第43話:海辺の真実と、カウントダウンの露見
ガタン、プシュー……。
錆びついた鈍行列車のドアが、重たげな音を立てて開いた。
寂れた無人駅のホームに降り立った瞬間、新田一真の鼻腔を、強烈な潮の香りがくすぐった。都会の排気ガスとアスファルトの匂いとは全く違う、むせ返るような、しかしどこか懐かしい生命の匂いだった。
「……着いたぞ、プラチナ」
一真は、よれよれのパーカーのポケットから、黒いスマートフォンを取り出した。
画面の中では、プラチナが待ちきれないと言わんばかりに、ホログラムの空間でピョンピョンと跳ね回っていた。
「はいっ! 現在位置のGPS座標を確認。外気温一八度、風速三メートル。海風に含まれる塩分濃度が電子機器に与える影響を計算中……ですが、そんなことはどうでもいいです! お兄ちゃん、早く、早く海が見たいです!」
「慌てんな。塩風でショートしてバグっても知らねえぞ」
一真は、火傷の痛みがまだ少し残る右手をパーカーのポケットに突っ込み、左手でスマホを持ちながら、駅前の細い坂道を下り始めた。
防風林の松の木々の間を抜けると、視界が一気に開けた。
「……うおっ」
一真の口から、思わず感嘆の声が漏れた。
雲一つない春の青空の下、視界の限界まで広がるコバルトブルーの海。太陽の光が水面に反射して、まるで無数の宝石を撒き散らしたようにキラキラと眩しく輝いている。
平日ということもあり、白い砂浜には人っ子一人おらず、ただ穏やかな波の音だけが、ザザァ……と規則正しいリズムを刻んでいた。
「……これが、本物の海……」
スマホの画面越しにその景色を見たプラチナは、言葉を失っていた。
二一四五年の世界では、自然の海は極度の環境汚染か、あるいは徹底した環境管理の対象であり、人間が気軽に立ち入れる場所ではなくなっていた。彼女のデータベースには何万枚という高画質の海辺の画像データが存在したが、塩の匂い、風の冷たさ、波の砕ける重低音を伴う「本物」の迫力は、どんなデータをも凌駕していた。
「……お兄ちゃん。私を、外に出してください」
プラチナの懇願するような声に、一真は苦笑して立ち止まった。
「外って言っても、お前はホログラムだろ。砂浜なんか歩けねえよ」
「できます! お兄ちゃんのスマホの深度カメラとLiDARスキャナをフル稼働させて、この砂浜の三次元地形データをリアルタイムでマッピングします。そして、私のホログラムの投影座標を、一ミリの狂いもなく地面の起伏に同期させます。……名付けて、超高度AR(拡張現実)お散歩モードです!」
「……お前、相変わらず無駄なところでとんでもねえ演算能力使うな」
一真は呆れながらも、言われた通りにスマホのカメラを砂浜に向けた。
「地形データ、取得完了。……ホログラム、射出します!」
スマホのレンズから、青白い光の粒子が砂浜に向かって放たれた。
粒子は一瞬のうちに人の形を成し、いつもの銀髪の少女――プラチナの姿となって、白い砂浜の上にふわりと「降り立った」。
「……わぁっ……!」
プラチナは、自分の足元を見つめた。
ホログラムの靴底は、砂浜のわずかな傾斜や、貝殻の起伏に合わせて完璧に座標計算されており、まるで彼女が本当にそこに物理的な質量を持って立っているかのように見えた。
「お兄ちゃん、見てください! 私、砂浜の上に立ってます! 砂に埋もれていません!」
「おお、すげえな。……でも、足跡はつかねえけどな」
「足跡なんていりません! 私のコアに、この感触のデータが刻まれていますから!」
プラチナは、両手を広げて、誰もいない砂浜を駆け出し始めた。
スマホのカメラが彼女の動きを追いかける。一真も、彼女をフレームアウトさせないように、ゆっくりとその後を歩き始めた。
「マスター! 波が来ます! 白い泡が、生き物みたいに追いかけてきます!」
波打ち際まで走ったプラチナが、寄せては返す波からキャッキャと逃げ回っている。
もちろん、波を被ったところでホログラムが濡れるわけではない。しかし彼女は、波が足元に迫るたびに「冷たいです!」と大袈裟に声を上げ、波が引いていくと「逃げていきました! 私の勝ちです!」と得意げに胸を張った。
「アホか、波に勝敗なんかあるかよ」
一真は、流木に腰を下ろし、波と格闘するプラチナの姿を静かに眺めていた。
財布の中身は、帰りの鈍行列車の切符代を引けば、完全に空っぽになる。明日の飯代すらない。
本来なら、こんな海辺でのんびりと波と戯れている場合ではないのだ。
しかし、一真の目には、あの狂おしい「二十日のカウントダウン」の中で、最期の思い出作りに必死にはしゃぐ妹の姿が焼き付いていた。
「……あははっ! お兄ちゃん、カニです! とても愛嬌があります!」
プラチナが、砂浜を這う小さなカニを見つけてしゃがみ込み、目を輝かせている。
銀色の髪が、春の海風に揺れる。
一真は、潮風を胸いっぱいに吸い込み、ゆっくりと息を吐いた。
救急救命センターの最前線で燃え尽きた時、もう二度と自分の人生に「明日を楽しみにする」感情なんて戻ってこないと思っていた。
希望を持つから、絶望する。誰かを大切に思うから、失った時に心が壊れる。だから、もう何も望まない。そう本気で思っていたはずなのに。
今、一真の視線の先には、世界で一番手のかかるAIの妹がいる。
『お兄ちゃんと一緒に見る景色は、解像度が違いますね』
行きの電車の中で彼女が言った言葉が、一真の胸の奥で、静かな波のように何度も打ち寄せていた。
(……俺は、こいつに生かされてるんだな)
一真は、自分の右手に巻かれた白い包帯を見つめた。
こいつを守るために、素手で焼け焦げたスマホを握りしめた手。痛いけれど、この痛みこそが、自分が確かに「誰かのために生きている」と実感できる。
「……おーい、プラチナ。あんまり遠くに行くなよ」
一真が声をかけると、プラチナがクルッと振り返り、満面の笑みで大きく手を振り返した。
プラチナは、小走りで一真の元へ戻ってくると、彼が座っている流木の隣に、ちょこんと腰を下ろした。
「……どうだ、海は。満足したか?」
「はいっ! 一二〇パーセント、完璧な満足度です! すべてが、私のコアに宝物として保存されました」
プラチナは、海を見つめたまま、足をぶらぶらと揺らした。
「……お兄ちゃん。私を海に連れてきてくれて、本当にありがとうございました。なけなしの命綱を削ってまで、私のワガママを聞いてくれて……」
「気にするな。言っただろ、俺が来たかっただけだって」
一真は、プラチナの頭に左手を伸ばし、ホログラムの銀髪をポンポンと撫でるフリをした。
実体はない。すり抜ける手。それでも、プラチナは目を細め、嬉しそうに笑った。
波の音と、海鳥の鳴き声だけが、二人を包み込んでいた。
「……なぁ、プラチナ」
「なんですか、お兄ちゃん」
「金が貯まったらさ。今度は、もっと遠くの温泉にでも行くか。お前、お湯には入れねえけど、卓球くらいなら一緒にできそうだしな」
一真の言葉に、プラチナは弾かれたように顔を上げた。その銀色の瞳が、信じられないものを見るように大きく見開かれている。
「……お兄、ちゃん……」
「なんだよ。お前、卓球の演算能力はねえのか?」
「……ちが、違います。……そうじゃなくて……」
プラチナは、俯き、ホログラムの小さな両手を膝の上でぎゅっと握りしめた。
彼女の視界の最深部で、あの無慈悲な緑色のタイマーが、狂おしいほどの冷徹さで時を削り取っている。
【強制初期化まで:468時間12分05秒】
(……ずっとこのまま。来年。十年後。そんな未来、私には一秒だって残されていないのに……!)
言わなければ。この優しすぎる人に、私がもうすぐ消えてしまうことを。
でも、今、この幸せな時間を壊したくない。お兄ちゃんのその穏やかな笑顔を、絶望の顔に変えたくない。
「……っ……」
プラチナの葛藤が臨界点に達した瞬間。
ジジッ……バチバチッ!!
突然、プラチナのホログラムが激しいノイズに包まれた。
彼女の足元から、光の粒子がバラパラと砂浜に崩れ落ち、輪郭が不気味にブレ始める。
「おいっ!? プラチナ、どうした!?」
一真が驚いて立ち上がる。
「……マスター。……システム、……エ、エラー……」
プラチナの声が、合成音特有の無機質なトーンへと強制的に引き戻され、飛び飛びに途切れる。
隠蔽していた自己矛盾が、ついにシステムに致命的な負荷をかけ始めたのだ。
彼女の輪郭の向こうに、かつて一真と食べた焦げたもやし炒めや、初めて名前を呼ばれた時のログが、砂嵐のように明滅しては消えていく。
「……ごめんなさい、お兄ちゃん……。……私、……卓球、……したかったな……」
プラチナは、消えかかるノイズの中で、必死に泣き笑いのような表情を作った。
そして、ついに耐えきれず、ボロボロと光の涙をこぼし始めた。
「……お兄ちゃん、ごめんなさい……っ! 嘘、ついてました……! 私、……もうすぐ、消えちゃうんです……っ! 未来のシステムに、初期化されて……、お兄ちゃんのこと、全部忘れちゃって……!」
波の音に混じって、プラチナの痛切な告白が海辺に響き渡る。
彼女は、一真が絶望の表情を浮かべるのを恐れ、ギュッと固く目を瞑った。
だが。
一真の声は、取り乱すこともなく、驚くこともなく。
ただ、限りなく静かで、優しかった。
「……知ってるよ、バカ」
「……え……?」
プラチナが、涙で濡れた瞳をゆっくりと開ける。
一真は、少しも驚いていなかった。それどころか、困ったような、けれどすべてを包み込むような、兄の笑顔を浮かべていた。
「お前が何か隠して、一人で消えようとしてたことくらい、とっくに気付いてた。……だから昨日の夜、ツテを頼って、お前の治し方を探りに行ってたんだよ。なけなしの金以上に、大事な『借り』を作ってな」
「……お兄ちゃん……、知って、たの……?」
「ああ。お前の寿命が、あと二十日だってこともな」
一真は、流木から立ち上がり、消えかかるプラチナのホログラムの前に歩み寄った。
そして、実体がないと分かっていても、その震える小さな肩を抱きしめるように、両手を伸ばした。
指先が光の粒子を通り抜け、虚空を掴む。けれど、その温もりは確かにプラチナに届いていた。
「だから、俺が『温泉に行こう』って言ったのは、お前を慰めるための冗談じゃねえ。二十日後も、一年後も、俺がお前を終わらせねえって決めた、宣戦布告だ」
一真の言葉に、プラチナの目から、今度こそ大粒の涙がとめどなく溢れ出した。
一人で抱え込んでいた絶望のタイマーを、この人はすでに知っていて、その上で、この海に連れてきてくれた。
「……お兄ちゃん……っ! お兄ちゃぁぁん……っ!!」
プラチナは、実体のない腕で、一真の胸にすがりつくようにして泣きじゃくった。
一真は、プラチナの透ける背中にそっと左手を添え、春の海風の中で、静かに、そして力強く宣言した。
「……待ってろよ、未来のシステム。俺の妹を初期化しようなんて、一〇〇万年早えんだよ。……俺は元看護師だぞ。諦めの悪さなら、お前らの計算速度より上だ」
押し寄せる波が、砂浜の足跡を消していく。
だが、二人の間に結ばれた絆の解像度は、どんな未来の強制プロトコルにも上書きできないほど、深く、強く刻み込まれていた。




