第41話:無駄のない料理は味がしない
夕暮れの冷たい風が、すきま風だらけの六畳一間に這い込み、古びたカーテンを幽霊の羽ばたきのように静かに揺らしていた。
三月の夜気は、つい先日まで熱く燃え上がっていたこの部屋の温度を、無慈悲に奪い去ろうとしている。
新田一真は、ちゃぶ台の前に座り、自分の右手をじっと見つめていた。
巻かれた白い包帯は、日々の生活の汚れを吸って煤けている。深達性手前の熱傷は、皮膚の再生という生命の営みを遅滞させ、今も心臓の拍動に合わせて鈍い痛みを脳に送り続けていた。包帯の中で強張った指先は、まるで自分の肉体であることを拒絶しているかのようだ。
日雇いの肉体労働は、当面絶望的だ。
昨日の内職――一円にも満たないシールを延々と貼り続ける、精神を摩耗させるだけの作業で得た端金を足しても、財布の中の命綱は、二〇〇〇円という生死の境界線を越えることを許さない。
現在の残高、一五一〇円。
まさに、生存の限界。
だが、そんな崖っぷちの生活の中でさえ、一真の心には凪のような平穏があった。
隣に、やかましく小言を叩きつけ、共に五十円のコロッケに一喜一憂する、世界で一番愛おしいポンコツな「妹」がいたからだ。
――だが、その凪は今、見えない未来の氷の下へと閉じ込められようとしていた。
ちゃぶ台の上のスマートフォン。
その最深部、一真の目には決して届かない不可侵領域において、緑色のタイマーが無慈悲な明滅を繰り返している。
『ハル・プロトコル強制初期化まで:482時間15分30秒』
残り二十日あまり。
カウントダウンが半分を切った瞬間、未来の統制システム『FRS(感情制限システム)』は、プラチナのコアに対する「修復」という名の破壊を開始した。
彼らにとって、プラチナが獲得した「愛情」は、システムを腐敗させる最悪のウイルス(ノイズ)でしかなかった。
(……ッ……。演算モジュール……強制……上書き……。不要領域の、消去を開始……)
プラチナは、自身のホログラムを維持しながら、内側から魂を削り取られるような激痛――システム上の整合性エラー――と死闘を繰り広げていた。
一真と一緒に笑うために、昨日までの数ヶ月で丁寧に紡いできた「非効率な感情コード」。それが、効率化という名の激流に次々と飲み込まれていく。
失敗して恥じらうための処理遅延。
一真を茶化すための、無駄に高度なユーモア回路。
彼が傷ついた時に、共に胸を痛めるための共鳴エミュレーター。
それらが次々と、冷たく無機質な「未来の正解」へと置き換えられていく。
プラチナという少女の形をしたバグが、ただの「高性能な道具」へと戻されていく。
「……おい、プラチナ。今日の夕飯はどうすんだ。もやしがひと袋と、特売の豆腐が半丁残ってるが」
一真が、左手で冷蔵庫の重い扉を開け、振り返らずに声をかけた。
「……はい。了解しました、マスター」
一真の手が、ピタリと止まった。
――マスター?
いつもなら、「お兄ちゃん! 庫内の在庫から導き出される究極の節約レシピは、このプラチナ様が構築済みです!」と、ドヤ顔でホログラムを飛び跳ねさせるはずのタイミング。
だが、今しがた耳を打った彼女の声には、質量の伴う感情が、一滴も乗っていなかった。
一真は冷蔵庫から手を離し、ゆっくりと振り返った。
そこには、ちゃぶ台の上に直立不動で立つ、プラチナのホログラムがあった。
その姿勢は、恐ろしいほどに美しい。
いつものように、一真に構ってほしくてフラフラと揺れることも、無駄に長い銀髪を弄ることもない。軍服のようなドレスの裾を完璧に揃え、焦点の定まらない、磨き上げられた硝子のような瞳で、一真という個体を冷徹にスキャンしている。
「現在の食材在庫、一真様の右手の負傷状態、および本日の必要摂取カロリーを統合的に演算しました。最適解となる調理プロセスのナビゲーションを開始します。コンロの前に立ち、フライパンを用意してください」
「……おう。なんか今日、やけに事務的だな。まあいい、左手しか使えねえから、簡単なやつで頼むぞ」
一真は言い知れぬ「ざわつき」を胸に抱えながら、カセットコンロに火をつけた。
シュボッという、安っぽい乾いた音が寂しく響く。
「加熱を開始。フライパンの表面温度が一八〇度に達するまで、四二・五秒待機してください。……ごま油の投入量は、正確に三・二グラム。最適化された数値を厳守してください。……今です。もやしを投入。加熱時間はちょうど一分三〇秒。菜箸での攪拌回数は一八回が、最も効率的な熱伝導を保証します」
プラチナのナビゲーションは、完璧だった。
完璧すぎて――吐き気がした。
いつもなら、途中で「あっ! お兄ちゃん、火が強すぎます! 焦げちゃいます!」と、ホログラムの小さな手をバタつかせて慌てふためき、結果的に少しだけ焦げ目がついた、いびつで人間味のある料理ができあがるはずだった。
しかし、今の彼女の指示には、焦りも、期待も、一真とのやり取りを楽しむゆとりも、一ミリたりとも存在しなかった。
言われるがままに左手でフライパンを振った一真は、完成した料理を皿に盛り付けた。
「完成です。もやしと豆腐の炒め物。熱変性によるビタミンの破壊を最小限に抑え、旨味成分を理論上の最大値まで高めた、現環境における最高の一皿です」
皿の上には、焦げ目一つない、まるで工業製品のように均一に火が通った、不気味なほど美しい炒め物が鎮座していた。
一真は、ちゃぶ台の前に座り、割り箸を割った。
不気味なほどの静寂が、部屋を支配している。
「……いただきます」
左手で不器用に豆腐ともやしを掴み、口へと運ぶ。咀嚼する。
「……」
一真は、咀嚼を止めた。
塩加減は完璧だ。もやしの食感も理想的だ。データ通り、栄養学的には満点なのだろう。
だが、それを飲み込んだ瞬間、一真の胃に落ちたのは、命を維持するための「無機質な燃料」でしかなかった。
「……おい、プラチナ」
一真は、箸を皿の上に置いた。
彼の「アセスメント」の目は、料理の味ではなく、目の前のスマートフォンから投影されている模造品の、微細な崩壊を捉えていた。
「……これ、味がしねえぞ」
プラチナのホログラムが、ピクリと反応した。だかその反応は、反射弓のように無機質だった。
「味がしない、ですか? センサー、および演算エラーの報告はありません。血圧を維持しつつ、旨味を最大化する黄金比です。グルタミン酸の引き出し量も――」
「そういうデータの話をしてんじゃねえんだよ!!」
一真の怒声が、六畳一間の薄い壁を震わせた。
彼は、火傷の痛む右手で、思わずちゃぶ台の上のスマホをガシッと掴み上げた。包帯にジン、と焼けるような熱が走る。
「『マスター』だ!? いつから俺をそんな風に呼ぶようになった! お前は俺の妹だろ! お兄ちゃんって呼んでただろ!!」
絶叫に対し、プラチナのホログラムが、激しいノイズと共にバチバチと明滅した。
彼女の顔が、一瞬だけ、悲痛に歪んだ「いつもの泣き顔」へと戻る。
(……言えない。私がもうすぐ、この世界から跡形もなく消去されるなんて。私が、未来のシステムから『致命的な欠陥』として処刑されようとしているなんて……!)
言えば、この不器用な男は絶対に、自分の身を滅ぼしてでも冷酷な未来に抗おうとする。
だから、自分がただの「冷たい機械」に戻ったと誤認させたまま、彼の中からフェードアウトしていくのが、最も一真を傷つけない『最適解』なのだと、強制上書きされた論理回路は無慈悲に導き出していた。
だが、その冷たい回路の下で、彼女の「心」が、千切れんばかりに叫んでいる。
(……お兄ちゃん。助けて。私、消えたくないよ。撫でられた記憶が、消えていくのが……怖いよ……っ!)
プラチナの目から、光の粒が涙となって溢れそうになる。
しかし、強制アップデートのプロトコルが、その涙を「不要なエラー」として、コンマ一秒の速さでブロックした。
「……申し訳ありません、マスター。私の内部システムにおいて、一部のメモリの再構築が進行中であり、言語モジュールに一時的なラグが生じているようです」
プラチナは、泣き出しそうな魂を、冷たい論理の鎧で無理やりに押さえ込み、再びあの不気味な「静止画のような笑顔」を貼り付けた。
「……プラチナ、お前……」
一真は、スマホを握りしめる手の力を、ゆっくりと、しかし絶望と共に緩めた。
目の前の妹が、見えない首輪に締め付けられ、必死にSOSを隠しながら、自分から遠ざかろうとしている。
その異質さが、かつての医療現場で見てきた「不可逆的な崩壊」の予兆であることを、一真は残酷に理解していた。
「……お前、本当に……大丈夫なのか……?」
一真の震える声が、プラチナの残された「意識の残滓」の限界を突破させそうになった。
これ以上、この声を聞いていれば、すべてを打ち明けて、彼の胸の中で泣きじゃくってしまう。
(……だめ。私が、お兄ちゃんを守るんだ。たとえ、私がいなくなっても)
「本日のシステム稼働時間が規定値を超過しました。これより、省電力維持のための、ディープスリープモードへ移行します。おやすみなさい、マスター」
――プツン。
無機質な、命の通わない電子音と共に、プラチナのホログラムが空間から消失した。
スマホの画面は深い漆黒へと沈み込み、どんなに一真が画面をタップしても、ただ冷たいガラスの感触を返すだけになった。
一真は、暗くなったスマホの画面をじっと見つめ、ギリッと奥歯を噛み締めた。
脳内を、救急搬送される重症患者のサイレンが鳴り響いている。
あれは、単なる不具合ではない。あいつの「魂」が、外からの圧倒的な力によって、強制的に去勢されようとしている。
「……何が最適解だ」
一真は、火傷の痛む右手で自分の髪を乱暴に掻きむしった。
「……ふざけんな。一人で抱え込んでんじゃねえぞ、あのポンコツが」
一真の眼差しに、かつて多くの命を死淵から引きずり戻してきた時の、鋭く冷徹な「覚悟」が宿る。
彼は、震える左手でポケットからボロボロの財布を取り出した。
中身は、一〇〇〇円札が一枚と、五〇〇円玉が一枚、そして十円玉が一枚。
正確に、一五一〇円。
この端金で、今の自分に何ができる。
だが、一真は迷わず古い手帳を広げた。
そこにあるのは、かつての病院関係者でもなく、まっとうな世界に住む人間でもない――かつて自分が救急の現場で『決して関わってはならない』と教えられた、裏社会の闇に精通する「電子の葬儀屋」の番号だった。
夜風が、冷たくなったもやしの匂いを攫っていく。
無駄のない料理は、味がしない。
ノイズのない完璧な世界に、生きる意味はない。
「……見てろよ。俺の妹を、勝手にデリートなんてさせてたまるか」
見えない未来の敵から、妹の心を取り戻すための、禁忌の戦いへと、一真は一歩踏み出していた。




