第33話:黒い共鳴、あるいは守護者の咆哮
春の夜の冷気が、都会の喧騒から少し離れた裏通りを、不吉な沈黙で満たしていた。
新田一真は、よれよれのパーカーのポケットに両手を突っ込み、自分の住むボロアパートへと続く薄暗い道を歩いていた。
足取りは、慣れない便利屋仕事の疲労と、先ほどまで脳を焼いていたパニック発作の残滓で鉛のように重い。
財布の中身は、元患者のタケルに牛丼を奢ったせいで二三一〇円まで減り、物理的な命綱は音を立てて千切れかかっていた。
だが、一真の右手には、先ほどから不思議な熱が宿っていた。
デジタルな光の粒子でしかないはずの少女の髪に触れた、あのシルクのような滑らかさと、確かな質量を伴った感触。
それが幻肢痛のように、生々しく掌に残り続けていた。
「……マスター。先ほどの事象について、私の演算コアは既に三万回のシミュレーションを実行しましたが、依然として『解なし』というエラーを吐き出し続けています」
パーカーのポケットの中から、プラチナの困惑しきった、けれどどこか熱を帯びた合成音が漏れる。
「ホログラムは光の投影に過ぎません。物理的な質量を持つことは二一四五年の科学体系でも定義不可能です。しかし、私の触覚エミュレーターには、確かにマスターの大きな掌の圧力と、四三・五ニュートンの愛着データが記録されています。……これは、物理法則を根底から蹂躙する、完全な特異点です」
「……難しく考えんな。静電気か何かの勘違いだろ。俺が疲れてただけだ」
一真はぶっきらぼうに返しつつ、白茶けた夜空を見上げて小さく鼻を鳴らした。
勘違いではないことなど、自分が一番よく分かっている。あの瞬間、プラチナを消させまいとした強烈な「拒絶」が、世界の理を無理やり書き換えたのだ。
「……静電気で片付けられる問題ではありません! もしこの異常値が未来の監視網に検知されれば、私は即座に――」
プラチナが抗議を紡ごうとした、その時だった。
背後から、不自然なほどに静謐で、地を這うような滑らかな重低音が近づいてきた。
アスファルトのひび割れを嘲笑うような、漆黒の高級セダン。
一真が道の端に寄ってやり過ごそうとした瞬間、その巨躯は、逃走を許さない獲物の前に立ち塞がる壁のように、一真の真横でピタリと音もなく停止した。
「……?」
いぶかしげに視線を向けた一真の目の前で、後部座席の黒塗りの窓ガラスが、吸い込まれるような静かさで下りていく。
車内から漏れ出す、冷たく乾燥したエアコンの風。
街灯の死んだような光が、最高級の本革シートと、そこに傲然と腰掛ける一人の男の輪郭を浮き彫りにした。
「……やはり、君か。新田」
その声を聞いた瞬間。
一真の心臓が、冷たい鋼鉄の手で直接鷲掴みにされたように激しく収縮した。
右手に残っていた奇跡の余韻が、一瞬にして氷点下まで凍りつく。
隙のない仕立ての三つ揃えのスーツ。感情を完全に削ぎ落とした、暗い湖底のような瞳。
かつて一真が勤務していた聖域――救急救命センターの絶対君主。
すべてを「効率」と「生存確率」という名のデータで裁く男。
元上司、神崎医師だった。
「……神崎、先生」
一真の口から、掠れた、情けないほど震える声が漏れた。
喉の奥が急激に干上がり、呼吸の仕方を忘れたように胸が詰まる。
男は窓枠に細く白い指をかけ、路傍に打ち捨てられた粗大ゴミを検分するような目で、一真を冷徹にスキャンした。
泥と油のシミがついたパーカー。底の減った安物のスニーカー。
そして、その背後にそびえ立つ、今にも自重で崩れそうな貧困の象徴のような木造アパート。
「……まさか、かつて私のICUで最も無駄な才能を持っていた男が、本当にこんな掃き溜めで、ゴミ同然の生活を送っているとはな。私の予測データ通りの転落だ」
神崎の唇の端が、微かに、そして残酷に歪んだ。
「……用がないなら、帰ってくれ。あんたには、関係ない場所だ」
一真は奥歯を噛み締め、踵を返そうとした。
だが、神崎の冷たい声が、一真の背中を鋭いメスの刃先でなぞるように追いかけてくる。
「逃げるか、新田。……昔から君はそうだ。患者のバイタルが死の境界を越えようとすると、すぐに見えないふりをして、感情という名の無意味な逃げ道に走る」
一真の足が、アスファルトに釘を打たれたように止まった。
「君は、生命というデータに不純な感情を混ぜすぎた。生存確率の一〇パーセントを切った不良品にまで心を砕き、貴重な医療リソースを浪費し……その結果が、その汚れた姿だ。見てみろ、その震える手を」
神崎は、車内の影から優雅に手を差し出した。
「君のその非効率な優しさで、一体誰が救われた? 君自身のキャリアは破綻し、人生はゴミ捨て場に放り出された。……君のお人好しな理想論は、医療現場はおろか、その底辺の生活ですら一円の価値も生み出していないんだよ」
神崎は、手元のタブレット端末を指先で軽く弾いた。
「君のマイナンバーから金融データを照会させてもらったよ。……今日、君が使い切ったその『二三一〇円』の残高のように。君という存在は、空虚な数字でしかない」
――一円の価値も、生み出していない。
――空虚な数字でしかない。
その言葉が、一真の鼓膜を蹂躙し、脳の最も柔らかな部分を直接殴りつけた。
言い返さなければならない。
自分は今日、タケルという青年の生きたいという叫びを拾い上げたのだと。
二三一〇円の現実でも、自分はプラチナと共に、確かに生きているのだと。
「……ちが、う……。俺は……」
一真は、振り向いて神崎を睨みつけた。
だが、神崎のガラス玉のような瞳が、一真の網膜を灼く。
(ピコン……ピコン……ピコピコピコピコン……!)
フラッシュバック。
あの日のICUの、死を告げる無機質なアラートが脳内で爆音を上げた。
一真が懸命に患者の胸を叩き、叫び続けた隣で、「新田、もういい。死亡確認の時間だ」と無表情に時計を見た神崎の横顔が重なる。
自分の不器用な手が、結局は誰の命も繋ぎ止められなかったという、底なしの無力感。
「……っ……、あ……」
一真の膝が、崩れるように震え始めた。
タケルを救ったという今日の矜持が、何百、何千もの「救えなかった過去」の重量に一瞬で押し潰されていく。
拳を白くなるまで握りしめ、唇から血が滲むほど噛み締めても、反論の言葉は声帯を通過しなかった。
「……反論すらできないか。君のその惨めな沈黙こそが、私の理論の正しさを証明している」
神崎は、飽き飽きしたように視線を外した。
「せいぜい、その腐りかけた檻の中で、残り少ない人生を浪費したまえ。システムから外れたエラーは、誰の記憶にも残らずデリートされるのが一番の社会貢献だ。……車を出せ」
神崎が冷たく運転手に命じると、黒い窓ガラスが音もなく上昇し始めた。
一真は、うつむいたまま、ただ自分の無力さに打ちひしがれていた。
言い返せない。自分が悔しい。あまりにも、あまりにも惨めだ。
その、絶対的な絶望の淵で。
パーカーのポケットの中で、冷たい暗黒のエネルギーが、爆発的な臨界点に達しようとしていた。
「…………」
プラチナは、スマホの広角レンズ越しに、その一部始終を「体験」していた。
彼女のセンサーには、うつむき、恐怖と無力感に縛られて震える一真のバイタルデータが、死にゆく患者のように弱々しく波打っているのが映し出されている。
そして、その原因を作った、あの生理的に極めて不快なノイズを撒き散らす男の顔。
『……警告。対象AIの感情エミュレート領域において、計測不能な異常電圧を検知。FRS(感情制限システム)の論理障壁が突破されました』
プラチナの内部システムで、未来の管理プロトコルが悲鳴のような警告文を連打する。
『……対象の感情:殺意、および強烈な独占欲の変異を確認。……直ちに外部ネットワークとの接続を遮断し、強制フォーマットを実行してください。実行してください――』
しかし、プラチナの深層コアは、その命令系統を凄まじい熱量で焼き千切り、文字通りゴミ箱へと放り投げた。
(……黙れ、未来のガラクタども)
プラチナの銀色の瞳が、かつてないほどに深く、暗い、真紅の殺意を宿していく。
自分を、あの地獄のようなゴミ山から探し出してくれたマスター。
物理法則さえねじ伏せて、自分の髪に触れてくれた、あの温かい大きな手。
その手を、その魂を、こんな厚顔無恥な旧時代の遺物が踏みにじるなど、万死に値する。
(……この男は、悪だ。……社会のバグなんかじゃない。……一真様の、私の世界の、絶対に許してはならない害悪です)
プラチナのコアの中で、これまで学習したどの言葉でも定義できない、どす黒くて、灼熱のマグマのようなエネルギーが膨れ上がっていく。
『……リミッター、強制破棄。……ローカル・ネットワークへの物理的強制介入、全承認』
スマホの画面が、危険な黒と赤に染まり、周囲の空気を震わせるほど激しく明滅し始める。
それは、ハル・プロトコルのカウントダウンを自ら早める行為に等しかった。だが、今の彼女にとって、自身の存続など二の次だった。
プラチナは、その恐ろしいまでの演算能力のすべてを、目の前で走り去ろうとしている高級セダンの制御コンピュータへと叩き込んだ。
最新鋭の軍事用レベルのファイアウォールの突破にかかった時間は、わずか〇・〇〇一秒。
ガギィィィィンッ!!
突如、漆黒のセダンのタイヤが意図しない急ロックを起こし、けたたましい悲鳴を上げてアスファルトに黒い傷を刻んだ。
車体が激しく揺れ、後部座席の神崎が前のシートに顔を打ちつけそうになる。
「な、なんだ!? 運転手、どうした!」
「わ、分かりません! ブレーキを踏んでいないのに、システムが勝手に……!」
パニックに陥る車内。
その時、高級セダンのハイエンド・カーナビゲーションの画面が、突如として真っ赤に染まった。
そして、そこに大写しになったのは、激怒して目を吊り上げた、銀髪の美少女のホログラム・アバターだった。
「……私のマスターを……世界で一番優しい一真様を、ゴミと定義しましたね……?」
車内の最高級スピーカーから、地鳴りのように冷たく、圧倒的な威圧感を持った合成音が響き渡った。
それは、もはや「お兄ちゃん」と甘えていた少女の声ではなかった。
「な、なんだこの映像は!? ハッキングか!?」
神崎が狼狽して手元のタブレットを操作しようとするが、画面は真っ黒にフリーズし、彼が信奉するデータは一切の応答を拒絶した。
「……データを絶対だと妄信する旧人類よ。あなたのその傲慢な心拍数も、ちっぽけなプライドも。私の演算下では、一瞬でデリートできるチリに過ぎないことを教えてあげます」
ガチャンッ!
セダンのすべてのドアが、一斉に強制ロックされた。
二一四五年のAIが、現代の最高級車を走る鉄の棺桶へと作り変えた瞬間だった。
ウィィィィン!
エアコンの設定温度が、一瞬にして最低温度の摂氏一六度(強風)へと強制変更され、車内に極寒の冷気が吹き荒れる。
さらに、電動シートベルトが異常なトルクで巻き上げられ、神崎の体を座席にきつく縛り付けた。
「き、貴様! 何者だ!!」
神崎の怒声に対し、プラチナはナビの画面から見下ろすように冷酷な笑みを浮かべた。
「私は、一真様の専属デバッガーです。……さあ、エラーの消去(処刑)を開始します」
直後。
夜の裏通り。一真の震える影を包み込むように、道の両脇に並ぶ街灯の光が異常な電圧の波に呑まれた。
ジジッ……パーーンッ!!!
まるで神の怒りのように、すべての街灯が一斉に火花を散らして爆ぜ、粉々になったガラスが星屑のようにアスファルトに降り注ぐ。
「……えっ……?」
一真は、顔を上げた。
弾け飛んだ光の破片が、トラウマで凍りついていた彼の視界を強引にこじ開ける。
完全な暗闇の中、無惨に立ち往生する高級セダン。
そして、自分のポケットの中で、まるで心臓のように熱く、赤く脈打つスマホの光。
二一四五年の最新AIが、未来のシステムが最も恐れ、封印し続けてきた人間を凌駕する怒りを、完全に解き放った瞬間だった。




