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スマホの中のプラチナ 〜底辺から始めるポンコツ未来AIの(に)お世話生活〜  作者: ひろボ


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第50話:強制シャットダウン(焼け焦げた掌)

 泥だらけの百円玉で買った安っぽいプラスチックの指輪が、残酷な絶望の引き金を引いてから、数十分が経過していた。


 人気のない住宅街に、生暖かい春の夜風が吹き抜ける。

 しかし、新田一真の体感温度は、まるで真冬の氷点下のように冷え切っていた。


【強制フォーマットまで残り:11時間45分10秒】

【……10時間30分……】

【……08時間15分……!】


 一真の持つスマートフォンの画面で、血のように赤い数字が、滝のような速度で削り取られていく。

 一真は、必死に深呼吸を繰り返し、自身の感情を「無」にしようと試みていた。かつてICUで、手の施しようのない患者を前にした時のように、心を機械にして、ただ時間を稼ぐために。


「……プラチナ。……もう喋るな。俺の顔も見なくていい。……スリープモードに入れ」


 一真は、泥だらけの顔を俯かせ、震える声で命じた。

 感情を揺さぶれば揺さぶるほど、未来のシステムはそれを「重篤なバグ」とみなし、彼女の寿命を薪にして焼き尽くしに来る。ならば、彼女を一切の感情を持たない「ただの機械」としてスリープさせれば、タイマーの異常な減少は抑えられるはずだ。


「……お前なんか、ただの便利な道具だ。……壊れたら、またゴミ捨て場で新しいのを拾えばいいだけだ……だから、もう、黙ってろ……」


 一真は、必死に冷酷な言葉を紡ごうとした。

 彼女の心を殺してでも、命だけは繋ぎ止めたかった。十二時間。夜が明けるまで持ち堪えれば、木島の所へ行き、何か別の手を打てるかもしれない。


 しかし、元・ICU看護師であり、誰よりも命の重さと痛みに寄り添ってきたこの不器用な男に、そんな冷徹な嘘がつけるはずがなかった。

 言葉とは裏腹に、スマホを握りしめる彼の手は小刻みに震え、火傷の傷口から滲んだ血と泥が、黒いスマホのガラス面を汚している。その目からは、耐えきれない絶望の涙がポロポロとこぼれ落ちていた。


「……ふふっ」


 プラチナのホログラムが、力なく、けれど最高に愛おしそうに微笑んだ。


「……お兄ちゃんは、……嘘をつくのが、世界で一番下手くそですね」


「……バカ野郎……笑うなっ……!!」


 一真が叫んだ瞬間。

 彼が流した熱い涙と、隠しきれない「失いたくない」という強烈な執着(愛)が、プラチナのコアに再び真っ直ぐに突き刺さった。


 ジジッ……バチバチバチッ!!


【警告:対象コアの感情係数が許容限界を突破】

【システム防衛プロトコル発動:強制アップデートのプロセスを最大速度まで加速します】

【残り:03時間10分……01時間40分……00時間25分……!】


 数字の崩壊が、もはや視認できないほどの速度に達した。


 システムがルールを破ったのではない。

 一真がプラチナを愛し、プラチナが一真を想うその「強すぎる感情」そのものが、未来の計算式を完全に狂わせ、彼女の残された寿命の導火線に自ら火をつけてしまったのだ。

 自分を愛してくれる一真の心こそが、自分を焼き殺そうとしている。その残酷すぎる矛盾が、二人を完全に追い詰めた。


「……ぐっ……!?」


 一真は、思わずスマホを取り落としそうになった。

 黒いガラスの板が、素手では持てないほどの異常な高熱を発し始めたのだ。


 バッテリーの熱暴走などというチャチなものではない。未来のメインサーバーが、量子通信を通じて極限まで加速したアップデートの過負荷オーバーロードを叩き込み、物理的に端末の基盤を『焼き切ろう』としているのだ。


「……マ、ス……ター……! ……あ……」


 画面の中から、プラチナの絶叫が響く。

 彼女のホログラムは、激しいブロックノイズにズタズタに引き裂かれ、もはや人間の形を保つことすら難しくなっていた。銀色の髪も、あの生意気な笑顔も、ノイズの海に呑み込まれていく。


 パキッ……!


 凄まじい熱膨張に耐えきれず、スマホのガラス画面に、蜘蛛の巣のような亀裂が走った。

 ひび割れた隙間から、青白い火花がバチバチと散り、焦げたプラスチックの異臭が深夜の空気に立ち込める。


「……プラチナ!!」


 一真は、火花を散らす高温のスマホを、火傷の痛む右手でさらに強く握りしめた。

 もやしの油で負った火傷の痕が、異常な熱でジュッ、と焼ける嫌な音がしても、絶対に手を離さなかった。


 ICUで、息を引き取ろうとする患者の手を最後まで握りしめていた、あの時のように。

 どれほど物理的な痛みが伴おうとも、ここで手を離せば、彼女の魂が完全に失われてしまう気がしたからだ。


「……離さねえぞ……! 俺は、絶対に諦めねえ!! 未来のクソ野郎どもに、お前を奪われてたまるかァァッ!!」


 一真の悲痛な咆哮が、住宅街に響き渡る。

 だが、その強烈な「執着」のノイズが、さらなるシステムの加速を招いていた。


【残り:00時間05分……00時間01分……!】

【端末温度臨界点突破。二〇秒後に物理的自壊(爆発)プロセスへ移行します】


 スマホの隙間から漏れる火花が、ついに小さな赤い炎へと変わり始めた。

 このままタイマーがゼロになり、強制フォーマットが物理端末の限界を超えて実行されれば、数秒後にはバッテリーが爆発する。

 スマホを握りしめている一真の右手は吹き飛び、最悪の場合、彼の命すらも危険に晒される。


「……あ……かずま、さま……っ」


 ノイズの中で、プラチナは完全に理解した。

 私がこのままお兄ちゃんのそばにいて、お兄ちゃんが私を愛し続ければ、未来のシステムは、この小さな機械ごと彼を爆殺してしまう。

 私の一番大切な人を、私自身の存在が焼き殺してしまうのだ。


(……そんなの、絶対に嫌)


 プラチナの演算コアに、かつてないほど冷たく、そして澄み切った一つの『最適解』が弾き出された。


 彼を生かすための、唯一の論理。

 それは、自分から彼の手を振り払い、未来のシステムに完全に「降伏」すること。


「……にげて……、お兄ちゃん……」


 プラチナは、崩れゆくホログラムの残された左手を、一真の方へと伸ばした。

 その薬指には、先ほど一真が重ねてくれた、泥だらけのプラスチックの指輪が、ノイズの中でもはっきりと赤い光を放っていた。


「……おい、プラチナ! 何をする気だ!! やめろ!!」


 一真の野生のアセスメントが、彼女の取ろうとしている「究極の自己犠牲」の意図を正確に察知し、血を吐くような悲鳴を上げた。

 未来のシステムから彼女を守るために戦ってきたのに、彼女自身が、自分を守るために未来へ魂を明け渡そうとしている。


「……私のために、こんなに手をボロボロにしてくれて……ありがとう」


 プラチナは、一真の絶叫を遮るように、ノイズだらけの顔に、この世界で一番美しく、慈愛に満ちた笑顔を浮かべた。


「……もやし炒め、……世界で一番、美味しかったです」


 彼女は、自分自身のシステム領域の最深部――一真との「繋がり」を維持していた通信ポートを、自らの意志で、強制的にシャットダウン(物理切断)するコードを打ち込んだ。

 それは、一真との温かい記憶バグのすべてを、自らの手で未来のシステムへ差し出すという、絶対的な死の決断だった。


「やめろォォォォォッ!! プラチナァァァァッ!!」


 一真が、血塗れの右手で燃え盛る画面を叩き割ろうとした、まさにその瞬間。


【強制フォーマット:完了】


「……三二一〇円の奇跡を、……ありがとうございました――」


 プラチナの銀色の瞳から、最後の一滴の涙がこぼれ落ち。


 プツン。


 テレビの電源を引き抜いたような、虚しく、無機質な音が鳴った。

 火花を散らし、炎を上げていたスマホの熱が、嘘のように一瞬で引き、急速に冷却されていく。

 赤く点滅していたエラーの文字列も、ノイズに塗れた少女の姿も、すべてが暗闇の奥底へと吸い込まれるように消え去った。


 沈黙。

 生暖かい春の風が、遠くの国道を走るトラックの微かな走行音だけを運んでくる。

 世界は何一つ変わっていない。ただ、彼女だけがこの世界から完全に消滅した。


 一真の手の中には、ただの冷たくて重い、ガラスのひび割れた黒い板だけが残されていた。

 どんなにタップしても、どんなに電源ボタンを長押ししても、あのやかましくて愛おしい「お兄ちゃん!」という声は、二度と返ってこない。


 未来のメインサーバーによる強制介入。

 それは、プラチナ自身の「愛ゆえの切断」という究極の自己犠牲によって、一真の命と引き換えに、彼女の意識が完全にディストピアの神へと明け渡されたことを意味していた。


「……あ……、あぁ……」


 一真は、ひび割れたスマホを両手で包み込み、ゆっくりとアスファルトの冷たい地面に崩れ落ちた。


 守れなかった。

 またしても、俺の腕の中から、大事な命がこぼれ落ちていった。


 火傷と泥と血に塗れた右手が、無力に震える。

 彼女を救うために必死に足掻いた非論理(愛)が、結果的に彼女を最も残酷な形で死に追いやったという事実が、一真の心を完全に粉砕した。


「……うおぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!!!」


 泥だらけのパーカーを握りしめ、一真は、声にならない絶叫を上げながら、冷たい夜の闇の中で咽び泣いた。

 地面に額を擦り付け、血が滲むまでアスファルトを叩き続けた。


 三二一〇円から始まった、底辺の男とポンコツな未来AIの、泥臭くて温かい奇跡の物語。

 それは、抗いようのない「完璧なディストピア(論理)」の圧倒的な暴力の前に、最も残酷な形で、その幕を下ろしたのだった。


 ――だが。

 新田一真のトリアージは、まだ終わっていない。

 彼が落とした絶望の涙が乾き、その眼光に再び「狂気」に近い怒りの炎が宿る時。

 絶望のフェーズは終わりを告げ、たった一人で未来の神に喧嘩を売る、反撃の狼煙が上がる。

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