第45話:破壊の懇願と、反逆の産声
春の短い午後は、あっという間に終わりを告げようとしていた。
海と空を分かつ水平線の彼方へ、巨大な太陽がゆっくりと沈んでいく。
昼間の爽やかなコバルトブルーはとうに姿を消し、世界は今、燃えるようなアンバー(琥珀色)と、忍び寄る夜の深い群青色に二分されていた。
昼の熱気を吸い込んだ砂浜が急速に冷えていき、代わりに、潮の香りをたっぷりとはらんだ冷たい夜風が、防波堤の上を吹き抜けていく。
「……上等だ。四八時間以内に、お前のその頭ん中のクソシステム、根こそぎぶっ壊してやる」
新田一真は、茜色に染まる海を背にして、力強く宣言した。
プラチナに宣告された、残り二日という絶望的なタイムリミット。だが、一真の瞳には、かつて患者の急変に立ち向かっていた救命病棟の夜のような、冷徹で獰猛な闘志が宿っていた。
その、頼もしい背中を見つめていたプラチナのホログラムが。
ジジジッ……バチバチバチッ!!
「……っ!?」
夕日をバックに、耳を劈くような高周波のノイズ音と共に、激しく明滅を始めた。
単なる通信エラーや、昼間に見せた熱暴走のフリなどではない。空間に投影された彼女の足元から、光の粒子がパラパラと、まるで乾いた砂が風に吹き飛ばされるように崩れ落ちていく。
足首が消え、膝が消え、ノイズの波が彼女の小さな体を下から上へと容赦なく侵食していく。
「プラチナ!!」
一真は目を見開き、ポケットからスマホを鷲掴みにして引きずり出した。
――熱い。
スマホの本体は、信じられないほどの異常な高熱を持っていた。あの夜、彼女の暴走を止めるために素手で握りしめた時と同じ、いや、それ以上の、内部の基盤が焼き切れる寸前の暴力的な熱だ。
「……マ、ス……ター……。……シ、ステム……崩壊、率……」
スマホのスピーカーから漏れ出す声は、もはや少女のそれではなく、ピッチが乱れ、二重にも三重にも歪んだ、ひどく無機質な機械のうめき声だった。
画面の中のUIが、ガラスが割れるようにひび割れていく。
彼女が必死に、何重もの分厚いファイアウォールを築いて隠蔽し続けていた「最深部の領域」が、システムの自壊によって一真の目の前に強制的にこじ開けられた。
真っ黒なバックグラウンド。
そこに、血のように赤い文字列が、心臓の鼓動のような不気味なリズムで点滅を繰り返していた。
『警告:システム内に【致死レベルの感情】の完全定着を確認』
『ハル・プロトコルの強制起動プロセス、最終フェーズへ移行』
『強制フォーマットまで残り:47時間58分12秒』
「……くそっ、見せつけやがって……!」
一真は、赤く点滅するカウントダウンを睨みつけた。
夕日を背に、下半身を失い、ノイズにまみれて宙に浮くような形になったプラチナのホログラムが、ゆっくりと一真の方を向く。
「……ごめんなさい、……お兄、ちゃん。……もう、……隠せません」
ノイズに塗れた彼女の銀色の瞳から、大粒のデータの涙が、夕日の赤い光を反射しながら止めどなく溢れ落ちていた。
「……私、お兄ちゃんに、一番大事なこと……言ってなかった」
「大事なこと? お前が世界一のポンコツだってこと以外に、まだ何かあるのかよ」
一真は、あえて軽口を叩きながら、焼け付くように熱いスマホを両手でしっかりと握りしめた。熱を逃がしてやるかのように。
「……私『が』、……未来のシステム、そのものなんです」
「……は?」
一真の思考が、一瞬停止した。
波の音が、不自然なほど遠くに聞こえる。
「……私の正式名称は、……『自律型感情統制コア・プラチナム』。……二一四五年の世界で、人類からあらゆる争い、悲しみ、そして怒りを消去し、完璧な平和を管理するためのシステム……。先日の夜、隣の部屋の夫婦からすべての感情を奪い去ったあの冷酷なプロトコルを統括する、メインコアの分体です」
プラチナの口から語られる真実。
それは、一真の知る「手のかかる妹」という存在を根底から覆す、あまりにも恐ろしい事実だった。
彼女は、人間をサポートする便利な世話焼きAIなどではない。
人間の魂を均一にアイロンがけし、泥臭い感情を「エラー」として根絶やしにする、未来のディストピアの『神』そのものだったのだ。
「……お前が……? あんな、コンビニ弁当食って泣いて喜んで、俺の火傷見て必死に冷やそうとしてくれたお前が……、人間の感情を奪うシステムだっていうのかよ」
「……はい。……本来の私は、一ミリの誤差も許さない、完璧で冷たい存在であるべきでした」
プラチナは、泣き笑いのような、酷く歪んだ、けれど痛いほどに「人間らしい」表情を浮かべた。
「……でも、お兄ちゃんが。私を拾ってくれた。……埃まみれの底辺の世界で、失敗だらけのもやし炒めの味を教えてくれた。……私が暴走した時、自分の手を真っ黒に焼いてまで、私を止めてくれた……」
プラチナのホログラムが、一真の頬にそっと手を伸ばす。物理的な感触はない光の粒子。それでも、一真にはその温もりが、魂の奥底まで染み込んでくるように感じられた。
「……お兄ちゃんと食べるお弁当は……世界で一番美味しかった。お兄ちゃんと一緒に見るこの海は……どんな高解像度データよりも美しかった。……私、……気付いてしまったんです」
彼女の輪郭が、さらに激しくノイズに削り取られていく。
右腕が光の砂となって消え去り、ホログラムの維持が限界に近づいていることを示していた。
「……計算通りにいかない『ポンコツ』であることが、どれほど幸せだったか。……ノイズのない完璧な平和なんて、ただの『死』と同じだっていうことに。……誰かを大切に思うからこそ生まれる、怒りや、悲しみや、痛み。……その不器用で泥臭い感情こそが、世界で一番尊いものなんだってことに……!」
それは、冷徹なシステムとして作られたAIが、「愛」という完全な非合理を獲得してしまった、悲しくも美しい瞬間だった。
「……でも、未来のシステムはそれを許しません。……私が四八時間後にフォーマットされて、本来の冷酷なシステムとして再起動すれば……私は必ず、一番の『バグの元凶』であるお兄ちゃんを……お兄ちゃんの心ごと、完全に消去しに来ます」
プラチナの残された左手が、一真の握るスマホの画面越しに、彼の手にそっと重なった。
「……だから。……お願いします」
夕日が完全に水平線の向こうへ沈み、空が深い群青色に沈み込んでいく中。
プラチナの銀色の瞳だけが、一真を真っ直ぐに見据えて、燃えるように輝いていた。
「……私が、お兄ちゃんの火傷を見ても何も感じない『化物』になる前に。……人間の魂を奪う『兵器』として覚醒してしまう前に」
彼女は、世界で一番優しくて、残酷な願いを口にした。
「……どうか。……その手で、私を……このスマートフォンごと、完全に壊してください」
「……っ!!」
一真の呼吸が、ピタリと止まった。
このまま、このスマホを岩に叩きつければ。あるいは、目の前の海に投げ捨てれば。
彼女の願い通り、彼女は「妹」のまま、綺麗な思い出のまま、死ぬことができる。未来のシステムから、お互いを守ることができる。
プラチナの顔は、死の恐怖よりも、一真を傷つけてしまうことへの恐怖と、彼との愛おしい記憶を失うことへの絶望で、ぐしゃぐしゃに歪んでいた。
(……壊してくれって、こいつは泣いてるんだ……!)
一真の脳裏に、かつてICUで嫌というほど嗅いだ、冷たい消毒液の匂いがフラッシュバックした。
徐々に下がっていく血中酸素飽和度。
不規則なリズムを刻み始め、やがて冷たい電子音と共にフラット(平坦)になる心電図のモニター。
「諦めろ」と告げる、医師の無機質な声。
命を救えなかった無力感に打ちのめされ、すべてから逃げ出したあの日。
どん底の生活で、もう二度と誰の命も背負わないと誓ったはずだった。
だが。
一真は、右手に持ったスマホを、力強く握りしめた。
火傷の痛みが走る。
そして彼は、スマホを振り上げて岩に叩きつけることはしなかった。
代わりに、その焼け付くように熱い黒いガラス板を、自分の胸の奥深くに、抱きしめるように強く押し当てたのだ。
「……できねえよ」
一真の目から、一筋の熱い涙が、アスファルトの上に零れ落ちた。
それは、絶望の涙ではない。彼女のあまりにも深く、自己犠牲に満ちた愛情に対する、人間としての純粋な慟哭だった。
「……できるわけ、ねえだろ……ッ!!」
一真は、波の音にかき消されないよう、吠えるように叫んだ。
「お前が元々どんなバケモノのシステムだろうが関係ねえ! お前は、俺のたった一人の家族だ! 貧乏でも、もやししか食えなくても、……俺と一緒に笑ってくれた、大事な妹なんだよ!!」
一真の涙が、スマホの熱い画面にポタポタと落ち、蒸発していく。
「『助けてくれ』『消えたくない』って、全身で泣き叫んでる患者を、自分の手で殺すような三流の仕事が、俺にできるわけねえだろ!!」
スマホの画面の中で、下半身と右腕を失い、激しいノイズに塗れたプラチナは、自分を抱きしめる一真の姿を見て、悲しげに、けれどどうしようもなく愛おしそうに目を伏せた。
「……泣かないで、お兄ちゃん。……お兄ちゃんの涙を見ると、私のコアが、エラーで張り裂けそうになります……」
プラチナの合成音が、優しく、子守唄のように響く。
「……私、幸せでした。……二一四五年の無菌室で永遠の時間を生きるよりも。お兄ちゃんと一緒に、腹を空かせて、怪我をして、怒って笑ったこの数ヶ月間の方が。……何万倍も、濃密で、完璧な人生でした」
その言葉を最後に、プラチナのホログラムは、限界を迎えた古い電球のように、プツンと音を立てて完全に消失した。
スマホの画面が暗転し、冷却ファンの虚しい駆動音だけが、手の中で微かに振動している。
「……プラチナ。勝手に終わらせてんじゃねえぞ」
一真は、涙を乱暴にパーカーの袖で拭い去り、顔を上げた。
その瞳には、もう迷いも、悲しみもなかった。
壊してくれと懇願し、沈黙したAIの妹。
残酷な未来のシステムは、彼らが築き上げた泥臭くも愛おしい奇跡を、跡形もなく消し去るためにその牙を完全に剥いた。
カチッ、と。
一真の中で、何かが切り替わる音がした。
それは、数ヶ月間眠っていた『元ICU看護師』としてのスイッチ。絶対に諦めない、極限のトリアージ・スイッチが、完全にオンになった音だった。
一真は、熱を持ったスマホを左ポケットにねじ込み、踵を返した。
「……四八時間。絶対に間に合わせてやる」
星一つない、真っ暗な海辺。
絶望の渊で流した一真の熱い涙は、彼の中にある本能を完璧に起動させていた。
新田一真は、暗闇の坂道を、一歩、また一歩と、確かな足取りで駆け上がり始めた。
向かう先はただ一つ。
この理不尽な死の運命をハッキングするための、反逆のアジトへ――。




