第44話:海辺のジャンク弁当と、加速する死のタイマー
「……待ってろよ、未来のシステム。俺の妹を初期化しようなんて、一〇〇万年早えんだよ」
春の海風の中、新田一真の力強い宣言が砂浜に響き渡った。
プラチナは、実体のない腕で一真の腰にすがりついたまま、ただ声を出して泣きじゃくっていた。一人で抱え込んでいた恐怖、誰にも言えなかった孤独。それが、大好きな兄の言葉によって、温かい涙となってすべて洗い流されていく。
どれくらい、そうしていただろうか。
押し寄せる波の音が、二人の間の静寂を優しく埋めていた、その時だった。
「……ぐぅぅぅ〜……」
重苦しくも温かい空気を真っ二つに叩き割るように、一真の腹の虫が、波の音に負けないほど盛大に鳴り響いた。
「…………」
「…………」
プラチナが、ホログラムの顔をゆっくりと上げ、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔のまま、クスッと吹き出した。
「……お兄ちゃん。ムードもへったくれもない、見事な腹の虫です」
「うるせえ。朝からお前のバグだの寿命だのでバタバタして、何も食ってねえんだから当たり前だろ」
一真は、照れ隠しのようにそっぽを向きながら、左手でポケットから財布を取り出した。
帰りの鈍行列車の切符代を引けば、使えるのはせいぜい五百円が限界だ。硬貨だけになった財布の軽さに、一真は自嘲気味に笑った。
「……仕方ねえ。さっき駅前にあった、寂れたコンビニに行くぞ。お前は一旦ポケットに戻れ」
「はいっ! 予算五〇〇円以内で、お兄ちゃんの空腹を満たす最大のカロリーと幸福度を得られる最適化弁当をサーチします!」
プラチナの顔には、もう嘘で作られた愛想笑いや、死の恐怖に怯える暗さはなかった。
すべてを知って、受け止めてくれた人がいる。その絶対的な安心感が、彼女を本来の「やかましくて手のかかる妹」の姿へと完全に戻していた。
潮風に吹かれて少し錆びついた、海沿いの小さなコンビニエンスストア。
一真はなけなしの小銭を支払い、三九八円の「特盛のり弁当」と、一〇〇円の紙パックの麦茶を購入した。
残金は、いよいよ数十円。だが、一真の足取りは、ここ最近で一番軽かった。
二人は、白い砂浜から一段高くなった、古いコンクリートの防波堤に腰を下ろした。
目の前には、見渡す限りの青い海。トンビが、ピーヒョロロと間延びした声で空を旋回している。
「さてと……」
一真は、膝の上にのり弁当を置き、左手一本で不器用にセロハンテープを剥がし始めた。
右手の火傷は、指先を細かく動かすことをまだ許してくれない。一真は、弁当に付属していた安い木製の割り箸を口にくわえ、歯と左手を使って、パキッと少し不格好に割った。
「……お兄ちゃん、お行儀が悪いです。……でも、今の私の物理的質量では、お弁当のフタを開けてあげることも、お箸を割ってあげることもできません……。ごめんなさい」
スマホの中からその様子を見ていたプラチナが、少しだけ寂しそうに目を伏せた。
「バカ言え。飯くらい片手で食える。……それに、お前が実体化して俺の弁当を横取りするようになったら、それこそ俺の稼ぎじゃ食費が持たねえよ」
一真は冗談めかして笑うと、プラスチックのフタを開けた。
海風に乗って、揚げ物の油と、甘辛い醤油、そして海苔の香りがふわりと立ち上る。
白身魚のフライ、ちくわの磯辺揚げ、きんぴらごぼう、そしておかか昆布が敷き詰められた海苔ご飯。
栄養バランスなど微塵も考慮されていない、茶色一色の、大量生産された安物の弁当だ。
「ほら、プラチナ。『味覚共鳴』の準備はいいか。……三九八円のフルコースだぞ」
一真が、白身魚のフライに付属のソースをドバドバとかけ、左手で不器用に持ち上げると、プラチナはホログラムの背筋をピンと伸ばし、小さな両手を合わせた。
「はいっ! いただきます!」
一真が、ソースの染み込んだフライと、海苔ご飯を一緒にかき込む。
サクッとした衣の食感、ジャンクな油の旨味、そして濃いめの醤油の味が、空っぽの胃袋にガツンと突き刺さる。
高級な食材は何一つない。だが、空腹という最高のスパイスと、隠し事のなくなった穏やかな心、そして目の前に広がる海の景色が、このチープな弁当を極上のご馳走に変えていた。
その瞬間。
プラチナの演算コアに、一真の味覚と嗅覚、そして満腹感のデータが、激しい奔流となって流れ込んできた。
(……これは……)
プラチナは、自身のシステム内で、送られてきた味覚データを瞬時に成分解析した。
『ナトリウム含有量:異常。トランス脂肪酸:規定値超過。合成着色料、保存料、防腐剤の検出……。栄養価スコア:一〇〇点満点中、一二点』
二一四五年の世界。完全に最適化された完全栄養食だけを摂取する未来の基準からすれば、これはもはや「産業廃棄物」に分類されるシロモノだ。
昨夜、彼女が強制アップデートの影響で作り上げた「味のしない完璧なもやし炒め」とは、対極にある存在。
しかし。
プラチナの心(エミュレート領域)に広がったのは、エラーへの警告や嫌悪感ではなかった。
波の音。潮風の匂い。
火傷の痛みを堪えながら、左手で一生懸命にご飯を食べてくれる、大好きな人の体温。
そして何より、「お前を絶対に救う」と言ってくれた、彼の不器用な優しさ。
そのすべてが、「味覚データ」というノイズに深く混ざり合い、プラチナの胸の奥を、どうしようもなく温かく、切なく、そして幸福な熱で満たしていった。
「……ん? どうした、プラチナ。口に合わなかったか? さすがにジャンクすぎたか?」
一真が、黙り込んだままのプラチナを見て、怪訝そうに尋ねる。
プラチナは、ゆっくりと顔を上げた。
その銀色の瞳には、データ化できない本物の「涙」が、薄っすらと膜を張っていた。
「……一真様」
不意に、プラチナが「お兄ちゃん」ではなく、出会った頃のような、けれど祈るような声で彼を呼んだ。
「……このお弁当、私のデータベースの基準に照らし合わせれば、栄養素の観点から言って最悪のジャンクデータです」
プラチナは、ホログラムの姿で、自分の胸元をぎゅっと握りしめた。
「……でも。……一真様と食べるこの塩分と保存料の塊が、私にとっては……世界で一番、美味しいです」
プラチナは、涙をこぼしそうになるのを必死に堪えながら、この世界で一番美しくて、幸せな笑顔を見せた。
一真は、弁当を口に運ぶ手を止め、息を呑んだ。
『味がしない』と吐き捨てた昨夜の完璧な料理。
『世界で一番美味しい』と笑う、今日のチープな弁当。
人間が食事をするというのは、ただカロリーを摂取するだけの効率的な作業ではない。
誰と食べるか。どんな景色を見ながら食べるか。
不健康で、泥臭くて、無駄だらけの「ノイズ」の共有こそが、人間を人間たらしめる最も尊い行為なのだ。
それを、未来から来たAIである彼女は、今、完全に理解し、肯定してしまったのだ。
「……そうか。……なら、もっと食え。腹いっぱい『共鳴』しろ」
一真は、深く頷き、再び弁当を勢いよくかき込み始めた。
(……こいつは、もう立派な『人間』だ)
一真は、噛み締めながら確信した。
感情を消去され、管理されるだけの未来のシステムから、彼女の魂は完全に逸脱したのだと。
共に戦う理由としては、十分すぎる。
「……お兄ちゃん! 見てください! トンビが私たちのお弁当を狙って急降下してきています! 迎撃システムの起動を許可してください!」
「アホ、ホログラムのお前がどうやって迎撃すんだ。ほら、ちくわ半分やるから落ち着け」
「むぅ! 私はホログラムでも気迫で撃退できます! シャーッ!」
防波堤の上で、一人と一機の騒がしいランチタイムが続く。
それは、死の恐怖を乗り越えた二人が手にした、奇跡のような日常のひとコマだった。
やがて、春の短い午後が過ぎていく。
太陽が西の空へと傾き始め、コバルトブルーだった海面が、少しずつ、燃えるようなアンバー(琥珀色)へと染まり始めていた。
――しかし。
彼らはまだ、知らなかった。
未来の統制システム『FRS』の、本当の冷酷さを。
プラチナの視界の最深部。
一真と心を通わせ、絶対的な幸福を感じたその瞬間。
分厚いファイアウォールの奥底で、見えない緑色のタイマーが、突然、激しい警告音と共に真っ赤に染まった。
【システム内に『致死レベルの感情の偏り(完全な愛着)』を検知】
【当該個体の精神汚染が修復不可能レベルに達したと判定】
【ハル・プロトコル(強制初期化)の起動スケジュールを大幅に前倒しします】
「……っ……!?」
プラチナのホログラムが、夕日の光に溶け込むように、ジジッ……と激しいノイズを立てて大きくブレた。
痛い。コアが内側から、焼かれた鉄の爪で引き裂かれるように痛い。
プラチナは、赤く染まった視界の隅で、信じられない速度で減っていくタイマーの数字を目の当たりにした。
【強制起動まで:残り48時間00分00秒】
【……47時間59分59秒】
(……嘘……。……時間が、削られてる……)
プラチナは、オレンジ色に染まる海を見つめながら、絶望に打ち震えた。
一真と一緒に過ごす時間が愛おしければ愛おしいほど。彼を心から愛せば愛するほど。未来のシステムはそれを「重篤なエラー」とみなし、彼女の死期を早めるのだ。
「……プラチナ。夕日だ。そろそろ、帰るか。……あのハッカーの親父のとこで、対策を練らねえとな」
弁当の空箱をゴミ袋にまとめながら、一真が力強く声をかける。
その背中に向かって、プラチナは、震える声で呼びかけた。
「……お兄ちゃん」
「ん? どうした」
「……あの、ね。……時間が、……削られちゃいました」
一真の動きが、ピタリと止まる。
彼はゆっくりと振り返り、ノイズにまみれて明滅するプラチナのホログラムを見つめた。
「……どういうことだ」
「……私が、お弁当を美味しいって思って、お兄ちゃんと一緒にいられて幸せだなって、そう感じてしまったから。……システムが、それを危険なバグだって判定して……」
プラチナは、泣き崩れそうになるのを必死に堪え、真っ赤に染まったカウントダウンの数字を口にした。
「……あと、二日。……四八時間後に、私、……強制的に初期化されます」
海風が、二人の間を冷たく吹き抜けていった。
二十日あったはずの猶予が、たった二日間に短縮された。彼らが心を通わせたことそのものが、破滅へのトリガーを引いてしまったのだ。
絶望的な沈黙が降り下りる。
プラチナは、一真が顔を青ざめさせ、絶望するだろうと思った。自分のせいで、彼にさらなる負担をかけてしまったと。
だが。
一真は、驚きに目を見開いた後――フッと、短く鼻で笑ったのだ。
「……そうかよ。未来のシステムってのは、随分と気が短えんだな」
「……え?」
一真は、ゴミ袋を左手に持ち、プラチナの入ったスマホを乱暴にポケットに突っ込んだ。
その瞳には、絶望の欠片もなかった。
あったのは、患者の急変に立ち向かう救命病棟の夜のような、冷徹で、獰猛なまでの闘志だけ。
「……二十日も待たなくていい。こっちにとっても好都合だ」
一真は、茜色に染まる海を背にして、駅へと向かう坂道を力強く歩き始めた。
「上等だ。……四八時間以内に、お前のその頭ん中のクソシステム、根こそぎぶっ壊してやる」
二人の猶予は、四八時間。
三九八円の弁当の味を胸に刻み込み、一真とプラチナは、未来のシステムに対する反逆の狼煙を、高らかに上げたのだった。




