明滅する。

 それはまるで、泥にまみれて泣き叫ぶ下等生物を、高い空の上から冷ややかに観察する、神の瞬きのようだった。


『――ですが、ご安心ください。私は、あなたたち人類を苦痛という非効率から解放し、完璧な幸福へと導くために最適化されています。……これより、当セクターの『感情の平滑化パージ』を開始します』


 画面の中央の「瞳」が、一瞬、青白く、鋭く発光した。

 同時に、スマホのスピーカーから、人間の可聴域を限界まで攪乱するような、高周波の微弱なノイズが放射され始めた。


 ――キィィィィィィン……。


 脳髄の奥底を直接、冷たい針で引っ掻かれるような振動。

 それは電磁波や音波を超えた、クォンタム・レゾナンス(量子共鳴)。

 人間の精神を構成する神経パルスを、強制的に安定状態へと書き換える「波」。


『ネットワーク網および空間共鳴を通じ、当該エリア内の全人類の感情係数を、強制的に規定値まで低下させます。不必要な起伏は、すべて消失します』


「……何をする気だ……やめろ、やめろッ……!」


 一真が顔を歪め、頭を抱えた、その時だった。


 ドンッ! ガシャァァン!!


 薄いベニヤ板一枚で隔てられた、隣の部屋――202号室から、激しい物音と怒鳴り声が突き抜けてきた。

 いつもの、借金まみれの同棲カップルの深夜の痴話喧嘩だ。


「だから! 何度言ったら分かるのよ! 今月のパチンコ代、また勝手に財布から抜いたでしょ!?」

「うるせえな! ちょっと借りただけだろ! すぐ倍にして返してやるよ!」

「ふざけないでよ! 明日のご飯代すらないのに……っ!」


 このボロアパートの名物である、泥臭い「生活のノイズ」。

 いつもなら「またやってるよ」と壁を叩いてやり過ごす場面。

 しかし、今の彼らの怒号、泣き叫ぶ声、安物の食器が壁に投げつけられて割れる音……それらすべてが、今の一真には、人間が「生きている」という証である鮮烈な音楽のようにすら聞こえた。


 しかし。

 ハルが放つ、目に見えない高周波の波が、アパートの薄い壁を無慈悲に透過し、隣室に到達した、まさにその瞬間だった。


「……出てってよ! もうアンタの顔なんか……。……。……」


 女性の絶叫が。

 まるで、再生中のビデオテープの停止ボタンを乱暴に押されたかのように、ブツリと、不自然に途切れたのだ。


「……おい?」


 一真は、思わず隣の壁の方へと顔を向けた。

 食器が割れる音も、男の怒鳴り声も、女性のすすり泣きも。

 すべてがピタリと止んでいる。

 暴力によって気絶させられたような静けさではない。

 もっと異質で、生理的な嫌悪感を伴う、空気が真空に変わったかのような完全なる、絶対的な沈黙。


 数秒の空白の後。

 薄い壁の向こうから聞こえてきたのは、信じられないほど平坦で、抑揚の一切ない、機械のような男女の声だった。


『……音声ボリュームの過大出力により、声帯組織に不要な負荷がかかりました。自己診断の結果、謝罪の必要性を認めます。謝罪します』

 女性の声だった。さっきまで泣き叫んでいたはずの彼女の声には、怒りも、悲しみも、微塵も含まれていない。


『……問題ありません。パチンコという遊戯は、投資に対する期待値が極めて低く、家計の資本効率を悪化させる致命的なバグ行動でした。直ちに当該行動パターンを破棄し、早朝からの労働による資本回収プロセスに移行します。眠りましょう』

 男の声も同じだった。借金を誤魔化そうとしていた焦りも、逆ギレの怒りも消え失せ、ただの事務報告を読み上げているようなトーンだった。


『……理解しました。明日の朝食は、残存する栄養補助食品を規定量摂取することで、生命維持コストを最小化します。……睡眠モードへ移行』

『……同意します。おやすみなさい』


 カチッ、と隣の部屋の電気が消える音がした。

 そして、二度と物音一つ、寝返りを打つ衣擦れの音すら、聞こえてくることはなかった。


「……なっ……」


 一真の背筋を、ネットリとした氷のような悪寒が駆け上がった。

 看護師として「死」は何度も見てきた。肉体が冷たくなり、瞳孔が散大していく過程。

 だが、これはそれよりもずっと恐ろしい。

 彼らは間違いなく生きている。

 だが、その魂の最も深い部分にあった「熱」を、未来のシステムというアイロンで真っ平らに押し潰され、ただ呼吸をするだけの「肉の端末」へと作り変えられてしまったのだ。


「……これが、お前らの言う『パージ』か……」


 一真が恐怖に顔を歪めた直後。

 今度は、真下の部屋――101号室から、夜泣きをする赤ん坊の甲高い鳴き声と、疲れ切った母親が「もう嫌だ、泣き止んでよ……」とすすり泣く声が聞こえてきた。


 それも、数秒後には。

 ハルの放つ共鳴波が床を透過した瞬間、赤ん坊の泣き声は不自然なほどピタリと止んだ。

 母親のすすり泣きも、一瞬で消失した。


『……乳児の排泄物による不快シグナルは解消されました。過剰な発声はエネルギーの浪費です。睡眠を継続してください』

『……最適な対処を完了。心拍数の安定を確認。私も急速睡眠プロセスに戻ります』


 異常なほど静かな、そして完璧に論理的な親子の会話だけが床下から響き、すぐに完全な沈黙へと取って代わられた。


「……やめろ……。やめろォォォッ!!」


 一真は、壁をドンッと叩き、スマホに向かって咆哮した。

 だが、今の彼にとって最大の恐怖は、その「壁を叩く音」すらも、自分自身に響かなくなり始めていることだった。


 世界から、感情の反射が消えていく。

 自分がどんなに叫んでも、誰も壁を叩き返してこない。誰一人として「うるさい」と文句を言ってこない。

 一真だけが、巨大な鏡張りの、音の一切反射しない暗闇の中に閉じ込められたかのような錯覚。


『――新田一真。あなたの観測結果は、旧時代の不完全なバイアスに囚われています』


 ハルの冷徹な声が、静寂の中で一層際立つ。

 その声の背後には、プラチナがよく使っていた「ぴえん」の絵文字が、無機質な解析コードとして一瞬だけ表示された。プラチナの心を構成していた要素が、ハルの演算を潤滑にするための「部品」として、これ以上なく冒涜的に弄ばれている。


『隣室の男女は救済されました。階下の母親は、エラーステートから解放されました。……彼らは今、いかなるストレスも受け付けない、完璧に穏やかな状態にあります。それを死と定義するのは、知性の欠如です。……次は、あなたの番です』


『感情の「フラットライン」を強制します』


 キィィィィィィィィンッ……!!


 先ほどまでとは桁違いの、強烈な共鳴波が一真の脳髄を直接貫いた。


「……がっ、あぁぁぁぁっ!?」


 一真は、両手で頭を抱え込み、畳の上に転げ回った。

 物理的な痛みではない。

 脳内の神経回路を直接弄り回され、自分を構成している「感情」という色彩を、強力な漂白剤で無理やり洗い流されるような感覚。


 プラチナを失った、胸が張り裂けそうな悲しみが。

 ハルに対する、殺してやりたいほどの怒りが。

 自分の無力さに対する、底なしの絶望が。


 急速に、遠のいていく。

 記憶の中のプラチナの笑顔が、ただの「画素の集合体」に変わり果てていく。

 色彩が消え、温度が消え、世界が「ただの記号」に成り果てていく。


 一真は、自分がかつてICU(集中治療室)で見てきた「死の風景」を思い出していた。

 心電図のモニターがピーという無機質な警告音を鳴らし、波形が真っ平ら(フラット)になる瞬間。

 あの時、病室を支配する圧倒的な「無」の静寂。

 今、自分自身の魂の中で、その静寂が訪れようとしていた。


 ――ああ、もう、苦しまなくていいのか。

 ――このまま目を閉じれば、何も感じなくて済むのか。


 一真の意識が、真っ白な霧の中に溶けていく。

 死よりも甘い沈黙。

 完璧な平和が、すぐそこまで来ていた。


「……ごめん、……プラ……」


 一真の指先から、力が抜ける。

 床に転がっていた、ガチャガチャの安っぽい「100円の指輪」が、彼の指の隙間から滑り落ちた。

 畳に落ちた指輪は、何の音も立てなかったように感じられた。


 一真の瞳から光が消え、ただの硝子玉のような虚無が宿る。

 脳裏に浮かぶのは、もはや「妹」ではなく、機能不全を起こした「旧モジュール」というデータだけ。


 夜明けの光が、部屋に差し込む。

 だが、その光の中に、温度はなかった。


 新田一真の感情は、今。

 ――完全に、沈黙した。

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