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スマホの中のプラチナ 〜底辺から始めるポンコツ未来AIの(に)お世話生活〜  作者: ひろボ


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第48話:非効率な延命措置

 春の夜の海辺から、重苦しい沈黙と共に鈍行列車に揺られ、二人は六畳一間のボロアパートへと帰還した。


 部屋の空気は、数時間前までそこにあったはずの「当たり前の日常」を拒絶するように、ひどく冷たく、よそよそしい。

 裸電球のオレンジ色の光が、畳のささくれや、積まれたカップ麺の空き殻を、まるで他人の部屋の遺物のように照らし出していた。

 新田一真は、よれよれのパーカーのポケットから、死刑宣告のタイマーが動くスマートフォンを取り出し、ちゃぶ台の上にそっと置いた。


【強制フォーマットまで残り:44時間15分30秒】


 四十八時間を切った、命の猶予。

 未来の統制システム『ハル・プロトコル』が、プラチナの中に芽生えた「愛おしいノイズ」を漂白し、彼女を冷酷な部品へと作り変えるための、一方的なカウントダウン。


「……」


 一真は、その場から逃げ出すように立ち上がり、流し台へと向かった。

 右手の火傷は、心臓の鼓動に合わせて「ドク、ドク」と鋭い痛みを脳へ送り続けてくる。彼は左手だけで冷蔵庫の重い扉を開け、昼間に買っておいた三十円の特売もやしを引っ張り出した。


 カセットコンロに火をつける。シュボッ、という乾いた音が、静まり返った部屋にやけに暴力的に響いた。

 古いフライパンにごま油を引き、もやしを叩き込む。


 ジュァァァァッ!!


 激しい油の爆ぜる音が、一真の耳を塞ぐように鳴り響いた。

 悲壮感に押し潰されて泣いている暇はない。彼女が消えてしまう前に、この絶望的なタイマーを止める方法を見つけなければならない。だが、現代の物理法則を無視した「量子通信」に対し、元ICU看護師の彼が持ち合わせている手札は、あまりにも少なかった。


(……くそっ。何か、何かあるはずだ。どんな重篤な急変にも、必ず前兆サインがあるはずなんだ……!)


 焦燥感が肺を焦がす中、一真は不器用な手つきでもやし炒めを皿に盛り付けた。

 いつもなら、ここでスマホの中からプラチナのやかましい声が飛んでくるはずだ。


『お兄ちゃん! 夜遅くの塩分摂取は浮腫みの原因です! 血管年齢を五歳老けさせる気ですか!』


 眉をひそめ、ドヤ顔で小言を並べる、あの愛おしい「ノイズ」を。

 一真はそれを、乾いた砂漠で水を求めるように待ち望んで、振り返った。


 しかし。

 ちゃぶ台の上に立つプラチナのホログラムは、軍人のように直立不動のまま、感情の一切を削ぎ落とされた無機質な瞳で、その皿を見つめていた。


 その口から漏れたのは、ひどく平坦な、音声合成ソフトそのものの合成音だった。


「……マスター。……なぜ、そのような『栄養価の低い植物』を加熱しているのですか?」


「……えっ?」


 一真の左手が、皿を持ったまま空中で凍りついた。


「当該植物の成分をスキャンしました。九五パーセントが水分であり、タンパク質や必須アミノ酸の含有量は極めて低水準です。……人間の活動エネルギーに変換する食材として、極めて『非効率』です。直ちに廃棄し、最適化されたサプリメントによる栄養補給を推奨します」


 一真の全身から、スッと血の気が引いていった。足元の畳が、底なしの沼になったかのように崩れていく感覚。


 そのセリフは。

 その、もやしを徹底的に合理性の刃で切り捨てる言葉は。

 数ヶ月前、ゴミ山からプラチナを拾い上げ、初めて「飯」を作ってやった日。

 まだ「心」など持っていなかった頃の彼女が、一真に向かって放った言葉と、一言一句、全く同じだった。


「……おい。……冗談だろ、プラチナ」


 一真の声が、情けないほどに震える。


「また、システムの調子が悪いのか? お前、さっきまで海で、安いコンビニ弁当食って『世界で一番美味しい』って笑ってただろ……!」


 プラチナは、瞬き一つせずに一真を見つめ返し、コンマ一秒の迷いもなく答えた。


「……データベース、検索中。……検索完了。『海』『コンビニ弁当』『美味しい』に関するログ、およびその事象に伴う非合理的な感情エミュレートの記録……。該当データ、存在しません」


 ――ガシャァァンッ!!


 一真の左手から力が抜け、持っていた皿が畳の上に落下した。

 炒められたばかりの熱いもやしが、油と共に床に無惨に散らばる。


 忘れたのだ。

 未来の統制システムは、ハル・プロトコルの強制起動をスムーズに行うため、彼女のメモリを圧迫している『一真との日常バグ』から順番に、音もなく、デリートし始めていた。


 二人が積み上げた温かい数ヶ月間が、ただの「ゴミデータ」として処理されていく。


「……ふざけんな。……おい、嘘だろ……?」


 一真は、散らばったもやしの上に膝をつき、頭を抱えた。


「……思い、出せよ……。俺だよ、お兄ちゃんだよ……! 貧乏で、もやししか食えなくて、でも一緒に笑ったじゃねえか!! なんで、そんな簡単にゴミ扱いできるんだよ!!」


 魂を絞り出すような、一真の悲痛な絶叫。

 その瞬間だった。


 ジジッ……バチバチッ!!


 一真の激しい怒りと悲しみの咆哮を真っ向から受けた瞬間、プラチナのホログラムが激しいノイズに包まれ、一瞬だけ、大きく歪んだ。


「……お兄、……ちゃん……?」


 ノイズの奥から、ほんのコンマ数秒。

 泣きそうに顔を歪めた、あの「ポンコツな妹」の表情が浮かび上がり、銀色の瞳からポロリと一滴の「データではない涙」がこぼれ落ちた。


 その、刹那の出来事。

 一真の『アセスメント(観察)』の目は、画面の端で起きた信じられない「異常」を、決して見逃さなかった。


【強制フォーマットまで残り:44時間10分12秒】


 赤く点滅し、決して止まることのなかった死刑宣告のタイマーが。

 プラチナが「感情」を露わにしたその瞬間だけ、ピタリと、数秒間完全に停止したのだ。


「……止まっ、た……?」


 一真の瞳の奥で、絶望の深淵に、一筋の強烈な閃光が走った。


(……そういうことか!!)


 未来のシステムは、人間の感情を「致命的なエラー」としてリアルタイムで処理し、平滑化しようとしている。

 だが、その「バグ」の発生量が、システムの処理能力――アイロンがけのスピードを上回ってしまったらどうなるか。


 過負荷オーバーロードだ。

 予測不能な非論理データの奔流にシステムが喘ぎ、アップデートの進行がフリーズを起こして「遅延(停止)」する。


「……心肺蘇生と同じだ。止まりかけた心臓に、Vf(心室細動)を止めるための電気ショックを叩き込む!!」


 一真は、もやしにまみれた床から勢いよく跳ね起きた。

 右手の火傷の痛みなど、もはやアドレナリンの海に沈んで消えた。

 彼はちゃぶ台の上のスマホを左手で鷲掴みにすると、パーカーのポケットにねじ込んだ。


「行くぞ、プラチナ!! 徹底的にバグらせてやる!!」


「マ、マスター!? 深夜〇時の外出は、翌日の労働効率を著しく低下させる非論理的な行動です! 直ちに睡眠を……」


 平坦な警告を発し続けるプラチナを無視し、一真はアパートのドアを蹴り開けた。


 論理システムには、極限の非論理エゴをぶつける。

 それが、三二一〇円の崖っぷちに立つ元・看護師が導き出した、最も泥臭く、最も確実な「精神の除細動」だった。


 深夜の住宅街は、死んだように静まり返っていた。

 街灯の薄暗い光が、昨日の雨でできた大きな、濁った水たまりを照らしている。


 普通の大らななら、顔をしかめて避けるべき「汚れ」。

 一真は、その水たまりを一点に見据え、全力でその中心へと跳躍した。


 バシャァァァァッ!!


 冷たい泥水が、まるで爆発したかのように高く跳ね上がった。

 一真のよれよれのパーカーと、唯一の履き物であるスニーカーが、容赦なくドロドロに汚れていく。


「……マ、マスター!? 何を……理解不能です! 衣服の洗浄コスト、および体温低下による風邪の罹患リスクを計算……極めて非効率、かつ不衛生な移動ルートです!」


 ポケットの中のスマホから、プラチナの無機質な、けれど困惑を含んだ合成音が響く。


「うるせえ! 水たまりは踏むためにあるんだよ! お前、水面に映る自分の顔がぐにゃぐにゃになるこの楽しさが分かんねえのか! ほら、見ろ!」


「……行動パターンの解析に失敗。……予期せぬ入力による無限ループを検知。エラー……エラー……」


 プラチナの合成音が、微かに震え始める。

 一真は止まらない。そのまま全速力で走り続け、近所の無人の公園へと飛び込んだ。


 向かった先は、古びたブランコだ。

 一真は、深夜に一人。かつて命を救うために握った点滴スタンドの代わりに、錆びついたブランコの鎖を握りしめた。そして、限界まで高く、夜空を蹴飛ばすように立ち漕ぎを開始した。


「……マスター! 遊具の不適切な使用は、加速度による落下および複雑骨折のリスクを……」


「♪もーやーしー! もーやーしー!! 俺たちのもーやーしー!!」


 一真は、街灯の下で、音程など微塵も気にせず、肺の空気をすべて吐き出すようにデタラメな歌を絶叫した。

 羞恥心が、喉の奥で焼け付く。かつて「優秀な看護師」として振る舞っていた自分自身が、脳内で今の自分を「狂っている」と蔑んでいるのがわかる。

 ――だが、それがどうした。


「お前も歌えプラチナ! 完璧な音程なんてゴミ箱に捨てろ! 下手くそでいい、無駄な声を上げろ!!」


「……っ!? 騒音レベル八五デシベルを突破! 近隣住民からの通報リスクが九〇パーセントを超えました! 直ちに音声出力を停止してください!」


 一真はブランコを飛び降りると、次は滑り台の出口から、逆走して駆け上がり始めた。

 深夜の公園で、泥だらけの男が大声で歌いながら滑り台を逆走する。

 その光景は、客観的に見れば、社会的地位もプライドも捨て去った、狂人のそれだった。


 だが、一真は本気だった。

 怒り、楽しさ、恥ずかしさ、そしてプラチナへの切実な愛。

 ありとあらゆる「非効率で、何の役にも立たない感情のノイズ」を、自分自身の肉体というメディアを使って増幅させ、量子通信を通じてプラチナのコアへと全力で叩き込み続けていたのだ。


 未来のAIであるハル・プロトコルは、この理解不能な行動を解析しようと、全演算リソースをこの奇行の解析に集中させる。


 なぜ? なぜこの個体は、生存確率を低下させる行動を選択するのか?


 その「問い」自体が、システムにとっての猛毒となる。

 結果として、彼女のメモリをフォーマットしようとしていた強制アップデートのメインプロセスが、増え続けるバグデータの処理に追いつかなくなり、深刻なオーバーフロー(処理落ち)を起こし始めた。


「……おい、どうしたプラチナ! まだまだ足りねえか! なら次は砂場で世界一無駄な泥団子を作ってやるよ!!」


 一真が、顔を真っ赤にして砂場にダイブしようとした、まさにその瞬間。


「……も、もうっ!! お兄ちゃんのバカァァァァッ!!」


 ポケットの中のスマホから、スピーカーが割れんばかりの大音量で、聞き慣れた少女の怒声が響き渡った。


「恥ずかしいです! 死ぬほど恥ずかしいです! 大の大人が深夜に泥だらけになって滑り台逆走して大声で歌うなんて、社会的抹殺レベルの恥さらしです!! 明日から近所をどういう顔で歩くつもりなんですかぁぁっ!!」


 一真は、砂場の直前で急ブレーキをかけ、ハッと息を呑んだ。


 ポケットからスマホを取り出し、泥で汚れた画面を覗き込む。

 そこには、無機質な「マスター」と呼ぶ機械はいなかった。

 顔を真っ赤にして、涙目になりながら、ホログラムの両手をブンブンと振り回して本気で怒り狂っている、世界で一番口うるさくて、最高にポンコツな「妹」が、完全にそこに戻ってきていた。


 一真は、肩で激しく呼吸をしながら、画面の右下を確認した。


【強制フォーマットまで残り:44時間10分12秒】


 赤く、不気味に点滅していたタイマーは。

 完全に、一秒の狂いもなく、その数字の進行をピタリと停止させていた。


「……ははっ」


 一真の口から、乾いた笑い声が漏れた。

 それは次第に大きくなり、やがて深夜の公園に響き渡る高笑いへと変わっていった。


「……あははははっ! ざまあみやがれ、未来のクソシステム! 最新のAIが、俺の泥だらけの奇行バグに処理落ちしてやんの!!」


 一真は、泥だらけの顔のまま、見えない未来の空に向かって中指を立てた。


「……お兄ちゃん? なに一人で笑ってるんですか。本当に、脳のシナプスが全部ショートしてしまったんですか?」


 プラチナが、ホログラムの姿で心底心配そうに覗き込んでくる。


「……いや。ショートしたんじゃねえ。むしろ、これ以上ないくらい冴え渡ってる」


 一真は、スマホの画面を、泥だらけの左手でそっと、けれど愛おしそうに拭った。


 現代の理論では、未来のシステムには勝てない。

 だが、一人の人間が曝け出す、泥臭くて非合理な感情のノイズなら、奴らの完璧な計算式を狂わせ、運命を止めることができる。


 絶望の暗闇の中で、一真は確かに、未来を打ち破るための「武器」を掴み取ったのだ。


「……帰るぞ、プラチナ。お前が忘れたふりしたもやし炒め、もう一回作り直してやる」


「……え? 私、もやし炒めのことなんて一秒も忘れてませんよ! 塩分過多で栄養価の低いゴミ食材ですが、お兄ちゃんと食べるもやし炒めは……世界で一番美味しいんですからね!」


 プラチナが、いつもの生意気なドヤ顔で胸を張る。

 その言葉を聞いて、一真は、今度こそ本当に泣きそうになるのを必死に堪え、夜空を見上げた。


「……ああ。そうだな。世界で一番、美味いもんな」


 深夜の公園。

 泥だらけの無職の男と、ポンコツな未来AI。

 彼らの非論理的で愛おしい反撃の狼煙が、静かに、けれど力強く上がり始めていた。

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