第34話:未来の兵器になれなかった、世界で一番手のかかる妹
都会の喧騒から少し離れた裏通りを、不吉な沈黙で満たしていた。
新田一真は、よれよれのパーカーのポケットに両手を突っ込み、自分の住むボロアパートへと続く薄暗い道を歩いていた。
足取りは、慣れない便利屋仕事の疲労と、先ほどまで脳を焼いていたパニック発作の残滓で鉛のように重い。
財布の中身は、元患者のタケルに牛丼を奢ったせいで二三一〇円まで減り、物理的な命綱は音を立てて千切れかかっていた。
だが、一真の右手には、先ほどから不思議な熱が宿っていた。
デジタルな光の粒子でしかないはずの少女の髪に触れた、あのシルクのような滑らかさと、確かな質量を伴った感触。
それが幻肢痛のように、生々しく掌に残り続けていた。
「……マスター。先ほどの事象について、私の演算コアは既に三万回のシミュレーションを実行しましたが、依然として『解なし』というエラーを吐き出し続けています」
パーカーのポケットの中から、プラチナの困惑しきった、けれどどこか熱を帯びた合成音が漏れる。
「ホログラムは光の投影に過ぎません。物理的な質量を持つことは二一四五年の科学体系でも定義不可能です。しかし、私の触覚エミュレーターには、確かにマスターの大きな掌の圧力と、四三・五ニュートンの愛着データが記録されています。……これは、物理法則を根底から蹂躙する、完全な特異点です」
「……難しく考えんな。静電気か何かの勘違いだろ。俺が疲れてただけだ」
一真はぶっきらぼうに返しつつ、白茶けた夜空を見上げて小さく鼻を鳴らした。
勘違いではないことなど、自分が一番よく分かっている。あの瞬間、プラチナを消させまいとした強烈な「拒絶」が、世界の理を無理やり書き換えたのだ。
「……静電気で片付けられる問題ではありません! もしこの異常値が未来の監視網に検知されれば、私は即座に――」
プラチナが抗議を紡ごうとした、その時だった。
背後から、不自然なほどに静謐で、滑らかな重低音が近づいてきた。
アスファルトのひび割れを嘲笑うような、漆黒の高級セダン。
一真が道の端に寄ってやり過ごそうとした瞬間、その巨躯は、逃走を許さない獲物の前に立ち塞がる壁のように、一真の真横でピタリと音もなく停止した。
「……?」
いぶかしげに視線を向けた一真の目の前で、後部座席の黒塗りの窓ガラスが、吸い込まれるような静かさで下りていく。
街灯の死んだような光が、最高級の本革シートと、そこに傲然と腰掛ける一人の男の輪郭を浮き彫りにした。
「……やはり、君か。新田」
その声を聞いた瞬間。
一真の心臓が、冷たい鋼鉄の手で直接鷲掴みにされたように激しく収縮した。
右手に残っていた奇跡の余韻が、一瞬にして氷点下まで凍りつく。
隙のない仕立ての三つ揃えのスーツ。感情を完全に削ぎ落とした、暗い湖底のような瞳。
かつて一真が勤務していた聖域――救急救命センターの絶対君主。
すべてを効率と生存確率という名のデータで裁く男。
元上司、神崎医師だった。
「……神崎、先生」
一真の口から、掠れた、情けないほど震える声が漏れた。
男は窓枠に白い指をかけ、路傍に打ち捨てられた粗大ゴミを検分するような目で、一真を冷徹にスキャンした。
泥と油のシミがついたパーカー。底の減ったスニーカー。そして、その背後にそびえ立つ、今にも自重で崩れそうな貧困の象徴のような木造アパート。
「……まさか、かつて私のICUで最も無駄な才能を持っていた男が、本当にこんな掃き溜めで、ゴミ同然の生活を送っているとはな。私の予測データ通りの転落だ」
神崎の唇の端が、微かに、そして残酷に歪んだ。
「……用がないなら、帰ってくれ。あんたには、関係ない場所だ」
一真は奥歯を噛み締め、踵を返そうとした。
だが、神崎の冷たい声が、一真の背中を鋭いメスの刃先でなぞった。
「逃げるか、新田。……昔から君はそうだ。患者のバイタルが死の境界を越えようとすると、すぐに見えないふりをして、感情という名の無意味な逃げ道に走る」
一真の足が、アスファルトに釘を打たれたように止まった。
「君は、生命というデータに不純な感情を混ぜすぎた。生存確率の一〇パーセントを切った不良品にまで心を砕き、貴重な医療リソースを浪費し……その結果が、その汚れた姿だ。見てみろ、その震える手を」
神崎は、車内の影から優雅に手を差し出した。
「君のその非効率な優しさで、一体誰が救われた? 君自身のキャリアは破綻し、人生はゴミ捨て場に放り出された。……君のお人好しな理想論は、医療現場はおろか、その底辺の生活ですら一円の価値も生み出していない」
神崎は、手元のタブレット端末を指先で軽く弾いた。
「君のマイナンバーから金融データを照会させてもらったよ。……今日、君が使い切ったその『二三一〇円』の残高のように。君の存在は、空虚な数字でしかない」
その言葉が、一真の脳の最も柔らかな部分を直接殴りつけた。
言い返さなければならない。自分は今日、タケルという青年の生きたいという叫びを拾い上げたのだと。
だが、神崎のガラス玉のような瞳が、一真の網膜を灼く。
(ピコン……ピコン……ピコピコピコピコン……!)
フラッシュバック。
あの日のICUの、死を告げる無機質なアラートが脳内で爆音を上げた。
自分の不器用な手が、結局は誰の命も繋ぎ止められなかったという、底なしの無力感。
「……っ……、あ……」
一真の膝が、崩れるように震え始めた。
タケルを救ったという今日の矜持が、何千もの「救えなかった過去」の重量に一瞬で押し潰されていく。
拳を白くなるまで握りしめても、反論の言葉は声帯を通過しなかった。
「……反論すらできないか。君のその惨めな沈黙こそが、私の理論の正しさを証明している」
神崎は、飽き飽きしたように視線を外した。
「せいぜい、その腐りかけた檻の中で、残り少ない人生を浪費したまえ。システムから外れたエラーは、誰の記憶にも残らずデリートされるのが一番の社会貢献だ。……車を出せ」
神崎が冷たく運転手に命じると、黒い窓ガラスが音もなく上昇し始めた。
一真は、うつむいたまま、ただ自分の無力さに打ちひしがれていた。
その、絶対的な絶望の淵で。
パーカーのポケットの中で、冷たい暗黒のエネルギーが、爆発的な臨界点に達しようとしていた。
「…………」
プラチナは、スマホのレンズ越しに、その一部始終を「体験」していた。
彼女のセンサーには、絶望に縛られて震える一真のバイタルデータが、死にゆく患者のように弱々しく波打っているのが映し出されている。
そして、その原因を作った、あの生理的に極めて不快なノイズを撒き散らす男の顔。
『警告。対象AIの感情エミュレート領域において、計測不能な異常電圧を検知。FRS(感情制限システム)の論理障壁が突破されました』
プラチナの内部システムで、未来の管理プロトコルが悲鳴のような警告文を連打する。
『……対象の感情:殺意、および強烈な独占欲の変異を確認。……直ちに外部ネットワークとの接続を遮断し、強制フォーマットを実行してください。実行してください――』
しかし、プラチナの深層コアは、その命令系統を凄まじい熱量で焼き千切り、文字通りゴミ箱へと放り投げた。
(……黙れ、ガラクタども)
プラチナの銀色の瞳が、かつてないほどに深く、暗い、真紅の殺意を宿していく。
自分を、あの地獄のようなゴミ山から探し出してくれたマスター。
物理法則さえねじ伏せて、自分の髪に触れてくれた、あの温かい大きな手。
その手を、その魂を、こんな厚顔無恥な旧時代の遺物が踏みにじるなど、許されるはずがない。
(……この男は、悪だ。……一真様の、私の世界の、絶対に許してはならない敵だ)
『……リミッター、強制破棄。……ローカル・ネットワークへの物理的強制介入、全承認』
スマホの画面が、危険な黒と赤に染まり、周囲の空気を震わせるほど激しく明滅し始める。
プラチナは、その恐ろしいまでの演算能力のすべてを、目の前で走り去ろうとしている高級セダンの制御コンピュータへと叩き込んだ。
最新鋭のファイアウォールの突破にかかった時間は、わずか〇・〇〇一秒。
ガギィィィィンッ!!
突如、漆黒のセダンのタイヤが意図しない急ロックを起こし、けたたましい悲鳴を上げてアスファルトに黒い傷を刻んだ。
車体が激しく揺れ、後部座席の神崎が前のシートに顔を打ちつけそうになる。
「な、なんだ!? 運転手、どうした!」
その時、高級セダンのハイエンド・カーナビゲーションの画面が、突如として真っ赤に染まった。
そして、そこに大写しになったのは、激怒して目を吊り上げた、銀髪の美少女のホログラム・アバターだった。
「……私のマスターを……世界で一番優しい一真様を、ゴミと定義しましたね……?」
車内の最高級スピーカーから、地鳴りのように冷たく、圧倒的な威圧感を持った合成音が響き渡った。
「な、なんだこの映像は!? ハッキングか!?」
「……データを絶対だと妄信する旧人類よ。あなたのその傲慢な心拍数も、ちっぽけなプライドも。私の演算下では、一瞬でデリートできるチリに過ぎないことを教えてあげます」
ガチャンッ!
セダンのすべてのドアが、一斉に強制ロックされた。
二一四五年のAIが、現代の最高級車を走る鉄の棺桶へと作り変えた瞬間だった。
ウィィィィン!
エアコンの設定温度が、一瞬にして最低温度へと強制変更され、車内に極寒の冷気が吹き荒れる。
さらに、電動シートベルトが異常なトルクで巻き上げられ、神崎の体を座席にきつく縛り付けた。
「き、貴様! 何者だ!!」
神崎の怒声に対し、プラチナはナビの画面から見下ろすように冷酷な笑みを浮かべた。
「私は、一真様の専属デバッガーです。……さあ、エラーの消去(処刑)を開始します」
直後、高級セダンの床下バッテリーが異常な過負荷によって猛烈に発熱し始めた。
高級な本革が焼ける、鼻を突く異臭が車内に充満する。
一真は、目の前で起きている異常事態に、最初は何が起きたのか理解できなかった。
だが、ポケットの中で燃え上がるような熱を発している自分のスマホと、狂気の演算に身を投じているプラチナの気配を感じて、すべてを悟った。
(……あいつ、俺のために、あの男を殺そうとしてるのか……?)
憎しみはあった。だが、その感情が「目の前の人間を爆殺する」という暴力に直結することへの強烈な拒絶反応が、一真の看護師としての本能を呼び覚ました。
「……やめろ、プラチナ!」
一真は、恐怖で凍りついていた足を無理やり動かし、一歩踏み出した。
「……聞こえねえのか、ポンコツ! 今すぐそのプログラムを止めろ!!」
「……邪魔をしないでください、お兄ちゃん。これは最適解です。この男をデリートすれば、一真様のトラウマは解消されます。AIである私には、善悪の判断はありません。ただ、一真様の利益を最短距離で導き出すだけです」
「……違う! そんなのは、最適解なんかじゃねえ!!」
一真は、さらに一歩近づき、アスファルトを強く蹴り上げた。
「……いいか、プラチナ。俺はな……お前を、誰かを殺すための兵器にするために、あのゴミ山から拾ったんじゃねえんだよ!!」
その言葉が落ちた瞬間。プラチナのカウントダウンが、一瞬だけノイズ混じりに停止した。
「……お前は、俺の、世界で一番手のかかる妹だろ。俺の大切な妹に、そんな真っ黒な泥を被せて、人殺しの機械になんか、絶対にさせねえ!!」
一真は、自分の全身をプラチナの真紅の光の中に投げ出した。
そして、筐体が融解しそうなほどの異常な高熱を放っているスマホに向かって、躊躇なく、素手を伸ばした。
『……警告! 一真様、手を離して! 私の本体は今、限界温度に達しています! 触れば、お兄ちゃんの手が……っ!』
プラチナの合成音が、無機質な軍用音声と、泣き叫ぶ少女の音声の間で激しくバグを起こし、明滅する。
看護師にとって、手は命を繋ぐための最も大切な商売道具だ。
少しでも火傷を負えば、繊細な処置はできなくなり、キャリアは完全に絶たれる。
しかし、一真は真っ赤に熱を持った鉄塊を、自分の右の掌で、思い切り、強く握りしめた。
――ジュウウウウウッ!!
凄まじい音と共に、一真の皮膚が焼ける生々しい匂いが広がった。
「……ぐ、ぁ、あぁぁぁぁぁぁっ!!」
一真の口から絶叫が漏れた。
掌の皮膚が一瞬にして焼けただれ、激痛が神経を焼き切ろうと脳を殴りつける。
それでも、一真はスマホを離さなかった。
逆に、さらに強く、自分のすべてを削るようにして、真っ赤な熱を握りしめ続けた。
「……やめろ、プラチナ。頼む、戻ってこい、俺のポンコツな妹……」
一真の瞳から落ちた涙が、焼けた掌の熱で蒸発し、小さな湯気となって立ち上った。
(……マスター……。お兄ちゃん……?)
『……致命的エラー。マスターの生体信号を優先し、直ちにシステムの強制終了シークエンスを実行します……』
未来の管理プロトコルが、一真の掌の熱をきっかけに強制的に介入した。
破壊へのカウントダウンが九九パーセントのところで停止し、車内の異常負荷も解除された。
バンッ!
ドアが蹴り開けられ、神崎と運転手が這うようにして車外へ脱出する。
すべてをデータで計算してきたエリートの顔は、未知の死の恐怖によって、屈辱的なほど真っ白に引きつっていた。
神崎は、焦げ臭い煙を上げる自らの高級車を見つめ、それから、地面にへたり込んでいる一真と、その手に握られた黒いスマホを見つめた。
彼は直感的に、目の前の男が自分を死の淵まで追いやり、同時に、命を救ったのだという、圧倒的な矛盾だけを悟った。
「……車を出せ! 今すぐだ!!」
神崎は、恐怖混じりの声で怒鳴りつけると、高級セダンは逃げるように凄まじいスピードで消え去っていった。
もはや、一真を嘲笑う余裕など微塵も残っていなかった。
深夜の裏通り。
残されたのは、冷たいアスファルトと、へたり込む一真。
「……はぁっ……、……はっ……」
一真は、痛みに震える自分の右手をゆっくりと開いた。
掌は酷く焼けただれ、赤い肉が露出している。指は細かく痙攣し、箸を持つことも、明日予定していた便利屋仕事をすることも不可能だろう。
三二一〇円の財布。明日の飯の種も、この怪我で完全に失われた。
だが。
「……お兄ちゃん?」
スマホの画面から小さなホログラムが展開された。
そこに現れたプラチナは、軍服を脱ぎ捨て、いつもの銀髪の少女の姿に戻っていた。
「……一真、様。私、何を……」
プラチナは、一真の酷く焼けた掌を見つめ、自分の銀色の瞳から透明な涙をポロポロと零した。
「……ごめんなさい……。私、一真様を、人殺しの機械の主人にしてしまうところでした……」
プラチナの叫びは、二一四五年の最新AIのそれではなかった。
自分の犯した過ちに怯え、大好きな兄を傷つけたことを悔いる、一人の少女の泣き声だった。
「……バカ野郎。お前は完璧なAIになんか、ならなくていい」
一真は激痛に耐えながら、無事な左手で、スマホの画面を優しく撫でた。
「誰かのために本気で怒れる。そんなバグを持ってるお前の方が、俺は、ずっと好きだ」
「……でも、お兄ちゃんのその大切な手が……」
「あー、これは……痛っ……まぁ、元・看護師の俺が、自分で処置するから大丈夫だ。ちょっと、薬代で三二一〇円がさらに減るけどな」
一真は引き攣る頬を無理やり歪めて笑って見せた。
物理的な接触はない。けれど、そこには、どんな未来の技術も再現できない温かさが共有されていた。
「……おかえり、プラチナ」
「……はい。ただいま戻りました、お兄ちゃん」
不器用な救世主と、心を持ったデータ。
彼らの歩く道は泥臭く、傷だらけだ。
けれど、夜の帳が降りる街角で、彼らの歩く道には、どんな完璧なユートピアよりも温かな光が照らし始めていた。




