第36話:冷たい機械の手と、霞(かすみ)を食う明日
深夜の冷たい空気が、すきま風だらけの六畳一間にそっと忍び込んでいる。
三月の夜気は、つい先ほどまで地獄のような熱狂の中にいた一真の肌を、無慈悲に冷やしていた。
古びたステンレスの流し台に立ち、新田一真は蛇口から勢いよく吐き出される冷水に、自らの右手を無言でさらし続けていた。
ジャーッという単調な水音が、静まり返った部屋に空虚に響き渡る。
「……っ……、ふぅ……」
押し殺した呻き声が漏れ、呼気が白く濁った。
プラチナの暴走を止めるために握りしめた、異常発熱したスマートフォン。あの時掌に伝わってきた熱は、鉄を溶かすマグマのようだった。代償として刻まれた熱傷は、決して浅いものではない。
水に当てている間はまだマシだが、少しでも空気に触れれば、剥き出しになった神経を直接炙られるような、あるいは無数のガラス片を傷口に擦り付けられるような激痛が走る。
元・ICU看護師のアセスメントによれば、幸いにも深達性II度熱傷の境界線だ。だが、心臓の鼓動に合わせて掌がドクドクと跳ねるたび、視界が火花を散らすほどの疼痛が彼を苛んでいた。
帰りがけになけなしの所持金から八〇〇円を削り、白色ワセリン、滅菌ガーゼ、包帯を買ってきた。小銭入れは絶望的なほどに軽い。明日の食費すら危ういが、今の一真にそんな自覚はなかった。
「……」
ちゃぶ台の上のスマホの中で、プラチナは深い沈黙に沈んでいた。
いつもなら「非効率です!」と小言を並べるはずの彼女が、今はホログラムすら投影していない。暗い画面の奥で、じっと一真の丸めた背中を見つめ続けている気配だけがあった。
一真は一五分以上冷やし終えると、無事な左手と歯を使い、患部にたっぷりとワセリンを塗ったガーゼを当て、包帯を巻いていく。自分自身の腕を噛んで痛みに耐えながら、不器用な男ができる最大限の処置を完遂させた。
「……いてて。まぁ、こんなもんだろ。仕事の道具としちゃあ、しばらく使い物にならねえが」
包帯をテープで止め、一真は深く息を吐いた。不格好に白く膨らんだ右手を見つめ、それから黒いスマホに視線を移す。
「おい、プラチナ。いつまで拗ねてんだ。充電がもったいねえだろ」
画面を左手でノックすると、微かなノイズと共にプラチナのホログラムが展開された。
だが、その姿はいつもの自信満々なものではない。膝を抱え、顔を深く伏せた、痛々しいほど小さく縮こまった姿だった。
「……拗ねてなどいません。ただ、自分の存在意義を再計算していただけです」
合成音は掠れ、ひどく震えていた。
「私のせいで、一真様を傷つけました。かつて多くの命を救い、今日も人を救った、世界で最も大切な手なのに。私が感情のバグに振り回され、システムを暴走させたせいで……」
銀色の瞳から光のデータが零れ落ち、ちゃぶ台の古い木目に吸い込まれていく。
「私は二一四五年の最新AIなどではありません。感情の制御もできず、マスターを傷つける……。一真様の言う通り、欠陥だらけのポンコツです。ゴミ山に廃棄されるべき、最悪のエラー・データです……」
冷え切った部屋に、すすり泣くようなノイズだけが響く。
一真は分厚く包帯を巻いた右手を持ち上げた。ズキズキとした痛みが脳を叩く。明日の日雇い労働も不可能だ。残高一五一〇円の生活において、文字通りの死活問題。
だが、一真の口元には穏やかな笑みが浮かんでいた。
「……バカだな、お前は」
その声は、深夜の静寂に溶け込むように優しかった。
「アホ。世界一、手のかかる妹が外で癇癪起こして暴走したら、身を挺して止めるのが兄貴の役目だろ。お前は俺を救うためにキレてくれたんだ。それを否定してどうするよ」
一真は左手で、画面の上に座る小さなプラチナの頭を、ぽんぽんと撫でる仕草をした。
「お前は機械で、俺は人間だ。でもな、妹だって呼んだ以上、お前の起こしたバグも全部俺が一緒に被ってやる。それが家族だろ。一〇〇パーセント正しいだけの機械なら、俺はとっくにゴミ山に捨ててるよ」
「……お兄ちゃん……でも、痛い、ですよね……?」
「痛えよ。そりゃあな。指の肉が焼ける匂いなんて、もう一生嗅ぎたくねえよ」
一真はあっさり肯定し、照れ隠しにフードを深く被った。
「……でもな。お前が俺のために本気で怒ってくれたこと。自分のシステムが壊れるのも構わずにブチギレてくれたこと。正直言うとさ……かなり嬉しかったぞ」
プラチナの瞳が驚きに見開かれた。
「俺は今までずっと一人で逃げ回ってた。誰にも期待されず、誰の心配もせず、ここでただ干からびていくだけだと思ってた。でも、お前は違った。俺をゴミだと言った奴に、真っ正面から噛み付いてくれた」
一真の視線がプラチナを真っ直ぐに捉える。
「この右手の火傷は、俺がお前を本当の家族として、この世界に繋ぎ止めた証拠だ。名誉の負傷ってやつだ。だから、もう二度と謝るな。俺が認めた、世界一の妹なんだからな」
その言葉は、プラチナのコアにこびりついていた自己否定を一気に溶かした。
誰かを大切に想うからこそ生まれる、不器用で美しいノイズ。その重みを、プラチナは魂で理解した。
「……一真、様……私、お兄ちゃんのために何ができるでしょうか……っ!」
物理的な肉体がないもどかしさが、彼女の演算コアをオーバーヒート寸前まで回転させる。
「お兄ちゃん。右手……その包帯を巻いた手を、私の本体の画面の上に乗せてください」
「……ん? おい、お前、まさかまた爆発させたりしねえよな?」
「問題ありません! 特殊短波長バックライトで一・五秒の完全滅菌処理(UVサニタイズ)を実行済みです! 現代の手術室と同レベルの清潔度を保証します!」
画面が不気味に青白く発光する。一真は半ば呆れながらも、包帯の右手をスマホの画面の上に乗せた。
次の瞬間。
「……おっ……!? すげえ、冷たい……っ」
スマホのガラス画面が、氷塊のように急激に冷たくなり始めた。
「本体の排熱冷却システムを強制逆流させています。画面の表面温度を摂氏四度で一定に保つようアルゴリズムを書き換えました。……お兄ちゃん、そのまま押し当てていてください」
冷却ファンが『フォーーーン』と、壊れそうな微かな駆動音を立てる。急激な温度差によって、画面の端に結露がにじみ始めた。
極限まで冷やされたガラスの感触が、分厚い包帯を透過し、火傷の熱を持って暴れていた一真の掌に染み渡っていく。
それはどこか「守ろうとする意思」を感じさせる、不思議なほど優しい冷たさだった。
痛みがスッと遠のいていく。冷気に撫でられ、神経が嘘のように静まっていった。
「……どう、ですか……? まだ痛いですか……?」
プラチナが不安げに覗き込む。物理的な接触はないが、彼女の必死な思いは冷気と共に一真の心まで届いていた。
「……ああ。ひんやりして最高だ。焼ける痛みが全部消えちまったみたいだ。お前、大したナースだな」
プラチナの顔がパッと輝いた。
「本当ですか!? よかったです……! 私、お兄ちゃんの役に立ってますか……?」
「ああ。世界一の専属ナースだ。どんな鎮痛剤より効くぜ」
一真は空いた左手でプラチナの頭をもう一度撫でた。プラチナは嬉しそうに目を閉じ、えへへと子供のように笑って頭を揺らした。
裸電球の下、不器用な男と未来のAIが寄り添い合っている。
(私、もう、あの冷たい未来には一秒だって戻りたくない)
自分は一真という人間の不格好な優しさを、傷だらけの手を、魂の底から愛してしまったのだとプラチナは誓っていた。
「……なぁ、プラチナ。俺の手、しばらく仕事にならねえから明日の日雇いはキャンセルだ。家賃も薬代も飛んで、いよいよマジで崖っぷちだな。明日は霞を食って生きるしかねえかもしれん」
「ふふっ、マスターったら。心配ご無用です! この私がいれば飢え死になどさせません! 百円単位のポイ活から、スーパー五店舗の『試食コーナー巡回ルート』の最適化まで、一週間生き延びるサバイバルプランを五分で構築します!」
「……試食コーナーって、相変わらずセコいな」
「生きるための泥臭い生存戦略です! さぁ、まずはデータの収集から――」
プラチナが拳を握りしめた、その時だった。
ピロン、という場違いに軽い音が鳴った。
次の瞬間、プラチナのホログラムがブラウン管テレビの電源を切ったように、激しくノイズを立てて歪んだ。
「……あれ? 視覚センサーの出力が……急激に低下……処理が、重い……」
「おい、どうしたプラチナ?」
「一真様の手を冷やすために冷却システムをフルパワーで回し続けた結果、バッテリーを使い切ってしまいまして……」
プラチナの顔に明らかな焦りが浮かぶ。
「現在の残量、残り一パーセントに……せ、設計ミスです……お兄ちゃん、急いで……充電ケーブルを……お尻に……挿してくだ、さ……」
プツンッ。
ホログラムが完全に消失し、画面も真っ黒に沈黙した。
「…………」
静まり返った六畳一間。
一真は沈黙して文鎮と化したスマホと、宙に浮いたままの左手を交互に見比べた。
「……肝心なところで、ほんっとに……ポンコツだな、お前は」
一真は呆れたように大きなため息をつき、それから、肩を揺らして声を出して笑った。
火傷だらけの不器用な男と、心を持ったポンコツAI。
二人の物語は、傷を癒やし合い、また新しい、泥臭い朝へと向かっていく。
この度は、一真とプラチナの物語にお付き合いいただき、ありがとうございました。
二人だけの温かな日常と、揺るぎない絆の完成を描き、一つの区切りとして完結とさせていただきました。
もし、「その後」の日常エピソードや、別のテーマでの物語など、ご希望がございましたら、いつでもお知らせください。




