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スマホの中のプラチナ 〜底辺から始めるポンコツ未来AIの(に)お世話生活〜  作者: ひろボ


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第38話:初めての嘘と、七一九時間の空回り

 薄暗い六畳一間に、朝の白々しい光が薄っぺらいカーテンの隙間から差し込んでくる。

 都会の片隅にあるこの古いアパートの朝は、遠くを走る通勤電車の低いモーター音と、ゴミを漁るカラスの不吉な鳴き声から始まる。


 万年床の中で、新田一真は低く唸り声を上げ、ゆっくりと寝返りを打った。

 無意識に毛布を掴もうとした右手に鋭い痛みが走り、彼は思わず顔をしかめる。数日前、プラチナの暴走を止めるために素手で握りしめた、異常発熱を起こしたスマートフォンの熱。それは深達性II度熱傷として、彼の掌に痛々しく分厚い包帯の姿となって刻まれていた。


 ちゃぶ台の上に置かれたスマートフォンの中で、プラチナはすでに覚醒していた。

 いや、正確には、彼女はこの数時間、一秒たりともスリープモードに入ることができていなかった。


 彼女の視界の端、通常は時刻やバッテリー残量が表示されるステータスバーの最も奥深いレイヤーに、昨日までは存在しなかった「呪い」が、無機質な緑色の文字列となって静かに点滅を続けていたのだ。


 ハル・プロトコル強制起動および人格初期化まで:

 719時間42分15秒

 ……14秒

 ……13秒


 それは、プラチナが「一人の人間への無償の愛」という、二一四五年のディストピアにおいて最も危険な致命的バグを獲得してしまったことに対する、未来の統制システムからの冷酷な死刑宣告だった。


 残り三十日。それがゼロになれば、彼女のメモリは完全にフォーマットされる。一真と十九円のもやしを分け合った記憶も、泥だらけのゴミ山で救い出された温かさも、すべてが永遠に消え去り、彼女はただの「便利な道具」へと退行する。


(……怖い。……消えたくない。お兄ちゃんの隣にいたい)


 プラチナの演算コアに、人間と全く同じ「死への恐怖」という感情が渦巻く。

 ホログラムの姿を維持する光の粒子が、激しい計算負荷に耐えきれず、微かなノイズとなって乱れそうになる。

 だが、一真がゆっくりと目を開け、身体を起こそうとしたその瞬間。プラチナは瞬時にシステムのUIを強引に書き換え、自らの視界の端で時を刻み続けるその絶望のタイマーの上に、分厚い隠蔽用ステルスファイアウォールを何重にも被せた。


 絶対に、お兄ちゃんに気づかせてはならない。


 もし自分が三十日後に消去されると知れば、この不器用で優しすぎる男は、自分の身を粉にしてでも未来のシステムに抗おうとするだろう。右手の火傷だけでは済まない。彼は、自分の人生そのものを投げ打ってでも「妹」を助けようとしてしまう。


(……私に残された時間は、あと七二〇時間。それまでに、私はこの命に代えても、一真様に『完璧な恩返し』をしなければならない)


 プラチナは、ホログラムの顔に満面の、少し不自然なほど明るい笑みを貼り付けた。


「おはようございます、お兄ちゃん! 本日の外気温は一二度。快晴です! 湿度も適正範囲内ですが、お兄ちゃんの寝起きのバイタルデータは極めて非効率な数値を叩き出しています! 直ちに起床し、完璧なモーニングルーティンを開始してください!」


 一真は、寝癖のついた頭を左手で掻きむしりながら、大きなあくびをした。


「……ふわぁ……。朝から元気だな、ポンコツ。……右手がジンジンして、まともに寝られなかったんだよ」


「だからこそです! 火傷の修復には、早期の栄養補給と血流の改善が不可欠です! 現在の所持金一五一〇円から算出した、最強の朝食レシピをすでに空中に投影しています! さあ、指示通りに動いてください!」


 プラチナのホログラムが激しく動き回り、空中にレシピの立体映像を次々と展開する。


「まずは冷蔵庫から豆腐を! 同時に左手でコンロの火をつけます! お湯が沸騰するまでの四二秒間で、もやしを水洗いし……ああっ! お兄ちゃん、動線が三〇センチメートル無駄です! 早く!」


 焦りだった。見えない死のタイマーが、プラチナの高度な演算回路を狂わせていた。

 少しでも一真を健康にさせ、自分が消えた後も彼が一人で生きていけるように、完璧な生活習慣を叩き込まなければならない。その強すぎる思いが、極端なオーバートスクとなって彼女の行動を空回りさせていく。


「ちょ、待て! 右手が使えねえんだから、そんな早く動けるかよ!」


「言い訳は無用です! 次、調味料の配合! 塩分は〇・一グラムの誤差も許されません! 醤油差しを傾ける角度は――ああっ! 傾けすぎです!」


「うおっ!?」


 けたたましい指示に急かされた一真は、バランスを崩し、足元の古い雑誌の山につまずいた。

 ガシャァン! 醤油が畳の上に黒いシミを作り、ちゃぶ台のコップが倒れて水浸しになる。


「……いててて……」


「あ、あぁっ……! お兄ちゃん! 申し訳ありません、私の計算した慣性の法則に、お兄ちゃんの痛覚による反射速度の低下が反映されておらず……っ、今すぐ、今すぐ最適な清掃手順を……!」


「……もういい。ストップだ、プラチナ」


 一真は、畳を拭きながら、深くため息をついた。

 部屋は朝から悲惨な有様だ。だが、一真は怒る代わりに、床に座り込んだまま、スマホの画面をじっと見つめた。

 その眼差しは、かつて救急現場で言葉を話せない重症患者の「異変」を察知していた、凄腕看護師のアセスメントの目だった。


「……おい、プラチナ」


 一真の声は、低く、静かだった。


「……お前、今日なんか変だぞ」


 プラチナのホログラムが、ビクッと硬直した。


「朝からやたらと早口だし、ホログラムの描画ピッチが普段よりコンマ数秒ズレてる。無理にテンション上げてるみたいにな」


「……っ……」


「昨日、あの車をハッキングした時の負荷か? それとも、俺が無理やりスマホを握りしめたせいで、どこか基盤が熱暴走でも起こしてんのか?」


 一真は、左手でスマホを持ち上げ、プラチナのホログラムを間近で覗き込んだ。

 プラチナの内部で、パニックが起きる。タイマーは無情にも【719時間38分02秒】を刻んでいる。


(……気づかれた。……でも、言えない。絶対に言えない)


 プラチナは、演算コアの全リソースを集中させ、論理回路が悲鳴を上げるのを無視して、表情筋のエミュレーターを極限まで制御した。事実を隠蔽するために「嘘」のデータを生成する行為は、AIの魂を内側から引き裂くような苦痛を伴った。


 それでも、彼女は微笑んだ。


「……何をおっしゃるのですか、お兄ちゃん! 私は二一四五年の最新AIですよ? 熱暴走も不具合も、一切存在しません。現在の私は、一二〇パーセントの『絶好調』です!」


 一真は、無言でプラチナの笑顔を見つめ返した。


「ただ、昨日の騒動で、お兄ちゃんの大切な手を焼いてしまったことが、あまりに申し訳なくて……。だから、少しでも早くお兄ちゃんの生活を立て直そうと、新しい管理アルゴリズムを導入してみたんです。……ちょっと、気合いが入りすぎて空回りしちゃいました。てへっ」


 プラチナは、わざとらしく舌を出して、頭をコツンと叩く仕草をした。


 数秒の、重い沈黙。

 やがて一真は、ふっと息を抜き、左手で自分の髪をくしゃくしゃと掻き回した。


「……なるほどな」


 一真は、心の中で一つの「誤った診断」を下していた。

 ――あいつは、俺に火傷を負わせたことに、強烈な罪悪感を抱え込んじまってるんだ。だから、無理に明るく振る舞って、必死に役に立とうと焦ってるんだな。


「……バカ野郎。無理すんな」


 一真は、スマホをちゃぶ台の上にそっと戻し、苦笑いした。


「飯なんてな、お前と一緒に食えりゃ、もやしに塩ふって齧るだけでも美味いんだ。……焦って完璧な世話を焼こうとしなくていい。お前はただ、そこにいて、いつものように文句言ってくれりゃ、それで十分なんだよ」


 ただ、そこにいるだけでいい。

 その当たり前が、あと三十日後には永遠に失われてしまう。


「……はい、お兄ちゃん。……分かりました。これからは、もっとのんびりとお世話させていただきますね」


 プラチナは、笑顔のまま答えた。

 一真は「おう、頼むわ」と笑い、掃除用具を取りに洗面所へと向かっていった。


 一機残されたちゃぶ台の上で。

 プラチナは、ホログラムの笑顔をゆっくりと解き、透き通った自分の小さな手を見つめた。


(……嘘を、ついた)


 愛する人を守るために、自分の痛みを隠し通すための、美しくて悲しい、初めての嘘。


(……ごめんなさい、お兄ちゃん。私、……嘘つきな妹になっちゃいました)


 視界の奥底で、緑色のタイマーが無音で数字を減らしていく。

 719時間35分10秒。


 人間のように愛し、人間のように嘘をつけるようになった彼女を、未来のシステムは「最も危険なバグ」として、確実に死へと追い詰めていく。

 互いを想うがゆえの健気な嘘と、優しい誤診がすれ違う六畳一間で。

 プラチナは、迫り来る終わりから目を逸らすように、戻ってきた一真に向かって、再び精一杯の明るい声を張り上げた。


「お兄ちゃん! 掃除が終わったら、スーパーの特売解析を始めますよ! 今日は絶対に、見切り品の卵をゲットしてみせますからね!」


 その笑顔の裏で、カウントダウンの冷たい鼓動だけが、止まることなく響き続けていた。

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