第35話:二三一〇円の救世主と、焼肉のタレ
夜の冷気が、焼け焦げた金属と高級な本革シートの異臭を、少しずつ中和していく。
裏通りの薄暗い街灯の下。
漆黒の高級セダンは完全に沈黙し、開け放たれたドアからは、理不尽な死の恐怖に直面した男たちの、ひゅー、ひゅーという、肺を鳴らすような荒い息遣いだけが漏れ聞こえていた。
後部座席から這い出すようにしてアスファルトに転がり出た神崎は、仕立ての良いスリーピースのスーツを泥で汚すことすら気にする余裕がなく、無様にへたり込んでいた。
ほんの数分前まで一真を「社会のエラー」と見下し、冷徹な微笑を浮かべていたエリート医師の面影は、もはやどこにもない。
理解不能な現象――車が突然、電子制御を奪われた灼熱の密室と化し、そして目の前の男が、真っ赤に焼けた鉄塊を素手で握りしめてそれを止めたという事実――が、神崎の強固な論理的思考を根底から破壊していた。
「……ひっ……。……な、何だ、君は……バケモノ、か……」
地面に膝をつき、激痛の走る右手を左手で庇いながら、一真は静かに立ち上がった。
掌は酷い熱傷を負い、熱と痛みが神経を焼き切るように暴れ回っている。
肉が焼ける嫌な匂いが鼻を突く。
だが、一真の心は、かつてないほどに澄み渡っていた。
つい先ほどまで彼を支配していた、ICUの無機質な電子音のフラッシュバックも、救えなかった命に対する拭いきれない罪悪感も。
今は、嘘のように完全に消え去っている。
プラチナの暴走を、己の肉体の痛みを代償にして止めた瞬間。
一真の中で、何かが決定的に変わったのだ。
過去の亡霊に怯え、逃げ続ける自分はもういない。
今の自分には、その手を焼いてでも守るべき「ポンコツな妹」がいて、明日を泥臭く生きるための、なけなしの命綱がある。
一真は、ポタポタと体液の滴る右手をだらりと下げたまま、ゆっくりと歩み寄り、腰を抜かして震える神崎を見下ろした。
そこに、怒りや憎しみはなかった。
ただ、純粋な「観察者」としての、静かで冷徹な眼差し。
かつて、救急救命センターの最前線で、物言わぬ重篤患者のわずかなバイタルサインから命の危機を察知し、数々の命を死淵から引きずり戻してきた、凄腕の看護師としての『アセスメント・アイ』が、今、極限状態で再起動していた。
「……神崎、先生」
激痛に耐え、脂汗を滲ませながらも、一真の低く落ち着いた声が夜の路地に響いた。
神崎はビクッと肩を跳ねさせ、ひきつった顔で一真を見上げた。
一真の視線は、神崎の全身をCTスキャンのように無慈悲になぞっていく。
街灯の僅かな光の下でも、一真の目には膨大な、そしてグロテスクな情報が飛び込んできた。
高級なチタンフレームの眼鏡の奥。コンシーラーのようなもので隠されているが、皮膚の薄い部分に浮き出た、どす黒い色素沈着。
アスファルトに手をついている右手の指先。
自分の意思とは無関係に、カチカチと細かく刻むような微細な振戦(震え)。
そして、ネクタイの結び目の下で上下する、胸郭の不自然な動き。極端に浅く、早い、獲物に怯える小動物のような呼吸。
「……先生。随分と、お疲れのようですね」
一真の口から出たのは、恨み言でも、勝利宣言でもない、予想外の「診断」だった。
神崎は目を丸くし、言葉に詰まった。
「な……何を、馬鹿なことを……私は……常日頃から自己管理を……」
「隠しても無駄ですよ。俺は、あんたの下で何百人って患者の『死の兆候』を見てきたんだ」
一真は、ひきつる頬の筋肉を無理やり笑顔の形に固定し、淡々と事実を告げた。
「……目の下のクマ。深刻な血行不良と、慢性的な睡眠不足の証拠だ。それから、その右手の震え。アルコールの離脱症状にしては規則的すぎる。おそらく、強力な睡眠導入剤か抗不安薬を常用している副作用だ。……呼吸も浅い。常に交感神経が張り詰めて、自律神経が悲鳴を上げてる」
一真の、あまりにも的確すぎる指摘。
神崎の顔から、スッと血の気が引いていくのが分かった。
「……患者の感情をノイズだと言って切り捨てて。効率と、生存確率っていう『数字』だけを見てきた結果が……夜もまともに眠れず、薬漬けにならないと正気を保てない、そのボロボロの体ですか」
神崎は、喘ぐように口を開いたが、反論の言葉は一つも出てこなかった。
完全に、図星だったからだ。
神崎の生活は、端から見れば完璧なエリートのそれだった。
だが、誰も死なせないためのプレッシャー、感情を殺し続けるストレス、病院内の陰湿な権力争い。
それらは確実に彼の精神を蝕んでいた。
彼は、誰よりも「人間」という不合理なシステムに苦しめられながら、エリートという鎧を脱げず、必死に虚勢を張っていたに過ぎない。
「……君に、私の何が分かる……! 私が背負っているものの重さを、そんなゴミ捨て場に住む人間に理解できるはずが……!」
神崎が震える声で絞り出した言葉は、かつての絶対的な王の威厳など微塵もない、ひどく弱々しいものだった。
一真は、小さく鼻で笑った。
そして、火傷を負っていない左手でポケットからスマホを取り出し、ヒビ割れた画面を神崎に向けた。
画面の中では、プラチナのホログラムが、心配そうに、けれど誇らしげに一真を見つめ返している。
「……あんたの事は、何も分からねえよ。ただ、これだけは言える」
一真は、街灯の光の下で、不敵な笑みを浮かべた。
右手から血と体液が滴り落ちている男の、圧倒的な生気を持った笑顔だった。
「俺は今、財布の中に二三一〇円しかねえ。明日の飯の種だった両手もこのザマだ。……けどな、この世界で一番手のかかる、アホな妹と一緒に食う特売の飯は、涙が出るほど美味いんだよ」
「……い、妹……?」
神崎が、一真の手にある黒いガラス板を見て、理解不能というように顔を歪める。
「ああ。俺はドブ板の泥にまみれて、泣いて笑って、毎日クソみたいに非効率な生活を送ってる。……でも、夜は布団に入ったら、三分で泥のように眠れる。薬なんか一錠もいらねえ」
一真は、神崎の怯えた目を真っ直ぐに見据えて、はっきりと告げた。
「……あんたより、俺の方がよっぽど『健康』ですよ」
それは、効率至上主義の世界に対する、圧倒的な「人間の泥臭い生」の肯定だった。
社会的地位でも、蓄えられた資産でもない。
飯が美味いと感じること。夜、安心して眠れること。そして、自分の手を焼いてでも守りたいと思える存在が、傍にいること。
その絶対的な事実の前に、神崎の築き上げてきた薄っぺらい理論は、音を立てて崩れ去っていた。
「……むぅ! マスターの言う通りです!」
突然、スマホのスピーカーから、プラチナの元気な合成音が響き渡った。
そのホログラムの足元には、先ほどの暴走の負荷によるものか、微かな赤いデジタル・ノイズが走っていたが、彼女の声には力がこもっていた。
「私の計測する一真様の睡眠スコアは、劣悪な住環境にもかかわらず、常に一〇〇点満点中九八点をキープしています! 対して、あなたのバイタルデータは、私の基準では『即刻強制入院レベルのジャンク』です! マスターを底辺だと見下す前に、まずはご自身の深刻なバグを治療することをお勧めしますね!」
プラチナの、あまりにも容赦のない、そして的確すぎるデータでの追撃。
神崎は完全に言葉を失い、顔を青ざめさせたまま、無様に後ずさりをした。
彼にとって、目の前の男は、もはやかつての部下でも、社会の落伍者でもなかった。
自分が決して手に入れることのできない「本当の生の輝き」を持った、得体の知れない怪物に映っていた。
「……車を出せ……! 早く、早くしろッ!!」
神崎は、狂ったように運転手に怒鳴り散らし、まだ焦げ臭い匂いの残る後部座席へと転がり込むように逃げ込んだ。
エンジンが悲鳴を上げ、高級セダンはタイヤを激しく軋ませながら、逃げるように夜の闇の彼方へと走り去っていった。
赤いテールランプが、完全に見えなくなるまで。
一真は、その場に立ち尽していた。
冷たい夜風が、火傷をした右手を撫でていく。
痛い。死ぬほど痛い。だが、その強烈な痛みこそが、自分が今、確かにこの過酷な現実を生きているという何よりの証拠だった。
「……行っちまったな」
一真は、緊張の糸が切れたように、大きく、深く息を吐き出した。
胸の奥にずっと巣食っていた、暗くて重い塊。
病院から逃げ出したあの日から自分を縛り付けていた過去の呪縛が、今度こそ完全に、跡形もなく消え去っていた。
俺の戦う場所が、あの白い無機質な部屋から、この泥臭い街角に変わっただけだ。
「……マスター」
プラチナの声が、静かに一真を呼んだ。
「……見事なアセスメントでした。……私は、対象を物理的に破壊することしか思いつきませんでした。……でも、マスターは言葉だけで、彼に自らの『病』を認識させ、完全に無力化してしまった。……人間のアセスメントは、どんな未来のハッキングツールよりも、強力な武器なのですね」
プラチナのホログラムが、深い尊敬の念を込めて、一真に向かって深々とお辞儀をした。
「……大げさだな。ただの精一杯の強がりだろ。……痛っ……」
一真は照れくさそうに笑い、ズキズキと熱を持って拍動する右手をパーカーの裾で庇いながら、スマホを左手で持ち直した。
「……それより、お前。さっきはよくも俺の悪口に便乗してくれたな。劣悪な住環境ってなんだよ」
「事実を述べたまでです! すきま風だらけの六畳一間に、ペラペラの万年床! それを劣悪と言わずして何と言いますか! ……それに」
プラチナは、ホログラムの姿で少しだけ頬を膨らませた。
「……アホな妹ではなく、優秀な専属AIです。……でも、……アホな妹でも、一緒に食べるご飯が美味しいと言ってくれたことだけは、……私のコアの、永久保護フォルダに保存しておきます」
プラチナの顔が、ふにゃりと、嬉しそうに綻んだ。
一真は、声を出して笑った。
火傷の痛みも、明日の仕事の不安も、今は不思議とどうでもよかった。
過去は清算した。残るは、ただ「今」を生きるだけだ。
「……腹減ったな、プラチナ」
「はいっ! 激しい感情エネルギーの消費と、火傷の修復のため、高タンパクな食事を推奨します! ……と言いたいところですが」
プラチナが、ホログラムの空中に、無慈悲な家計簿の円グラフを投影した。
「現在の所持金、二三一〇円。マスターの右手の治療に必要な消毒液と軟膏の購入費用を概算すると、残金は一五一〇円。今夜のメニューは『もやしと豆腐の塩炒め』一択となります!」
「……げっ。……せっかく勝ったのに、現実は相変わらずシビアだな」
「泥臭く生きるためには、徹底した資金管理が必要不可欠なのです! さあ、帰りに深夜スーパーに寄りますよ! 一円でも安いもやしをハントしに行きましょう!」
「へいへい。分かったよ、口うるさい妹殿」
春の夜の裏通り。
不器用な元看護師と、心を持った未来のAIは、並んで家路につく。
右手の傷は深く、明日の日雇い労働にも確実に差し支えるだろう。
客観的なデータだけを見れば、彼らの状況はどん底だ。
だが、一真の足取りは、かつてなく力強く、そして自由だった。
街灯に照らされた男とスマホの影が、長く伸びていく。
彼らの歩く道の先には、どんな困難があろうとも、代わりのない温かい日常が待っている。
最高に非効率で、最高に美しい「灰色の世界」の物語は、これからも、彼らの脈打つ鼓動と共に、続いていくのだ。
「……なぁ、プラチナ」
「なんですか、お兄ちゃん」
「もやし炒め、今日は焼肉のタレで味付けしていいか?」
「……塩分過多ですが、今日だけ特別に許可します!」
火傷だらけの不器用な男と、心を持ったポンコツAIの物語。




