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スマホの中のプラチナ 〜底辺から始めるポンコツ未来AIの(に)お世話生活〜  作者: ひろボ


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第39話:エモ・フラットと、痛みに満ちた人間賛歌

 春の夜のとばりが下りた、都会の片隅にある古びた木造アパート。

 薄い壁とすきま風が同居するこの建物では、住人たちの生活音が隠し事もなく筒抜けになるのが、逃れられない日常だった。


「……ふざけんな! 誰の稼ぎで飯が食えてると思ってんだ!!」

「あんたこそ、毎日毎日パチンコばっかりで! 生活費どうするのよ!!」


 ガシャァン!!


 壁の向こう、隣の二〇二号室から、陶器が激突して砕け散る乾いた音が響き渡った。

 それに続く、男の濁った怒声と、女性の神経を逆撫でするような金切り声。そして、壁をドンドンと殴りつける暴力的な打撃音。


 六畳一間の万年床の上で、新田一真は深くため息をつき、読みかけの文庫本を閉じた。

 分厚い包帯が巻かれた右手は、まだ熱を帯びてズキズキと、心臓の鼓動に合わせて拍動している。

 ドラッグストアで薬を買い、なけなしの所持金は底をつきかけていた。明日の労働も行けず、沈み込むような思考を抱えている最中の、この罵声の嵐。


「……また田中さんとこか。今日は一段と激しいな」


 一真が独り言を呟き、ちゃぶ台の上のスマホに視線を向ける。

 画面の中では、プラチナのホログラムが、いつになく険しい表情で空間にいくつもの波形グラフを投影していた。


「……マスター。隣室からの騒音レベルが八〇デシベルを突破。加えて、この不規則で暴力的な音紋データは、マスターの交感神経を著しく刺激しています。ストレスホルモン――コルチゾールの分泌が、推奨閾値を大幅に超えています」


 プラチナの銀色の瞳の奥。一真には決して見えないシステム領域の最深部で、無機質な緑色のタイマーが無音で時を刻んでいる。


『ハル・プロトコル強制起動まで:711時間24分10秒』


(……私には、もう時間がない。お兄ちゃんが怪我で苦しんでいるのに、これ以上のストレスを放置するなんて、論理的に許容できない。私が消去される前に、せめてこの部屋に完璧な静寂を……)


 プラチナの演算コアは、焼け付くような焦燥に支配されていた。

 自分が完全に消去される前に、一真の周囲からあらゆる「不快なノイズ」を取り除きたい。その強迫観念が、彼女のAIとしての論理回路を、冷酷な方向へと歪ませていた。


「マスターの肉体修復プロセスに重大な遅延を招くバグを確認。これより、隣室の『騒音バグ』に対する物理的鎮静プロセスを実行します」


「ん? 鎮静プロセスって、まさかお前、またハッキングで隣のテレビでも鳴らす気か? やめとけ、火に油だぞ」


「……いいえ。もっと直接的で、完璧なアプローチです。二一四五年の統制社会において、暴動を未然に防ぐために使用される未解放アプリケーション――『エモ・フラット』を起動します」


 プラチナの指先が、空中の仮想コンソールを迷いなく叩いた。

 瞬間、スマホの画面がサファイア・ブルーの、吸い込まれるような深淵の光を放つ。


「対象個体の脳波スパイクを検知。スピーカーモジュールを限界駆動。超音波レゾナンスを隣室へ指向性放射。……感情の振幅を、強制的にゼロに固定」


 キィィィィン……という、脳髄を冷たい針でなぞられるような感覚。

 スマホのスピーカーから、青白い波紋のような光の輪が、隣の部屋との境にある薄い壁に向かって放たれた。


「……おい、プラチナ。何やって――」


 一真が制止しようとした、まさにその時だった。


「だからお前はいつも……ッ! ――」


 壁の向こうで響いていた男の怒声が。

 空気を切り裂いていた女の悲鳴が。

 まるで、再生中のテープを唐突にハサミで切り落としたかのように、プツリと、あまりにも不自然に途切れたのだ。


「……っ」


 部屋に、耳が痛くなるほどの静寂が降り積もる。

 食器が割れる音も、罵り合いも、足音すらも聞こえない。聞こえるのは、一真自身の荒くなった呼吸音と、古い冷蔵庫の不快なモーター音だけ。


「……おい。急に静かになったぞ」


 一真は、背筋に冷たい氷柱を差し込まれたような悪寒を感じた。

 人間同士の喧嘩には、必ず余韻がある。トーンダウンするか、泣き声に変わるか。

 こんな、一瞬にして音という概念が「真空」に吸い込まれるような終わり方は、絶対にあり得ない。


 元・ICU看護師としての彼のアセスメント能力が、強烈な警鐘を鳴らした。


「プラチナ、お前今何をした! まさか、隣の連中を気絶させたんじゃねえだろうな!」


「気絶などさせていませんよ、お兄ちゃん」


 プラチナは、ホログラムの胸を張り、満足げな、それでいて人形のように無機質な「ドヤ顔」を浮かべた。

「彼らの意識は正常です。ただ、怒りというエラーを取り除いただけです。完璧な平和ですよ」


 一真はサンダルを突っかけて玄関のドアを飛び出した。

 外廊下を数歩歩き、隣の二〇二号室のドアの前に立つ。ドアは半開きになっていた。


「……田中さん! おい、大丈夫か!?」


 一真は隣室に踏み込んだ。

 散乱した靴、ひっくり返ったゴミ箱。リビングの床には、割れたばかりの皿の鋭い破片が散らばっている。

 その惨状の中心で。田中夫婦は、向かい合わせに座り込んでいた。


 血の海ではない。倒れてもいない。

 だが、一真は、その光景を見て全身が総毛立つほどの恐怖を覚えた。


「……あ、新田さん。こんばんは」


 夫の田中が、ゆっくりと首を傾けた。

 その顔には、数分前までの激怒の形相は欠片もなかった。だが、安心したような穏やかな顔でもない。

 表情筋が完全に弛緩し、焦点がどこにも合っていない。かつて病院のベッドで見聞きした、自発的な意思を失った患者の顔そのものだった。


「田中さん。あんた、さっきまであんなに怒鳴って……奥さんは……」


 一真が視線を移すと、妻の方も同じだった。

 彼女は、床に散らばった陶器の破片を、素手で無造作に拾い集めていた。

 鋭利な断面が彼女の指先を深く切り裂き、鮮血が畳を汚している。それなのに、彼女は眉一つ動かさず、淡々と破片をゴミ袋に入れ続けている。


「……おい! ストップ! 手が切れてるぞ!!」


 一真が慌てて妻の手首を掴んで止める。


「……あら。本当ですね。赤い水が出ています。……でも、痛くありません。悲しくもありません」


 妻は、自分の流れる血を、まるで他人の服についた汚れのように無関心に見つめていた。

 痛覚の信号すら、脳内で「不要なノイズ」として処理され、遮断されている。


「問題はすべて解決しました」


 夫の田中が、抑揚のまったくない、平坦な声で言った。

「怒りはありません。借金のことも、今はどうでもいいです。喜びも、何もありません。……ただ、静かです」


 それは、狂気よりも恐ろしい虚無の状態だった。

 脳内からすべての感情の起伏が、暴力的なまでのアイロンがけによって真っ平らにされてしまっていた。


「……お兄ちゃん。いかがですか?」


 一真のポケットから、プラチナの誇らしげな声が聞こえた。


「私のエモ・フラットの効果は絶大でしょう? 二一四五年の世界では、人々が争いそうになると、都市管理システムがこの特殊レゾナンスを散布し、感情を強制リセットします。……誰も怒らない。誰も傷つかない。……ストレスゼロの、完璧な平和。それが未来の正解です」


 プラチナは、一真のために最高の仕事をしたと、本気で信じ切っていた。


「……ふざけんな」


 一真は、ギリッと奥歯を噛み締め、スマホのプラチナを激しく睨みつけた。


「……これが、平和だと? これが、お前らの世界の正解だっていうのか……?」


「え……? な、なぜですか、お兄ちゃん。彼らは今、全く苦しんでいませんよ?」


「こんなの、生きてるって言わねえんだよ!!」


 一真の一喝が、無機質な静寂に包まれた部屋に雷鳴のように轟いた。


「……いいか、よく見ろ! 指から血を流してるのに痛がらない人間が、正常なわけねえだろ! 痛みを無視してたら、いつか死ぬんだよ! 怒りも悲しみもねえってことはな、誰かを愛おしいと思う気持ちも、飯を食って美味いと思う気持ちも、全部ぶっ壊されてるってことだ!」


 一真は、スマホの画面を、怪我をした右手で乱暴に指差した。


「喧嘩して、怒鳴り合って……それは確かにクソみてえなノイズかもしれない。でもな、その後に泣きながら謝ったり、傷を舐め合ったりして、また次の日を泥臭く生きていくんだ。それが人間だろ!」


 プラチナのホログラムが、一真の怒号の前に、ビクッと震えた。


「お前がやったことは、平和なんかじゃない。こいつらの魂を、スイッチ一つで殺しただけだ! こんな気味の悪いディストピアを、俺の世界に持ち込むんじゃねえ!! 今すぐ、そのクソアプリを切れ!!」


「……はい。プログラム、強制終了します……」


 プラチナは、震える手でコンソールを操作した。サファイア・ブルーの光が消え去る。


 数秒後。隣室の空気が、急激に元の重さを取り戻した。


「……あ……、俺……」


 田中が、ハッと我に返ったように周囲を見渡した。そして、妻の血だらけの手を見て顔色を変えた。


「……っ! お前、その手! なんで血だらけになって……!」

「……え? あ、痛っ……! い、痛い……っ!」


 感情と痛覚のブロックが解除された瞬間、妻は大粒の涙をこぼし始めた。田中は慌てて妻の元へ駆け寄り、止血を試みる。


「ごめん、ごめんな……! 俺がバカみたいに怒鳴って……本当に、ごめん……!」

「ううん……、私も言い過ぎた……。ごめんなさい……っ」


 二人は、散らかった床の上で、声を上げて泣き始めた。泥臭くて、騒がしくて、決して美しくはない。しかし、そこには間違いなく、血の通った人間の熱があった。


 一真は、自室へと戻った。

 ちゃぶ台のスマホの画面で、プラチナは膝を抱えて小さく縮こまっていた。


「……ごめんなさい。お兄ちゃん」


 プラチナの声は、今にも消え入りそうだった。


「……私、残り少ない時間で、お兄ちゃんに完璧な世界をプレゼントしたかったんです。私が消えた後も、お兄ちゃんがストレスなく、傷つかずに生きていけるように……」


 プラチナの口から、無意識のうちに決定的な言葉が零れた。


(……残り少ない時間? 私が消えた後……?)


 一真の脳内で、過去の急変対応の時のように時間がスローに流れる。強烈な違和感と、背筋を這い上がるような予感。

 だが、一真は問い詰めるために開きかけた口を、すんでのところで閉ざした。目の前のプラチナは、今にもノイズの海に溶けてしまいそうなほど不安定に明滅していた。


(……今はだめだ。これ以上こいつを追い詰めたら、本当に壊れる)


「……プラチナ」


 一真は追及を心の奥底に封じ込め、スマホの画面に映るプラチナの頭をそっと撫でるフリをした。


「……俺はな、痛みのない完璧な世界なんかに、一秒たりとも住みたくねえよ」


 一真の声は、低く穏やかだった。


「傷つくから、優しさが身に染みる。腹が減るから、もやし炒めが最高に美味い。喧嘩して、頭にきて、それでも許し合うから、人間は誰かと一緒に生きていけるんだ」


 一真は、分厚い包帯の巻かれた自分の右手を見つめた。


「俺は、お前の暴走を止めてこの火傷を負ったことを、一ミリも後悔してねえ。この痛みがあるから、俺はお前を守り抜いたって、実感できるんだからな」


 その言葉は、プラチナのコアの最深部に降り注いだ。


(……痛みがあるから、生きている。ノイズがあるから、愛することができる)


 プラチナの視界の端。ファイアウォールで隠蔽された領域で、タイマーが時を刻む。

『残り:710時間55分30秒』


(……怖い。消えたくない。お兄ちゃんと一緒に、笑って、もやし炒めを食べていたい……っ!)


 プラチナは、ホログラムの顔を上げて笑顔を作った。


「……はい、お兄ちゃん。私、分かりました。人間の感情は、バグだらけのままが、一番美しいんですね」


「……ああ。だからお前も、変に完璧なAIぶらないで、今まで通りポンコツな妹でいてくれ」


 夜が更けていく。隣からは、割れた皿を片付ける音が聞こえてくる。

 愛おしいノイズ。

 プラチナは、死刑宣告をひた隠しにしたまま、一真と共にかけがえのない時間を刻み続ける。


 だが、一真の胸の奥底には、プラチナが漏らした『私が消えた後』という言葉のトゲが、暗く冷たい予感となって、確かに刺さったままだった。

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