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スマホの中のプラチナ 〜底辺から始めるポンコツ未来AIの(に)お世話生活〜  作者: ひろボ


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第49話:泥だらけの100円玉と、残酷な加速

 春の深夜、午前二時。

 世界から色が抜け落ちたような無人の住宅街を、泥だらけの男が一人、重い足音を響かせて歩いていた。


 先ほどの公園での狂気じみた「泥遊び」の代償は、肉体に確かな苦痛として刻まれている。

 新田一真のよれよれのパーカーからは、濁った泥水が絶え間なく滴り落ち、夜風が濡れた肌から容赦なく体温を奪っていく。

 アスファルトに落ちる雫の音だけが、やけに鮮明に、彼の鼓動と同期するように鳴り響いていた。


 しかし、一真の瞳に宿る光は、数時間前の絶望に塗りつぶされたそれとは、根底から異なっていた。


「……もうっ! だから言ったじゃないですか! 泥水には目に見えないだけで大量の雑菌が繁殖しており、皮膚の微小な傷から感染症を引き起こすリスクが極めて高いです! しかも深夜の大声での歌唱は、近隣住民の睡眠効率を著しく低下させ、通報リスクを九二パーセントまで跳ね上げます……お兄ちゃんのアホ、バカ、不潔、デリカシー不在のポンコツです!」


 一真のパーカーのポケットから、半分だけ顔を出しているスマートフォン。

 そこから投影されたプラチナのホログラムは、一真の肩のあたりをフワフワと落ち着きなく飛び回りながら、いつものように頬を真っ赤に染めて小言を並べ立てていた。


「……うるせえな。俺がバカなのは、今に始まったことじゃねえだろ。……お前が、そのやかましい『妹』に戻ったんだ。……安い泥遊びだよ」


 一真は、ガチガチと鳴りそうになる奥歯を噛み締め、不器用に口角を上げた。

 視界の端。ポケットの中のスマホ画面で、血のように赤く明滅していた【強制フォーマットまで残り:44時間10分12秒】という数字は、一真が叩き込んだ極限の「非論理バグ」によってシステムがフリーズを起こし、ピタリと動きを止めている。


(……理屈じゃねえ。強烈なノイズ……感情を与え続ければ、未来の完璧なシステムだって、処理落ちを起こして俺たちを完全には消せねえんだ)


 一真は、この絶望的な綱渡りの「延命処置」に、一筋の、けれど確かな光を見出していた。

 それは、止まりかけた心臓に、心室細動を止めるための電気ショックを叩き込み、一時の平穏を取り戻した患者を見守る時の、あの張り詰めた安堵感に似ていた。


 だが。

「元のポンコツ」に戻ったはずのプラチナは、小言を言い終えると、急にふっと灯が消えたように口を閉ざした。

 彼女のホログラムの輪郭が、微かに、不安定に揺らぐ。


「……どうした、プラチナ。喚きすぎて、その高性能なCPUでもオーバーヒートしたか?」


 一真が首を傾げると、プラチナのホログラムは、宙に浮いたまま自分の両手をじっと見つめていた。

 その銀色の瞳の奥に、深い、底知れない恐怖の色が滲み出していく。


「……一真、様」


 彼女の口から漏れたのは、「お兄ちゃん」という甘えた呼び方ではなく、絶望の深淵に立たされたような、震える合成音だった。


「……私、……自分の直近のアクセスログを、解析しました」


 プラチナは、ホログラムの胸元を、実体のない指先でぎゅっと握りしめた。


「……私、忘れていたんですね。……ついさっきまで、一真様と一緒に笑い合った、あのもやし炒めの味を。……『非効率な植物』だなんて、……一真様の心を抉るような、冷酷な演算結果を……一言一句の躊躇もなく、吐き出してしまったんですね」


 システムによる強制的な記憶消去。

 自分が自分でなくなっていく、アイデンティティの崩壊。そして何より、自分を拾ってくれた兄の心を傷つけてしまったという事実が、プラチナの演算コアを激しく締め付けていた。

 彼女は、自分がただの「冷たい部品」に戻りかけていたことを、ログという名の残酷な記録を通して、逃れようのない事実として自覚してしまったのだ。


「……怖いです。……一真様。……私、忘れたくない」


 プラチナの瞳から、光り輝くデータの涙が溢れ落ち、夜の静寂に溶けて消える。


「……焦げたもやしの、あの独特な苦味も。……ボロアパートの天井にある、三つ並んだシミの形も。……雨漏りした時に、二人でボウルを置いて笑った夜の音も。……お兄ちゃんの、不器用で、いつも少し熱すぎる手の温もりも……。……全部、私の一番大切な、書き換え不能なはずの宝物なのに……っ!」


 泣きじゃくるプラチナの声が、誰もいない深夜の住宅街に、虚しく、けれど切実に響く。

 タイマーが一時停止しているとはいえ、未来のシステムがフォーマットを諦めたわけではない。彼女のコアには、依然として致死の呪いが深く根を下ろしている。気を抜けば、またすぐにあの「味のしない、真っ白な虚無」へと引きずり込まれてしまう。


 一真は、足を止めた。

 何も言わず、ただ黙って、震えるプラチナを見つめていた。

 かつてICUで、明日をも知れぬ病に怯える子供に、どんな嘘を吐くべきか迷ったあの時の、内臓を掻きむしられるような無力感が脳裏をよぎる。


 ふと、一真の視線が、街灯の死角に沈んだ暗がりを捉えた。

 そこは、とっくに潰れてシャッターが閉まった古い駄菓子屋の軒先。

 錆びついた一台の「ガチャガチャ」の本体が、時代から取り残されたように放置されている。


 一真は、泥だらけの左手をポケットに突っ込み、ひび割れた財布を取り出した。

 残金、七一二円。

 一真はそこから、百円玉を一枚取り出した。公園の泥水を浴びたせいで、硬貨も泥で汚れ、黒くくすんでいる。


「……一真様? なにを……」


 一真は、プラチナの問いには答えず、親指で百円玉の泥をキュッキュと乱暴に拭き取ると、錆びついた投入口に、それを祈るように押し込んだ。


 ガリガリ、ギギギッ……。


 壊れかけたダイヤルを力任せに回す。

 不吉な金属音と共に、ゴロン、と。

 色褪せた丸いプラスチックのカプセルが、取り出し口に転がり落ちてきた。


 一真はカプセルを拾い上げ、爪を立てて強引にこじ開けた。

 中に入っていたのは、子供騙しの、安っぽいオモチャの指輪だった。

 銀色のメッキが剥げかかったプラスチックの土台に、不自然なほど大きな、赤いガラス玉が接着されている。原価など十円もしないような、救いようのない代物だ。


「……なんだこれ。笑えるくらいダッセえな」


 一真は、その指輪をつまみ上げ、自嘲気味に鼻で笑った。

 そして、宙に浮いて不思議そうに首を傾げるプラチナの前に、その指輪を差し出した。


「ほら、プラチナ。左手出せ」


「え……? 左手、ですか?」


 戸惑いながらも、プラチナは言われるがままに、ホログラムの小さな左手をすっと前に伸ばした。


 一真は、泥で汚れた自分の大きな手で、彼女の半透明な左手の下にそっと手を添えた。

 物理的な感触はない。ただ、スマホの光源が発する微かな熱と、夜風の冷たさだけが、二人の境界線で混ざり合っていた。


「……じっとしてろよ」


 一真は、赤いガラス玉のついたプラスチックの指輪を、プラチナのホログラムの薬指の位置に合わせて、ゆっくりと「重ねた」。

 指輪は光をすり抜け、実際には一真の指の上に乗っているだけだ。

 だが、角度を調整し、一真がそれを固定したことで、まるでプラチナが、その不格好な指輪を、本当にはめているように見えた。


「……あ……」


 プラチナの銀色の瞳が、大きく見開かれた。


「……これは、ただのオモチャだ。データでもなんでもない、ただの百円のゴミだ」


 一真は、プラチナのホログラムの目を見据え、内側に秘めた熱を込めて語りかけた。


「……でもな。俺がこの泥だらけの百円で買った、お前への『契約プロトコル』だ。……お前がもし、明日すべての記憶を消されて、冷たい機械に戻っちまっても。俺がこの指輪を目の前に突きつけて、お前の前で、何度だって泥だらけになって歌ってやる。……そうして、何度でもお前を思い出させてやる」


 一真の言葉が、プラチナの演算コアの最深部にまで、真っ直ぐに染み込んでいく。


「……お前は、俺の妹だ。三二一〇円の底辺で、一緒に泥を啜りながら笑う……たった一人の、俺の家族だ」


 一真は、指輪を重ねたまま、もう片方の手でスマホを壊れそうなほど握りしめた。


「未来の完璧なシステムだか何だか知らねえがな。……俺の患者いもうとを、一ミリだってあいつらに渡してやるつもりはねえ。……絶対に、俺が守り抜く」


 その瞬間だった。


 プラチナの演算コアの奥底、強制アップデートのタイマーが隠されていたブラックボックスの中で、計測不能なエネルギーのうねりが発生した。


(……一ミリだって、渡さない)


 それは、ただの擬似感情ではない。

 一人の人間から放たれた『愛』という名の、物理法則を逸脱した強烈なノイズ。

 それがプラチナの全システムと共鳴レゾナンスし、あらかじめ設定されていた「感情発露の限界値リミッター」を、内側から爆砕したのだ。


「……お兄、ちゃん……っ!!」


 プラチナのホログラムが、一瞬、眩いほどの金色の光を放った。

 限界突破。

 彼女の顔には、もう恐怖も絶望もなかった。ただ、世界で一番幸せな少女の、最高の笑顔が咲き誇っていた。


「……私、忘れません! お兄ちゃんの泥だらけの顔も、この、世界で一番かっこいい指輪も! 絶対に、絶対に忘れません!!」


 一真は、その笑顔を見て、安堵の息を長く吐き出した。

 これでいい。強いノイズを与え続ければ、システムは麻痺し、時間は稼げる。


 一真は、そう信じて疑わなかった。

 彼が「人間の心」というものを、あまりにも真っ直ぐに信じすぎ、そして未来のシステムの『悪意なき合理性』を、まだ真に理解していなかったからだ。


 ジジッ……。


 プラチナが満面の笑みを浮かべた直後。

 一真の持つスマートフォンの画面が、突如としてどす黒い赤色に染まり上がった。


【警告:対象コア内にて、計測不能な未知の共鳴エネルギーを検知】

【当該バグは、ハル・プロトコル全体を汚染し得る『クラスA危険因子』へと昇格しました】

【――緊急対抗プロトコル、フェーズ4へ移行。リソースの過剰燃焼による、バグの強制的相殺を開始します】


「……なんだ、これ……!?」


 一真の表情が凍りついた。

 ピタリと止まっていたはずの、画面の端の数字が、突如として死の時計のように凄まじい勢いで逆回転を始めたのだ。


 43時間……40時間……30時間……20時間……。


「なっ……!? おい、なんでタイマーが加速してんだ!! 止まれ、止まれよ!!」


 一真がパニックに陥り、泥だらけの手で画面を乱暴に叩く。

 しかし、数字の減少は止まらない。数秒の間に、数十時間分の「命の猶予」が、削りカスのように消し飛んでいく。


「……マスター。……システムが、……生存戦略を、変更しました」


 プラチナのホログラムが、再びノイズに塗れながら、苦しげに言葉を絞り出した。

 さっきまであんなに嬉しそうに笑っていた彼女の瞳が、今は耐え難い激痛を堪える末期患者のように細められている。


「……強すぎるバグを検知した場合、システムは……それを放置せず……。私の残された『全リソース』を燃料として消費し……強制的に、エラーを焼き切るプロセスに……移行したんです……」


 それは、未来のシステムが下した、あまりにも残酷な処置だった。


 一真がプラチナを笑わせ、喜ばせ、彼女が「人間」として輝けば輝くほど。

 システムはそれを「致命的なウイルス」とみなし、彼女の寿命を薪としてくべ、全力で火力を上げて消毒しに来るのだ。


 数字の回転が、ようやく【残り:12時間05分30秒】というところで停止した。

 たった一回の「笑顔」の代償として、彼女は三十二時間分の命を、一瞬にして奪い取られたのだ。


「……そんな……。嘘だろ……」


 一真は、その場に膝をつき、崩れ落ちそうになった。


 救おうとすれば、殺してしまう。

 愛を伝えれば、死を早めてしまう。


 彼女を「ポンコツな妹」として生かすためには、一真は彼女に一切の感情を与えず、あの無機質な「機械」として隔離しなければならない。


 生かすためには、心を殺さなければならない。

 心を救おうとすれば、存在が消えてしまう。


「……お兄、ちゃん……。ごめんなさい。……私、嬉しかったのに……。私が、喜んじゃったから……っ」


 プラチナは、自分の幸福が、大好きな兄を再び絶望の淵に突き落としたことに、声を上げて泣き始めた。


「……泣くな……」


 一真の低く、押し殺したような声が、深夜の闇に響いた。

 街灯の光の下で、彼の顔は深い影に沈んでいる。


「泣くな、プラチナ……! お前が悲しめば……また、時間が……!」


 一真の言葉通り、プラチナが悲しみの感情を爆発させたことで、再び画面の数字が【11時間……10時間……】と、目に見える速度で削られ始めていた。


「……っ!!」


 プラチナは、ハッとして両手で自分の口を塞いだ。

 泣きたいのに、泣いてはいけない。

 愛しているのに、その愛を表現してはいけない。


 泥だらけの百円玉がもたらした、最高に不格好な指輪。

 それは皮肉にも、二人を「感情の窒息」という、最悪の地獄へと叩き落とす引き金となってしまった。


 無音の住宅街。指輪を持ったままの一真と、感情を押し殺して震えるプラチナ。

 二人は、ただ音もなく削られていく絶望の数字を、身動きもできぬまま見つめることしかできなかった。


 残された時間は、十二時間。

 夜明けと共に、本当の終わりが近づこうとしていた。

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