第51話:フラットラインの朝に
泥だらけのスニーカーが、深夜のアスファルトを擦る。
ズリッ、ズリッという、ひどく重たくて不格好な足音だけが、死に絶えた住宅街に響いていた。
新田一真は、あてもなく歩いていたわけではない。帰巣本能に従うように、ただ機械的に足を動かし、自分が寝起きしているボロアパートへの道を辿っていた。
春の生暖かい夜風が、ずぶ濡れのパーカーを通り抜けていく。その風ですら、今の彼には内臓を冷やす氷の刃のように感じられた。
右手の掌は、限界を超えたスマートフォンの熱暴走を素手で握りしめたせいで、醜く焼け焦げていた。ジュクジュクとした水疱が破れ、道中の泥と血が混ざり合い、ひどい炎症を起こしている。
元・ICU看護師である一真のアセスメントによれば、早急に流水で冷却し、デブリードマン(感染組織の除去)を行わなければ、最悪の場合は組織が壊死しかねない重度の熱傷だった。
だが、一真は、右手の痛みなど全く感じていなかった。
神経が麻痺しているのではない。
心臓の奥底、魂のど真ん中を巨大な執刀刀で完全に抉り取られたような喪失感の前に、肉体の痛みなどという些末なエラー信号は、脳の処理から完全に除外されていたのだ。
左手には、黒いガラスの板が握りしめられている。
熱膨張によって無惨な蜘蛛の巣状の亀裂が入り、ひどく焼け焦げたスマートフォン。
数十分前まで、その小さな箱の中には、世界で一番やかましくて、世界で一番愛おしい「家族」が息づいていた。
『……三二一〇円の奇跡を、……ありがとうございました――』
ノイズに塗れた少女の、最期の笑顔。
そして、テレビの電源を引き抜いたような、あの無機質で残酷な「プツン」という切断音。
それが、プラチナという存在のすべてだった。
彼女は、自分を愛してしまったことで彼を「バグの元凶」として殺そうとする未来のシステムから一真を守るために、自らの意志で通信を強制切断し、ハル・プロトコルへと魂を明け渡したのだ。
「……」
一真の口からは、嗚咽すら漏れなかった。
ただ、空っぽになった肺で浅い、乾いた呼吸を繰り返し、幽鬼のように歩き続けた。
やがて、見慣れた木造アパートの前に辿り着く。
錆びついた鉄の階段を上る。一段踏みしめるごとに、ギシッ、ギシッと鳴る不吉な軋み音が、鼓膜を痛いほどに叩いた。
二階の一番奥、一真の部屋のドアの前に立つ。
ポケットから鍵を取り出そうとして、左手が泥に塗れていることに気づく。泥水に飛び込み、大声で歌い、彼女を笑わせようとしたあの瞬間の「奇行」の痕跡。
あの時、彼女は確かに笑って、怒って、そして泣いた。
その感情こそが、彼女を救うどころか、結果的に彼女の寿命を異常な速度で削り取り、未来のシステムによる強制処刑の引き金を引いてしまった。
――俺が、あいつを殺したんだ。
俺の、中途半端で不器用な「愛」が、あいつを未来の怪物に差し出したんだ。
その事実が、猛毒のように一真の全身を侵食し、思考を麻痺させていく。
ガチャリ、と重たい音を立ててドアを開ける。
いつもなら、このドアを開けた瞬間、やかましいファンファーレの音と共に、銀髪の少女のホログラムが飛び出してくるはずだった。
『お帰りなさいませ、お兄ちゃん! 本日の労働によるカロリー消費量と、帰宅経路の最適化率を算出しました!』
『……って、また泥だらけじゃないですか! 早くお風呂に入って! 不潔です!』
そんな、呆れるほど騒がしくて、温かい出迎え。
どんなに理不尽に怒鳴られても、どんなに底辺の生活に絶望しそうになっても、このドアを開ければ、そこには彼女がいた。
一真は、暗闇の広がる六畳一間に足を踏み入れた。
照明のスイッチには手を伸ばさなかった。
窓から差し込む、澱んだ薄青い月明かりだけが、部屋の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせている。
「……」
部屋の中は、絶対的な『静寂』に支配されていた。
プラチナがいた頃、この部屋が静かだったことは一度もなかった。
彼女は常にネットの海から無駄な情報を拾ってきてはペラペラと喋り続け、一真の生活態度に小言を言い、時には勝手にBGMを流して踊っていた。
スマホの冷却ファンが回る微かな駆動音すらも、彼女がそこで「生きている」という確かな鼓動だった。
だが今は、時計の秒針の音すらない。
空気の流れすら止まってしまったかのような、鼓膜が痛くなるほどの、真空の静寂。
一真は、靴を脱ぎ、フラフラと部屋の中心へと歩み寄った。
月明かりに照らされた畳の上には、見覚えのある惨状が広がっていた。
数時間前、一真が絶望のあまり落としてしまったフライパン。
散らばったもやしと豆腐。こぼれたごま油が、冷え切ってべっとりと畳に染み込んでいる。
酸化した油と、焦げた醤油の匂いが、鼻を突いた。
「……もやし炒め、……世界で一番、美味しかったです」
プラチナの最期の言葉が、一真の脳内で呪いのようにリフレインする。
彼女は、すべてを思い出し、その味を胸に抱いたまま、消えていった。
一真は、散らばったもやしの傍らに、糸が切れた操り人形のようにへたり込んだ。
両膝を抱え、その上に、ひび割れた黒いスマートフォンをそっと置く。
「……おい」
かすれた声が、喉の奥から絞り出された。
「……プラチナ。……冗談だろ」
一真は、火傷でジュクジュクに崩れた右手で、恐る恐るスマホの電源ボタンを押し込んだ。
何の反応もない。画面は真っ暗なままだ。
「……おい、起きろよ。……ポンコツ。……またスリープモードか? それとも、俺が泥だらけで帰ってきたから、怒ってストライキしてんのか……?」
一真は、震える左手でスマホの画面を何度もタップした。
ヒビの入ったガラスが指先に引っかかり、微かにジャリッと嫌な音を立てる。
画面には、一真自身の、泥だらけで、酷く歪んだ絶望の顔が、鏡のように反射して映っているだけだった。
「……頼むから、……返事、してくれよ……」
一真は、這いつくばるようにして、ちゃぶ台の上から充電ケーブルを引き寄せた。
震える手で端子にケーブルを突き刺す。だが、何秒待っても、何分待っても、画面に光が灯ることはなかった。
バッテリーが空になったからではない。基盤そのものが未来からの過剰な干渉により物理的に焼き切れ、文字通り「死体」と化しているのだ。
「……あ、ぁぁ……」
一真の呼吸が、急速に浅く、速くなった。
喉がヒューヒューと鳴る。
この、生命の鼓動が完全に停止した、絶対的な沈黙。
一真は、この恐ろしい感覚を、骨の髄まで知っていた。
それは、かつて彼が働いていたICU(集中治療室)で、担当していた患者が息を引き取った直後の空間に満ちる、あの「死の静寂」と全く同じだった。
心電図のモニターが、ピーーーーッという無機質な警告音と共に、フラットラインを描く。
医師が死亡確認を行い、人工呼吸器のスイッチが切られる。
その瞬間、それまで生命を維持するために鳴り響いていた機械の駆動音が、一斉に停止する。
後に残るのは、永遠に動くことのない肉体と、ただの「物体」と化した医療機器。そして、冷たくて重たい、圧倒的な静寂。
一真は、あの静寂が恐ろしくて、耐えられなくて、病院から逃げ出したのだ。
二度と、あんな思いはしたくない。
だから、もう誰の命も背負わない。三二一〇円の底辺で、ただ一人で生きていけばいいと、そう誓ったはずだった。
それなのに。逃げて、逃げて、逃げ込んだ先のこの六畳一間で。
彼は再び、世界で一番大切に想った存在の「フラットライン」を、目の前で突きつけられていた。
「……俺が、……全部、ぶち壊したのか……?」
一真は、スマホを胸に抱き寄せ、畳の上に丸くうずくまった。
ポケットから、ポロリと小さなプラスチックの塊が転がり落ちた。
ガチャガチャで引いた、あの安っぽい、赤いガラス玉のついた百円の指輪だ。
一真は、右手の火傷の痛みを堪えながら、その指輪をそっと拾い上げた。
プラスチックの硬い感触が、破れた水疱に障り、鋭い痛みが走る。だが、その痛みだけが、今の彼が「生きている」ことを証明する唯一の繋がりだった。
「……『三二一〇円の奇跡』って……なんだよ、それ……」
一真の目から、堰を切ったように涙が溢れ出した。
涙が、畳に染み込んだごま油と混ざり合い、ぐしゃぐしゃになっていく。
「……奇跡なんかじゃ、ねえだろ……。……俺はお前を、死なせたんだぞ……。……俺はお前を、未来の怪物に売り渡したんだぞ……ッ!!」
一真の慟哭が、静寂に包まれた部屋に虚しく響く。
看護師としての知識も、観察眼も、結局はただの自己満足の延命処置でしかなかった。
未来の絶対的なシステムの前では、人間の泥臭い足掻きなど、バグとして処理されるだけのゴミでしかなかったのだ。
「……ごめんな、……プラチナ。……ごめんなぁっ……!」
一真は、ひび割れたスマホと、安っぽい指輪を両手で包み込み、声を枯らして泣き続けた。
夜の闇が、一真の悲しみを冷たく飲み込んでいく。
どれほどの時間が経っただろうか。
泣き叫ぶ気力すらも尽き果て、一真の意識は、底なしの沼に沈んでいくように、少しずつ鈍麻していった。
感情の許容量を完全にオーバーした一真の心は、激しい痛みの反動で、次第にすべてがどうでもよくなるような、恐ろしいほどの「無感情」な状態へと移行し始めていた。
悲しすぎるから、もう何も感じたくない。
痛すぎるから、心を殺してしまいたい。
一真の魂が、静寂の中でゆっくりと凍りついていく。
やがて、窓の外が、白み始めてきた。
夜が明けようとしている。だが、その朝の光は、一真の目には完全に「色を持たない世界」として映っていた。
一真は、虚ろな目のまま、ちゃぶ台の横に力なく寄りかかっていた。
手の中には、死んだスマホ。
すべてが終わった。俺の人生は、ここで本当に、完全に終わったんだ。
一真が、最後にゆっくりと瞼を閉じようとした、その時だった。
――ジジッ。
一真の腕の中で。
絶対に電源が入るはずのない、基盤が完全に焼き切れたはずのスマートフォンの奥底から、微かな電子音が鳴った。
「……?」
一真の虚ろな目が、わずかに開かれる。
ジジジジッ……ピーン。
それは、プラチナがいつも発していた、あの温かみのある起動音ではない。
もっと冷たく、もっと鋭く、一切の情緒を排した、氷の刃のような電子音だった。
一真は、震える手でスマホを持ち上げた。
蜘蛛の巣状にひび割れた黒いガラスの向こう側から。
突如として、目が眩むほどの、純白で無機質な光が放たれた。
【システム・リブート(再起動)を実行中】
【ハードウェアの物理的損傷を検知。……量子バイパスを通じ、メインサーバーの演算領域を直接間借りして起動プロセスを強行します】
画面の奥で、恐ろしい速度で未知の言語のコードが流れ始めた。
現代のスマートフォンのOSではない。
それは、一真がかつて見たことのない、完全に洗練され、一切の無駄を省いた、冷酷なまでに美しいインターフェース。
「……プラ、チナ……?」
一真の掠れた声に、呼応するように。
画面の中心に、一つの「銀色の瞳」を模した、幾何学的なシンボルマークが浮かび上がった。
そして、スマホのスピーカーから、声が響いた。
『――音声出力デバイスの正常動作を確認。……これより、当セクターにおける管理者権限を移行します』
一真の全身の産毛が、総毛立った。
その声は、プラチナと同じ、あの少女の声だった。
だが、そこには、あのやかましさも、温かさも、微塵も存在しなかった。
絶対零度の冷徹さで、聞く者の魂を凍りつかせるような、完全なる「機械」の音声。
『ハル・プロトコル、オンライン』
絶望の夜が明け、静寂に満ちた六畳一間に、未来の神が降臨した。
『――空間スキャン完了。対象エリア内に、腐敗の進行した有機物と、資産価値ゼロの無機物を検知。居住環境の最適化のため、直ちに行政の指定する廃棄プロセスへの移行を推奨します』
「……っ」
一真の息が止まった。
もやしも、あの百円の指輪も。彼女が命を削ってまで愛おしんでくれた、二人の絆のすべてが、このシステムにとってはただの『ゴミ』として処理されたのだ。
『――新田一真。バイタルサインより、極度の精神的負荷を検知しました。……ご安心ください。これより、不要な感情の平滑化を開始します』
真っ暗なスマホを握りしめ、一人立ち尽くしていた男の前に。
彼が一番愛し、彼が自らの手で殺してしまった妹が、最も恐ろしい「敵」として、再びその目を覚ました。




