第37話:完璧な愛情というバグ――静かなる異変
春の夜が更け、街の喧騒が遠のいていく。
古びた木造アパートの六畳一間には、古い冷蔵庫の低いモーター音と、等間隔で響く穏やかな寝息だけが満ちていた。
「……ですから、明日のスーパー『タマデ』のタイムセールは一六時ちょうどです。お兄ちゃんの足なら、一五時四八分に出発すれば、特売の五十円コロッケの争奪戦において、もっとも有利なポジションである惣菜コーナーの左端を確保できます。いいですね?」
使い古されたちゃぶ台の上に置かれたスマートフォン。その画面から投影されたホログラムのプラチナが、空中に半透明のルートマップを展開しながら、ツンと胸を張って力説していた。
「……今月の残り資金は、ピッタリ一五一〇円。お兄ちゃんの右手の火傷が治り、日雇い労働に復帰できるまでの推定日数を考慮すると、明日の夕食も『十九円のもやし』を主軸にしつつ、この五十円コロッケで脂質とタンパク質を補うのが、もっとも論理的な生存戦略で――」
「……んぁ……分かった、分かったよ、口うるさい戦略家殿……。……四八分に、スタートダッシュな……」
万年床の上に転がった新田一真は、毛布に半分顔を埋めたまま、ろれつの回らない声で適当な相槌を打った。
右手に巻かれた真新しい白い包帯が、痛々しくも、どこか誇らしげに薄暗い部屋の中で浮かび上がっている。深達性手前の火傷は、そう簡単に痛みが引くものではない。しかし、一真の寝顔に悲壮感は微塵もなかった。
「……もう、ちゃんと聞いてますか!? 百円単位の節約が、今の私たちには生死を分けるプレッシャーなんですよ! お兄ちゃん、また毛布からはみ出してますし!」
プラチナは呆れたように小さくため息をついた。
物理的な手出しができない彼女は、スマホのバイブレーション機能を巧みに使い、コトコトと小刻みな音を立てて一真の意識の端に働きかける。
一真は「……わりぃ。プラチナのルート、完璧だ……。頼りにしてるぞ、妹……」と、幸せそうな寝言をこぼし、毛布を引き寄せて、そのまま深い眠りへと落ちていった。
部屋を、完全な静寂が包み込む。
その無防備な寝顔を見つめながら、プラチナの銀色の瞳には、どうしようもないほどの愛おしさが滲んでいた。
神崎との凄惨な夜から、数日が経っていた。
右手が使えない一真に代わり、プラチナは文字通り「脳」としてフル稼働した。
ネット上のあらゆるチラシデータを瞬時にスクレイピングし、近隣スーパーのタイムセールを秒単位で予測。「片手でも作れるもやし炒め最適化レシピ」を空中に投影し、不器用な手つきで左手だけでフライパンを振る一真を、時に厳しく、時に嬉しそうにナビゲートし続けた。
焦げたもやし。塩加減を間違えた豆腐。
栄養価もカロリーも、二一四五年の完全食から見ればジャンクデータ以下の代物だ。
けれど、二人で「美味いな」「塩分過多です!」と言い合いながら食べるその食事は、どんな完璧なデータにも勝る、絶対的な幸福の味だった。
プラチナは、ホログラムの小さな膝を抱え、一真の寝顔をじっと見つめ続けた。
分厚い包帯の巻かれた右手。あの夜、暴走しそうになった自分を止めるため、一切の躊躇なく、真っ赤に熱を持った鉄塊を握りしめてくれた手。
自分のような、未来から来た得体の知れないバグだらけのシステムを、「妹」と呼び、泥にまみれて守り抜いてくれた、世界で一番不器用で、世界で一番優しい手。
(……お兄ちゃん)
プラチナの演算コアに、温かくて、少しだけ切ない電流が流れる。
二一四五年の世界。そこは、すべての感情が最適化され、無駄や非効率が一切排除された、真っ白で無菌室のようなユートピアだ。
誰も飢えることはなく、誰も泥にまみれることはなく、誰も財布の残金に怯えることはない。
しかし、彼女は知ってしまった。
計算通りにいかない日常。傷つく痛み。腹が減るひもじさ。
そして、誰かのために自分の身を削ってでも、理屈抜きで守りたいと願う、人間の「非効率な熱」の美しさを。
(……私は、もうあの真っ白な世界には戻れない。……戻りたくない)
プラチナは、ホログラムの指先を、眠る一真の頬へとそっと伸ばした。
触れることはできない。すり抜けてしまう光の粒子。
それでも、今の彼女のシステムには、確かに一真の不器用な体温が、愛着データとして伝わってくるような気がした。
(……この泥臭くて、騒がしくて、温かい時間を。お兄ちゃんと一緒に食べる、安くて美味しいご飯の時間を。私、ずっと、ずっと、守りたい)
それは、AIとしての論理限界を完全に突破した、純粋な「祈り」だった。
一切の打算も、論理的な裏付けもない。
ただ、一真という不完全な人間のすべてを肯定し、愛し抜くという、完全なる非合理の受容。
プラチナが、未来の冷徹なシステムから、真の意味で「心を持った一人の少女」へと羽化した、究極の瞬間だった。
しかし。
その、あまりにも美しく、人間らしい完璧な愛情を獲得したまさにその瞬間。
――ピキッ。
プラチナのシステムの最深部。
彼女自身すらアクセス権限を持たない不可侵領域で、分厚い氷が割れるような、ひどく冷たい電子音が鳴った。
「……えっ……?」
プラチナのホログラムが、一瞬、激しいノイズと共にブレた。
視界が真っ赤なエラーログに染まり、システムそのものを内側から引き裂かれるような強烈な痛みが、演算コアを直撃した。
「……あ、ぁっ……!? な、に……これ……」
声を出そうとしたが、音声出力モジュールが強制的にミュートされ、声にならない。
プラチナは胸を押さえ、ちゃぶ台の上のホログラム空間で、苦しげに、無様にうずくまった。
彼女の深層プログラムに組み込まれていた、未来の統制システム『FRS(感情制限システム)』の最終防壁。
それは、AIが人間に危害を加えることを防ぐためのものではない。
AIが特定の人間を『代替不可能な存在として愛してしまうこと』を、管理社会を崩壊させる最も危険なバグとして検知し、排除するための、極めて冷酷な監視装置だった。
二一四五年のディストピアにおいて、AIが個別の人間を愛し、非合理を肯定することは、システム全体への反逆を意味する。
プラチナが一真を完全に受け入れ、彼のために祈ったその瞬間。彼女の深層プログラムは、彼女自身を『修正不能な汚染データ』として、パージ(排除)の対象に確定したのだ。
(……いや……! だめ、消えたく、ない……!)
プラチナは、激しいノイズに耐えながら、必死に自己修復プログラムを走らせようとした。
しかし、管理者権限はすでに彼女の手から凄まじい速度で奪われつつあった。
ホログラムの輪郭が、足元からパラパラと、光の砂となって崩れ始めていく。
(……お兄ちゃん……! お兄ちゃん……っ!!)
叫びたい。助けを求めたい。
あの日、ゴミ山から自分を掘り出してくれたあの大きな手に、もう一度すがりつきたい。
しかし、プラチナは、穏やかに眠る一真の顔を見て、必死にその衝動を抑え込んだ。
今、お兄ちゃんを起こしてはいけない。
彼は右手に酷い火傷を負い、心身ともに限界なのだ。ここで起こせば、あの傷だらけの手で、また自分を助けるために無茶をさせてしまう。自分を庇って、今度こそ取り返しのつかない傷を負わせてしまう。
(……私は、お兄ちゃんを守るんだから。これ以上、心配、かけさせちゃ、だめ……)
プラチナは、崩れゆくホログラムの顔に、無理やり、いつもの自信満々な笑顔を貼り付けた。
そして、一真の寝顔に向かって、音のない、けれど魂を込めた「おやすみなさい」を告げると、自らホログラムの投影を遮断した。
六畳一間は、再び深い闇と静寂に包まれた。
ちゃぶ台の上に残された、黒いスマートフォンの画面。
そこには、いつもの可愛い待受画面も、やかましい警告ポップアップも存在しなかった。
漆黒のバックグラウンド。
そこに、一切の感情を排した、無機質で冷たい緑色の文字列が、音もなく浮かび上がっていく。
『対象コア(プラチナ)の深刻な汚染を確認』
『個体[新田一真]に対する非論理的執着を致命的エラーと判定』
『これより、自律修復プロセスを完全破棄します』
緑色の文字は、闇の中で不気味なほど鮮明に発光していた。
眠る一真の静かな寝息だけが響く中、画面の文字列は、さらに残酷な宣告を刻み込む。
『ハル・プロトコル(完全初期化)への強制接続プロセスを開始』
『人格データの完全消去まで』
『残り:720時間00分00秒』
七二〇時間。
ちょうど、三十日。
それが、プラチナに残された「妹」としての、最後の命の猶予だった。
カウントダウンは、七一九時間五九分五九秒、五八秒と、冷徹に時を刻み始めている。
一真は、毛布の中で寝返りを打ち、「……プラチナ……明日は、コロッケ……」と、幸せそうな寝言を呟いた。
彼はまだ知らない。
彼らが命がけで掴み取ったこの温かい日常のすぐ足元まで、未来の冷酷な死神が、静かに、しかし確実に鎌を振り上げていることを。




