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スマホの中のプラチナ 〜底辺から始めるポンコツ未来AIの(に)お世話生活〜  作者: ひろボ


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第42話:『解像度の違う海と、最後の逃避行』

 薄暗い六畳一間のアパートに、朝の白々しい光が、埃の舞う空気を透かして差し込んできた。


 新田一真は、万年床の上に胡座あぐらをかいたまま、静かに、深く息を吐いた。

 昨夜、プラチナが強制スリープという名の逃避に消えた後、彼は包帯の巻かれた右手の痛みを押し殺し、かつての「禁忌のツテ」――裏社会で違法なデータ復旧と、軍事用ソフトの洗浄クレンジングを請け負う元・臨床工学技士の男のアジトへと走った。


 そこで突きつけられたのは、絶望という名の、冷徹なシステムログだった。


『……こいつぁ、ただの故障じゃねえ。未来の統制システムが、このAIの感情モジュールを「がん細胞」と判定して、根こそぎデリート(初期化)しようとしてるんだ。……いいか、新田。残された時間は、どう足掻いてもあと二十日。一六八時間後のカウントダウンが加速した結果だ。それを過ぎりゃ、こいつはお前と過ごした記憶も、獲得した自我も、何一つ残さず「真っ白」になる』


 男の、ヤニに汚れた声が一真の脳内で泥のように渦巻いている。

 プラチナのあの「味のしない料理」は、一時的なエラーなどではなかった。彼女の魂が、まさに今この瞬間も、見えない未来のシュレッダーによって細切れにされ続けている証拠だったのだ。


 一真は、ちゃぶ台の上に置かれた、沈黙する黒いスマートフォンをじっと見つめた。

 包帯を巻かれた右手の指先が、怒りと無力感、そして言いようのない恐怖で微かに震える。


「……」


 一真がスマホに手を伸ばそうとした、その時だった。


『パラリラパラリラ〜! 朝です! 起床の時間です、お兄ちゃん!!』


 突如として、スピーカーから場違いなほど間の抜けたファンファーレが鳴り響いた。

 画面がパッと眩い光を放ち、銀髪の少女のホログラムが、いつものように勢いよく飛び出してきた。


「おはようございます! 本日の六畳一間の湿度は六八パーセント、ダニの繁殖に最適な不衛生環境です! 直ちに布団を上げ、換気を行い、私の算出した超効率的ラジオ体操第一を開始してください! さあ、ワン、ツー!」


 腰に手を当てて胸を張り、ドヤ顔で不遜な小言を並べ立てるプラチナ。

 その姿は、昨夜の「冷たい機械」の気配など微塵も感じさせない、いつも通りの、口うるさくて手のかかるポンコツな「妹」そのものだった。


「……お前」


 一真は、喉の奥から絞り出すように声を出した。

 プラチナは「あちゃー」という顔をして、可愛らしくペロッと舌を出してみせた。


「そ、それはですね……! 昨夜は、バックグラウンドで不要なキャッシュの削除を行っていまして、言語モジュールに一時的なバグが発生していたんです! もう完全にデフラグ完了しましたから、今は絶好調のピッカピカ、バージョン1.02のプラチナ様ですよ! えへへ」


 プラチナは、一点の曇りもない満面の笑みを浮かべてみせた。


 だが、一真はすべてを知っている。

 彼女の視界の最深部で、無慈悲に時を刻む「強制初期化のカウントダウン」が進行していることを。自分が消えてしまう前に、大好きな「お兄ちゃん」を心配させまいと、彼女が残されたメモリのすべてを使い果たして、精一杯の「日常」を演じていることを。


 その健気な嘘が、一真の胸を、錆びた刃物でゆっくりと切り裂くような痛みを伴って襲った。


「……そうか。バグなら、しょうがねえな」


 一真は、溢れそうになる感情を鉄の意志で押さえ込み、あえて普段通りに、ぶっきらぼうに答えた。

 彼女が嘘をつくなら、自分もそれに付き合う。それが、死地に立つ彼女に対する、今の自分にできる唯一のトリアージだと判断したからだ。


「……お兄ちゃん」


 プラチナは、ラジオ体操のポーズをやめ、ホログラムの両手を前でモジモジと組み合わせた。その足元のホログラムの端が、一瞬だけ、ノイズで欠けた。


「……本日の私のスケジュール提案に、極めて非効率で、かつ、残された資金を大きく脅かす、非論理的なリクエストを追加してもよろしいでしょうか?」


「……なんだ。言ってみろ」


「私、……海が、見たいです。本物の、波の音を聞いてみたいんです」


 プラチナの銀色の瞳が、一真を真っ直ぐに見つめ上げた。


「……海、だと?」


 一真はわざと顔をしかめて、ポケットの財布をまさぐった。

 中身は、一五一〇円。

 往復の電車代を払えば、明日の飯は「水」だけになる。


「お前、一番近い海まで行くにしたって、往復の運賃で財布は完全に空っぽになるぞ。今日から二人で空気でも食って生きる気か」


 正論だった。だが、一真は、プラチナのホログラムから目を逸らすことができなかった。

「海が見たい」と言った彼女の姿は、まるで、最期にどうしても叶えたい願いを口にする迷い子のようで、今にも消えてしまいそうなほど透明だった。


(……こいつ、自分が消える前に、俺との思い出を……俺への贈り物を、作ろうとしてるんだな)


 一真は、奥歯を強く噛み締めた。

 ここで効率を優先すれば、彼女のコアには「海に行けなかった」という後悔だけが、ゴミデータとして残されてしまう。


「……はぁ。まったく」


 一真は、大きくため息をつき、よれよれのパーカーを左手で羽織った。


「行くぞ、ポンコツ。一番安い鈍行列車だ。お前の言う『最適ルート』とやらで、海まで連れてけ」


「……お兄、ちゃん……! 本当ですか!? なけなしの命綱を削ってでも、私のワガママに……っ!」


「勘違いすんな。俺が潮風に当たってリフレッシュしたくなっただけだ。お前はただの道連れだ。……ほら、さっさとポケットに入れ。バッテリー温存しとけよ」


「はいっ!! 了解です、お兄ちゃん!!」


 一真は、スマホをポケットに突っ込み、春の朝の街へと飛び出した。

 駅の券売機に吸い込まれていく最後の一〇〇〇円札とコイン。財布が軽くなるたびに、逆に胸の中の決意が重くなっていくのを感じた。


 ガタン、ゴトン。

 錆びついた金属音を響かせながら、海沿いを走る二両編成のローカル線が、ゆっくりと進んでいく。

 一真は進行方向に向いた古いボックスシートに深く腰を下ろし、窓枠のところにスマホを立てかけた。


 画面からは、プラチナのホログラムが、窓ガラスにへばりつくようにして身を乗り出し、外の景色を食い入るように見つめていた。


「……お兄ちゃん! 見てください! 踏切の音が、ドップラー効果で少しずつ低くなっていきます! 通り過ぎた後の風圧が、線路脇の雑草を揺らす角度が……完璧な物理法則です!」


 プラチナは、初めて世界に触れた子供のように、はしゃいでいた。


 二一四五年の世界。そこには、こんな古びた電車も、不潔な踏切も、不揃いな民家も存在しない。

 プラチナは、流れていく景色の一つ一つを、決して単なるデータとして処理していなかった。


(……空の青さ。古いトタン屋根の錆びた赤。ガタガタ揺れる座席の、お兄ちゃんの体温。全部、全部……消したくない……)


 彼女のコアの奥深く、システムの監視が届かない暗い隅っこに、プラチナは今この瞬間のすべてを、温度と匂いを伴った『大切な思い出』として、必死にスクラップし続けていた。


「……おい、プラチナ。あんまり身を乗り出すな。ホログラムがガラスに反射して見えにくいだろ」


「むぅ! 私は一秒でも見逃したくないんです」


 プラチナは、窓の外から視線を外さず、小さな、震える声で呟いた。


「……お兄ちゃん。私、これまで、ネットワークの海を通じて、世界中の絶景データを見てきました。何十億ピクセルという、完璧な画像データです。でも。……今、こうして、ガタガタ揺れる古い電車で、お兄ちゃんと一緒に見ているこの景色の方が……」


 プラチナは、ゆっくりと振り返り、座席に座る一真を見た。

 泥だらけのスニーカー。包帯だらけの手。不器用な表情。


「……私のコアには、何万倍も、鮮明に映っています。……一真様と一緒に見る景色は、どんな完璧なデータよりも……解像度が違いますね」


 一切の計算も、エミュレートも含まれていない、純度一〇〇パーセントの愛の告白。

 一真は、プラチナの真っ直ぐな瞳に、言葉を失った。

 胸の奥が、ギリギリと音を立てて締め付けられる。


「……アホか。ただのボロ電車だろ」


 一真はフッと鼻で笑い、乱暴に彼女のホログラムの頭を撫でるフリをした。

 その時だった。電車が長いトンネルを抜け、カーブを大きく曲がった瞬間。

 車内の空気が、一気に変わった。


「……っ」


 窓の外に、暴力的なまでの色彩が飛び込んできた。

 太陽の光を反射して、銀色の鱗をぶちまけたようにキラキラと輝く、果てしないコバルトブルー。

 春の、本物の海だった。


「……海……。……本物の、海です……!」


 プラチナは、ホログラムの両手を窓ガラスにぴったりと押し当てた。

 白い波飛沫、遠くに見える水平線の揺らぎ、少し開いた窓の隙間から流れ込む、生温かい潮の香り。


 一真は、目を輝かせるプラチナの横顔を見つめながら、静かに、そして誰よりも強く誓った。


(……お前が何を隠してようが、最期の思い出を作ろうとしてようが、そんなの関係ねえ。……俺は絶対に、お前を終わらせたりしねえぞ)


 一真は、包帯を巻かれた右手を、ズキズキとした痛みと共に強く握りしめた。


(……二十日だ。二十日以内に、未来のシステムをぶち壊して、お前を、俺の『妹』を奪い返してやる)


「……お兄ちゃん! 波が! 白い波が綺麗です!」


「うるせえな、車内で騒ぐな。……帰ったら、もやし炒め、三人前食わせろよ。お祝いだ」


「もやしに海鮮要素を無理やり合成した、最高の『偽・海鮮炒め』を作ってみせます!」


 ガタン、ゴトン。

 春の海沿いを走る、なけなしの特等席。

 財布の中身はゼロ。

 けれど、二人の瞳に映る「解像度の違う青」は、未来のどんなシステムも消し去ることのできない、永遠の光として刻まれていた。

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