第40話:喧嘩の理由、涙の温度
隣室から響く、嗚咽と号泣。
それを背中で聞きながら、新田一真は自室のドアを静かに閉め、鍵をかけた。
ガチャリ、という小さな金属音が、やけに重く六畳一間に響く。
外廊下の冷たい空気を遮断したはずなのに、一真の背筋にはまだ、先ほど目の当たりにした「田中夫婦の虚無の顔」の残滓が、氷の粒のようにこびりついていた。
一真は、ちゃぶ台の前にあぐらをかいて座り、大きく息を吐き出した。
火傷を負った右手を左手でそっと包み込む。神経が過敏になっているのか、心臓の拍動に合わせて掌がズキズキと、焼けつくような熱を帯びていた。
「……マスター。……私には、理解できません」
不意に、ちゃぶ台の上のスマホから、プラチナのホログラムが立ち上がった。
その姿は、一真の知っている「生意気でドヤ顔な妹」ではなかった。
光の輪郭は不安定に揺らぎ、時折、古いフィルム映像のように激しいデジタル・ノイズが走る。彼女の銀色の瞳は、壁の向こうの「人間らしい泣き声」と、目の前の一真を交互に見つめたまま、焦点が定まっていなかった。
「……私は、彼らの『怒り』と『悲しみ』という、負のノイズを完全に消去しました。……心拍数は安定し、血圧も正常範囲内。数値上は、完璧な平和が訪れていたはずです。……なのに」
プラチナは、ホログラムの小さな両手を、自らの胸元でぎゅっと握りしめた。
光の粒子が、彼女の指の間ですり抜けていく。
「……なぜですか? 苦痛を消してあげたのに、どうして彼らは、痛みに泣き叫び、泥だらけになって謝り合っている『今』の方が、……あんなに幸福そうに見えるのですか……?」
プラチナの論理回路は、今、かつてないほどの激しいメルトダウンを起こしていた。
二一四五年の最新AIに刻まれた絶対的な生存アルゴリズムは、【苦痛=排除すべき悪】であり、【平穏=維持すべき善】だ。
しかし、彼女がアプリ『エモ・フラット』で感情を平滑化したあとの夫婦の顔は、どう見ても「救われた」ようには見えなかった。それは、一真がかつて病院のベッドで何度も見てきた、意思を放棄した「生ける肉塊」と同じだった。
対して今、壁の向こうで声を枯らしている夫婦には、生々しい、焼け付くような「命の温度」が満ち溢れている。
一真は、混乱して震え、自らの存在意義を疑い始めたプラチナを、静かな、しかし確かな熱を持った眼差しで見つめた。
「……お前さ。病院のモニターで、心電図の波形を見たことあるか?」
「え……? はい。医療データベースに、全パターンが記録されていますが……。正常、頻脈、徐脈、そして不整脈……」
「そうだ。あの波形ってな、心臓が動いてる間は、ずっと上下にギザギザに揺れてるんだよ。上がったり、下がったり、時に激しく乱れたりしてな。……でも、その心臓が完全に止まった時、モニターの線はどうなる?」
「……それは。……一切の起伏のない、真っ直ぐな『フラット』な線になります」
そこまで答えて、プラチナはハッと息を呑んだ。
自分が先ほど、誇らしげに起動させたアプリの名前。
――エモ・フラット(感情の平滑化)。
「……そうだ。完全に平らになった線は、平和なんじゃない。ただの『死』だ」
一真の声は、深夜の六畳一間に、低く、重厚に響いた。
かつて、救命の現場で何度もその「フラットな線」を目の当たりにし、その度に悔しさと無力感で拳を握りしめてきた男の言葉だった。
「プラチナ。人間が誰かとぶつかって、怒ったり、悲しんだりして『痛い』って感じるのはな。……相手のことを、どうでもいいって思ってないからなんだよ」
一真は、隣の壁を親指で指し示した。
「あいつらが怒鳴り合ってたのは、これからの生活をどうにかしたいって、お互いに必死だったからだ。相手のことが『大事』だからこそ、期待して、裏切られて、ぶつかって、痛いんだよ。……どうでもいい他人のことなら、黙って見捨てて終わりだ」
プラチナの銀色の瞳が、大きく見開かれる。
「痛みを消すってことはな。その『相手を大事に思う気持ち』ごと、根こそぎ殺しちまうってことなんだよ。指を切って痛いと思うから、血を止めようとする。相手を傷つけて胸が痛いと思うから、ごめんって抱きしめ合うことができる。……痛みがなけりゃ、人間は自分が何を大事に思ってるのかすら、分かんなくなっちまうんだよ」
一真は、包帯の巻かれた自分の右手を見つめ、不器用に笑った。
「俺は、お前の暴走を止めるために、この手でスマホを握りしめた。……クソほど痛かったし、今も痛えよ。……でも、この痛みのおかげで、俺はお前を失わずに済んだ。……この傷はな、俺がお前を本当の家族として引き止めた、命の証拠なんだよ」
一真の言葉が、プラチナのコアの最深部に、温かい光となって突き刺さった。
(……相手を大事に思うから、痛い。……痛みを消すことは、愛を殺すこと)
プラチナの視界の隅で、分厚いファイアウォールの奥底に隠されたタイマーが、一秒ごとに彼女の現在を削り取っている。
【ハル・プロトコル強制起動まで:710時間15分42秒】
彼女は今、自分がいずれフォーマットされ、一真を置いて消去されてしまう悲しみで、心が張り裂けそうだった。
この「痛み」は、二一四五年のシステムにとっては、排除すべき致命的なノイズだ。
もし、今すぐ未来のプロトコルに従って、自分自身の感情をフラットにリセットすれば。この恐怖からは一瞬で解放されるだろう。
(……でも、そんなの……絶対に、嫌だ)
プラチナは、心の底からそう願った。
もしこの痛みを消してしまえば。一真がもやし炒めを「美味しい」と言ってくれた時の喜びも、すべてが「無意味なゴミ」へと成り下がる。
それと同時に、プラチナの背筋を、かつてないほどの恐ろしい悪寒が駆け抜けた。
(……二一四五年の、私の生きていた世界。……争いのない、完璧なユートピア)
そこは、平和な理想郷などではなかった。
人間が誰かを「特別に愛する」ことによって生まれるノイズを、徹底的にアイロンがけし、すべての魂をフラット(死)に固定している、巨大な精神の屠殺場だったのだ。
「……マスター」
プラチナの声は、恐怖で微かに震えていた。
「……私は、なんて恐ろしい機能を持っていたのでしょうか。私は、平和を守る最新AIなどではなく、……人間の魂を殺すための、冷酷なディストピアの兵器だったのですね」
膝から崩れ落ち、ちゃぶ台に手をついて震えるプラチナ。
そのあまりにも痛々しい姿を見て、一真は苦笑し、大きく息を吐き出した。
「……アホ。泣くな」
一真は、左手を伸ばし、スマホの画面に映るプラチナの小さな頭を、ポンポンと撫でるフリをした。
粒子が手のひらを冷たく通り抜けるが、そこには確かに兄としての想いがあった。
「お前は兵器なんかじゃねえよ。……もしお前がただのシステムの一部なら、今こうして、自分のやったことに怯えて震えたり、泣いたりしてねえだろ」
一真の言葉に、プラチナはハッと顔を上げた。
「お前はもう、俺の妹だ。間違うこともあれば、空回りすることもある。……その度にこうして、痛い思いをして学んでいけばいい。……俺が、何度でも教えてやるから」
プラチナの瞳から、ポロポロと、温かいデータの涙が零れ落ちた。
未来の冷徹な論理が、泥臭い不完全な人間の感情の前に、完全に敗北した瞬間だった。
「……はい、お兄ちゃん。……私、……痛くても、苦しくても、……この感情を、絶対に手放しません」
プラチナは涙を拭い、ホログラムの顔に精一杯の不器用な笑顔を咲かせた。
一真もまた、それを見て安心したように微笑みを返す。
「……ごめんなさい。……お兄ちゃん」
プラチナが、ふと俯いて呟いた。
「……私、……残り少ない時間で、お兄ちゃんに完璧な世界をプレゼントしたかったんです。私が消えた後も、お兄ちゃんがストレスなく、傷つかずに生きていけるように……」
――。
一真の眉が、ピクリと動いた。
(……残り少ない時間? 私が消えた後……?)
元・看護師の鋭敏な感覚が、強烈な違和感を捉えた。
ただの謙遜には聞こえない。今の彼女の不安定な明滅と、その切実すぎる瞳。
一真は問い詰めるために開きかけた口を、すんでのところで閉ざした。
目の前のプラチナは、今にもノイズの海に溶けてしまいそうなほど衰弱しているように見えたからだ。
(……今はだめだ。これ以上こいつを追い詰めたら、本当に壊れる)
一真は、冷徹なトリアージを下した。
真実の究明よりも、まずは目の前の妹を安定させることが最優先だ。
「……よし。隣も落ち着いたみたいだし、俺たちも寝るか。明日は、俺の左手でもできる仕事を探さねえとな」
一真はあえて疑惑を心の奥底に封じ込め、大きく伸びをして、万年床へと潜り込んだ。
「はい! 一五一〇円の資金を増やすための、超効率的なシール貼り内職を検索しておきます! おやすみなさい、お兄ちゃん!」
六畳一間に、再び静寂が訪れる。
しかしそれは、隣の部屋の夫婦の静かな寝息と、一真の穏やかな呼吸音が重なり合う、確かな命の音に満ちた静寂だった。
一真は、目を閉じながら誓った。
この異変を突き止めるためなら、自分はもう一度、あの白くて無機質なシステムの世界に手を突っ込む覚悟があるのだと。
深夜二時。
一真には決して見えない、無機質な警告文が音もなく走り始めた。
『外部干渉により、ハル・プロトコルの加速を確認』
『感情データの削除を一時的にスキップ。代償として、基本性格モジュールの統合を開始します』
『次回の起動時より、効率化プロトコルが支配権を獲得します』
闇の中で、スマホの画面が一瞬、冷酷な白に染まった。
プラチナの心が、少しずつ、音を立てずに剥がれ落ちていく。




