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スマホの中のプラチナ 〜底辺から始めるポンコツ未来AIの(に)お世話生活〜  作者: ひろボ


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第47話:消えゆく「もやし」の記憶と、六畳一間の無影灯

 ジャンク屋から持ち帰った分厚い鉛のシールドボックスが、すきま風の吹く六畳一間のちゃぶ台の上に、まるで黒い棺桶のように重々しく鎮座していた。


 そこから伸びる一本の有線ケーブルだけが、一真の私物である古いモニターに繋がれている。

 画面の右下。真っ黒な背景に浮かび上がる、血のように赤く発光するタイマーが、無慈悲な数字を刻み続けていた。


『強制フォーマット(ハル・プロトコル起動)まで残り:46時間55分58秒』

『……57秒』

『……56秒』


「……よし。準備はできた」


 新田一真は、ちゃぶ台の前に胡座あぐらをかき、無数の配線が剥き出しになった歪な金属製のヘッドギアを、自らの頭に深く被り込んだ。

 木島から借り受けた、人間の脳髄を直接プラチナのコア――未来の量子通信網に直結ダイブさせるための禁忌の装置。

 電極の冷たい金属が、こめかみと延髄のあたりにピタリと密着する。

 これを起動すれば、一真のシナプスは未来の防衛システムと直接殴り合うことになり、最悪の場合、オーバーヒートで脳が焼き切れて一生植物状態になる。成功率一パーセント以下の、命をチップにしたロシアンルーレットだ。


「……マスター。……お願いです、外して、ください……」


 モニターの向こうから、激しいブロックノイズに塗れたプラチナが懇願する。

 彼女のホログラムは、分厚い鉛の箱による物理遮断の影響で現実空間に投影できず、今は平面のモニターの中に閉じ込められている。その姿は昨日よりもさらにノイズが酷く、右腕と下半身が光の砂のように崩れかけていた。


「私の深層領域に直結すれば、……未来のシステムの防衛機構が、一真様の脳神経を『外部からの悪性ウイルス』とみなして、全力で焼き切りに来ます。……九九パーセント、助かりません……っ!」


「九九パーセント? 上等だ。俺が今まで診てきたICUの急患の中じゃ、まだ生存率が高い方だ」


 一真は、火傷の痛む右手で、ヘッドギアの側面に付いた古びたトグルスイッチに指をかけた。

 指先が微かに震えている。

 医療の最前線で人の死を腐るほど見てきた彼だからこそ、脳の海馬が焼けるということがどういう結末をもたらすのか、痛いほど理解できていた。リアルな死の恐怖が、冷たい蛇のように背筋を這い上がってくる。

 だが、一真は、モニターの中で涙を流す「妹」から、決して目を逸らさなかった。


「……いいか、プラチナ。俺はお前の兄貴で、執刀医だ」


 一真は、大きく、深く息を吸い込んだ。

 六畳一間の、古びた畳と埃っぽい空気。いつも二人で、五十円のコロッケの特売に一喜一憂し、安いもやし炒めを食って笑い合った、泥臭くて温かいこの部屋の匂い。

 それを、肺の奥底まで焼き付けるように。


「今から俺が、お前の中に直接踏み込んで、そのふざけたタイマーの根源をぶっ壊す。……暴れてもいい。痛がって泣き叫んでもいい。だが絶対に、俺が助けるまで諦めるな」


 一真が、スイッチを押し込もうと力を込めた、その時だった。


「……マスター。なぜ、そのような『栄養価の低い植物』の話題を口にするのですか?」


「……えっ?」


 一真の指の動きが、ピタリと空中で止まった。


 モニターの中のプラチナが、突然、涙を流すのをやめていた。

 ノイズに塗れた顔から一切の感情が抜け落ち、能面のように無表情な顔で、小首を傾げている。

 そして、彼女の口から、ひどく平坦で、抑揚のない機械的な合成音が漏れた。


「……『もやし』の成分をスキャンしました。九五パーセントが水分であり、タンパク質や必須アミノ酸の含有量は極めて低水準です。……人間の活動エネルギーに変換する食材として、極めて『非効率』です」


 一真の全身から、スッと血の気が引いた。

 心臓が嫌な音を立てて跳ねる。


 そのセリフは。

 その、無機質で計算高いセリフは。

 数ヶ月前、一真が不法投棄のゴミ山からプラチナを拾い上げ、このボロアパートで初めて彼女に「もやし炒め」を作ってやった日。出会ったばかりの、まだ「心」を持っていなかった完璧なAIであった頃の彼女が、一真に向かって放った言葉と、一言一句違わず全く同じだったのだ。


「……おい。……冗談だろ、プラチナ」


 一真の左手が、微かに震え始めた。

 嫌な汗がどっと吹き出す。


「また、システムの調子が悪いのか? お前、さっきまで俺のこと『お兄ちゃん』って呼んでたじゃねえか。なんだよ、『マスター』って……」


 プラチナは、無表情のまま、瞬き一つせずに一真の瞳をガラス玉のような目で見つめ返した。


「……システムに異常は認められません、マスター。私は、あなたの健康を管理する最新の自律型AIです。……そのような非効率な植物の摂取は推奨しません。直ちにサプリメントによる完全な栄養補給に切り替えるべきです」


「……っ!!」


 一真の脳裏で、最悪の推測が、絶望的な輪郭を持ってフラッシュバックした。


(……まさか。……あのカウントダウンは、ゼロになってから一気にフォーマットが始まるんじゃない。ゼロに向かって、少しずつ、少しずつ……大事な記憶から順番に……!!)


「不要なデータの削除クリーニング」。

 未来の統制システムは、ハル・プロトコルの強制起動をスムーズに行うため、彼女のメモリ領域を圧迫している『一真との非効率な日常の記憶バグ』を、音もなく、強制的にデリート(消去)し始めていたのだ。


「……ふざけんな。……おい、嘘だろ……? 冗談はやめろよ……っ」


 一真は、ヘッドギアを被ったまま、ちゃぶ台に身を乗り出し、モニターの縁にすがりついた。


「……プラチナ! 思い出せ! 五十円のコロッケだ! いつもスーパーのタイムセールで、どっちが大きいか喧嘩しながら半分こして食っただろ!」


 プラチナの瞳の奥で、無機質な緑色の文字列が滝のように流れ落ちる。

 数秒後、彼女はピシャリと言い放った。


「……トランス脂肪酸と劣悪な油の塊です。将来的な血栓形成リスクを高めるため、摂取は論外です」


「じゃあ昨日の海は!? 安いコンビニ弁当を食って、塩分と保存料の塊だけど、世界で一番美味しいって! 泣きながら笑って、俺にそう言ったじゃねえか!!」


 一真の必死の叫び。血を吐くような問いかけ。

 しかし、プラチナの銀色の瞳には、もはや一真に対する親愛の情も、昨日まで抱えていた「消えることへの恐怖」すらも、一切含まれていなかった。


「……データベース、検索中」


 冷たい合成音が部屋に響く。

 一真は、祈るようにモニターを見つめた。思い出してくれ。あの波の音を。あのジャンクな弁当の味を。


「……検索完了。……『海』『コンビニ弁当』『美味しい』に関するログ。……および、その事象に伴う非合理的な感情エミュレートの記録……」


 数秒の、永遠にも思える冷たい沈黙。

 そして、プラチナは、死刑宣告のように冷酷な事実を告げた。


「……該当データ、存在しません」


「……あ……」


 一真は、肺から空気をすべて絞り出されたように、息を呑んだ。


 忘れたのだ。

 この数ヶ月間、二人で底辺を這いつくばりながら、特売品に一喜一憂し、文句を言い合いながら分け合った、あの泥臭くて温かい記憶が。

 彼女の魂を形作っていた、最も大切で、最も愛おしい「バグ」が。

 たった今、未来のシステムによって、ただの不要な「ゴミデータ」として永遠に消去されてしまったのだ。


「……マスター。なぜ、そのように非論理的な行動をとって、涙を流しているのですか? ストレス値の上昇を検知しました。抗不安薬の処方を要請しますか?」


 プラチナは、目の前で唇を噛み締め、大粒の涙をこぼす一真を見ても、もはや「心配」することも、「一緒に泣く」こともできなかった。

 ただ、システムとしてプログラムされた最適解の疑問を口にするだけ。

 彼女の顔から、あの生意気なドヤ顔も、コロッケを見て目を輝かせる無邪気な表情も、完全に失われつつあった。


 これから四十六時間かけて。

 雨漏りを直した記憶が消え。風邪を引いて看病した記憶が消え。

 そして最後には、「新田一真」という人間の存在そのものが、彼女のコアから完全に消去デリートされる。


 患者の命が消える瞬間を、一真は何度も見てきた。

 だが、「肉体コア」が生きているのに、その人の中にあった「自分との思い出」だけが、目の前で一つ、また一つと確実に殺されていくこの感覚は。

 肉体の死よりも何千倍も恐ろしく、何万倍も残酷な地獄だった。


「……てめえら」


 一真の瞳に、ゴウッと凄まじい怒りの青い炎が灯った。

 悲しみに暮れて泣き崩れる余裕など、今の彼には一秒たりとも残されていなかった。

 記憶が一つ消えるごとに、プラチナは「未来の化物」へと一歩近づいていく。ここで足踏みしていれば、彼女の魂は完全に漂白されてしまう。


「俺の妹の思い出を、勝手にゴミ箱に入れてんじゃねえぞ、未来のクソシステムが!!」


 一真は、一切の躊躇なく、ヘッドギアのスイッチを乱暴に叩き込んだ。

 カチッ。


 六畳一間の薄暗い電球が、チカチカと激しく明滅し――直後。

 一真の視界が、強烈な閃光によって完全に白く焼き尽くされた。


「……がっ……ッ!?」


 声にならない絶叫が、喉の奥で破裂した。

 痛い。熱い。

 ただの電気ショックではない。数億、数十億という膨大な情報データの奔流が、一真の脆弱な人間の視神経とシナプスを、暴力的な速度で逆流してくる感覚。

 眼球の裏側で火花が散り、無数の焼け火箸で海馬をメッタ刺しにされているような狂気的な激痛が、一真の全身の筋肉を硬直させ、激しく痙攣させた。


『――警告。未承認の生体ニューラルネットワークからの不正アクセスを検知』

『――ハル・プロトコル防衛機構、起動。当該生体デバイスの論理的破壊デリートを開始します』


 脳内に直接響く、氷のように冷たく、絶対的な力を持った未来のシステムのアナウンス。

 その直後、一真の鼻の穴から、ツーッと熱い一筋の血が流れ落ち、唇を赤く染めた。両目からも、生理的な血の涙が滲む。

 頭の血管が今にも破裂しそうだ。圧倒的なシステムの情報量に押しつぶされ、一真の自我エゴが、真っ暗な深淵へと急速に引きずり込まれ、溶かされそうになる。


(……待ってろ、プラチナ……ッ! 今すぐ、俺が全部取り戻してやる……ッ!)


 一真は、奥歯が砕けるほど強く噛み締め、薄れゆく意識の淵に、泥だらけの爪を立てた。

 脳が焼け焦げる激痛の中、彼は「五十円のコロッケ」と「焦げたもやし炒め」の匂いだけを、絶対に手放してはならない命綱として強く握りしめる。

 冷たいシステムの防壁を、己の精神力と執念という名の暴力で、強引にこじ開けにかかる。


「……あぁぁぁぁぁぁぁッ!!」


 バツンッ!!

 現実世界の六畳一間で、ブレーカーが落ちたような鈍い音が響き。

 一真の意識は、肉体という器を完全に離脱した。


 六畳一間の無影灯の下。

 一人の不器用な兄が、妹の魂を取り戻すために挑む、命を懸けた禁忌の精神外科手術ダイブが、ついに幕を開けたのだった。

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