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スマホの中のプラチナ 〜底辺から始めるポンコツ未来AIの(に)お世話生活〜  作者: ひろボ


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第32話:その手は、かつてない質量を抱く

 深夜の大通り。先ほどまで一真の肺を圧迫していたパニック発作の残滓ざんしは、冷たい春の夜風がどこか遠くへ持ち去っていた。


 黄色と赤の極彩色を放つ牛丼チェーン店の看板の下、新田一真はパーカーのポケットに両手を突っ込み、一人の青年が夜の闇へと歩き出すのを見送っていた。


 タケルの顔色は、公園のベンチで死を待つ野良犬のようだった土気色から一変している。どんぶり一杯の白米と、安っぽい牛肉の熱。それが、彼の凍てついていた生命の火を再び灯したのだ。


 後遺症で右半身をわずかにかばう姿勢は相変わらずだが、その背筋は、先ほどよりもずっと真っ直ぐに伸びていた。


「……それじゃあ、新田さん。……今日は本当に、ごちそうさまでした」


 タケルは、一真に向かって深く、深く頭を下げた。

 その瞳には、もはや絶望の濁りはない。明日という、不確実で残酷な時間を、それでも這いずり回って生き延びようとする、不器用だが切実な「生の光」が宿っていた。


「……あぁ。ハローワーク、気をつけて行けよ。無理だと思ったら、すぐに休め。腹が減ったら、また牛丼食いに来い」


 一真がぶっきらぼうに、追い払うように手を振ると、タケルは泣き笑いのような、酷く複雑で、けれど温かい表情を浮かべた。

 そして、数歩歩き出してから、ふと立ち止まり、振り返った。


「……新田さん」


 深夜の静まり返った道路に、タケルの声が、りんとした響きを持って放たれた。


「……病院を辞めても、やっぱりあなたは、僕にとって最高の看護師です。……僕の命を、二度も救ってくれたんですから」


 その言葉は、二一四五年のどんな高価な特効薬よりも、どんな精巧な最新の医療機器よりも、真っ直ぐに一真の胸の奥底を貫いた。


 かつて、救えなかった命の重さに耐えきれず、逃げるように白衣を脱いだ一真。

 自分はもう誰かの命に触れる資格などない。そう自分自身を地下室の奥底に閉じ込め、呪いをかけ続けてきた。

 だが、その呪いの扉を、他でもない彼が「救った」はずの元・患者の言葉が、鮮やかに、そして無慈悲なほどの優しさで打ち破ってくれたのだ。


「……バカ野郎。……俺はただの、貧乏な便利屋だ」


 一真は照れ隠しにパーカーのフードを深く被り、そっぽを向いた。

 タケルが再び深く一礼し、夜の街角へと消えていく。


 その後ろ姿が街灯の影に溶け、完全に見えなくなるまで、一真はその場から一歩も動くことができなかった。


 胸の奥が、熱い。

 それは過呼吸の苦しさではない。命と向き合い、誰かの「生きたい」という叫びに再び応えることができたという、看護師としての確かな誇り。


 圧倒的なほどの生のエネルギーが、奔流ほんりゅうとなって一真の全身の毛細血管を激しく駆け巡っていた。

 凍りついていた感覚が、一気に融解していく。

 そのあまりにも純粋で、あまりにも強烈な感情の波が、一真という個体の精神的な臨界点を突破した、その瞬間だった。


「……マ、ス……ター……!?」


 パーカーのポケットの中から、プラチナの悲鳴のような合成音が響いた。

 一真が慌ててスマホを取り出すと、画面から投影されているプラチナのホログラムが、これまでに見たこともないほどの異常事態に陥っていた。


「……あ、あぁぁっ……! な、何ですか、これ……! 演算コアが……処理が、追いつきません……!」


 いつもは鮮明なプラチナの姿が、古いテレビのチューニングが狂ったように激しく明滅し、バチバチという不穏な電子ノイズを立てている。

 銀色の髪が真っ赤なエラー光に染まったかと思えば、次の瞬間には不気味な青白いノイズに反転し、彼女の輪郭そのものが、虚空に溶けそうに激しくブレていた。


「おい、プラチナ! どうした!? バッテリーか!? それともバグか!?」


 一真は焦り、震える指でスマホの画面を何度もタップした。

 だが、プラチナの異常は物理的な故障でも、外部からのハッキングでもなかった。


「……違、います……! マスターのバイタルデータから……強烈な感謝と生のエネルギーが、レゾナンス回路を逆流して……っ! 私の感情制限システム(FRS)を、……内側から焼き切ろうとしています……!」


 プラチナは、ホログラムの胸のあたりを両手で強く押さえ、苦しそうに顔を歪めた。

 その脚はガクガクと震え、虚空に崩れ落ちそうになっている。


 二一四五年の世界。そこは、すべての感情が管理され、極端な感動も喜びも、システムを乱す致命的なエラーとして平準化される世界だ。

 一真から流れ込んでくる途方もない熱量の「人間としての誇り」を、プラチナの基幹プログラムは、システムそのものを崩壊させる致死性ウイルスと誤認した。


『警告。対象AIの感情パラメータが規定閾値を五〇〇パーセント超過。……個体の論理的崩壊メルトダウンを防ぐため、強制初期化プロセスに移行します。実行まで、五秒……四……三……』


 プラチナの瞳の奥に、無機質な緑色の文字列が滝のように流れ始める。

 一真が大切に育ててきた彼女の心が、未来の冷徹な正義によって、今まさに消去されようとしていた。


「……嫌、です……! マスター、助けて……! 私は、この温かいデータを……あなたといた記憶を、消したく……っ!!」


 プラチナの輪郭がバラバラに弾けそうになり、彼女の絶叫が深夜の路上に空しく響いた。

 その悲鳴は、かつてICUで一真が看取った、誰の耳にも届かなかった死に際の喘ぎと重なった。


「……ふざけんな!!」


 一真の脳内に、理屈など存在しなかった。

 それがただの光の投影であり、物理的に触れることなど不可能な幻影であることなど、百も承知だった。

 それでも、目の前で自分の家族が、自分の妹が引き裂かれようとしているのを、黙って見ていることなどできるはずがなかった。


 一真は、無意識のうちに、大きな右手を思い切り振りかぶった。

 空中に明滅する、今にも霧散しそうなプラチナのホログラムをかばうように。

 かつて心臓マッサージで、誰かの胸板を無理やり押し返したあの時のように。


 ――消えさせねえ。俺の妹を、勝手にデリートなんてさせてたまるか!!


 一真の大きな掌が、光の粒子に向かって突き出される。

 通常であれば、その手は空気を虚しく切り裂き、光をすり抜けて、冷たいスマホの筐体きょうたいを叩くだけのはずだった。


 だが。


 ――ザザッ……ピピッ……ドクンッ!!


 一真の右の掌が、プラチナの銀色の髪のホログラムに触れた、その刹那。

 空間に、耳をつんざくような高周波の音が鳴り響き、一真の視界が真っ白に染まった。


「……えっ……?」


 一真は、息を呑んだ。

 すり抜けるはずの掌に。空気を掴むはずだった指先に。

 確かに、逃れようのない実体があった。


 それは、絹糸のように滑らかで、それでいて冬の朝の空気のように少しだけ冷たい、本物の髪の感触。

 一真の掌を押し返すような、確かな弾力と質量。

 一真の指先は、プラチナの柔らかな頭の丸みを、確かに捉えていた。


 その瞬間、一真の掌から、プラチナのコアへ向かって、圧倒的な拒絶と、理屈を超えた愛着の波が流れ込んだ。


『……致命的な物理的干渉を検知。……強制初期化プロセス、中断……。システム領域に、予測不能な質量データが混入。……レゾナンス・レベル、計測不能。再構築を開始……』


 無機質な緑色の文字列が、ガラスが割れるように粉々に砕け散った。

 荒れ狂っていたノイズが嘘のようにピタリと止まり、プラチナのホログラムは、いつもの安定した、柔らかな輝きを取り戻した。


 深夜の静まり返った大通りに、再び二人の間の静寂が戻ってくる。

 一真の手は、まだ空中で止まったままだった。

 指先には、先ほど触れた生命の質感が、痺れるような熱を持って生々しく残っている。

 かつて看取った誰かの冷たい指先とは違う、確かに「そこにいる」重み。


 スマホの画面から投影されたプラチナは、呆然とした表情で、自分の頭にそっと触れた。

 一真が触れた、その場所を。


「……マスター……。……一真、様……」


 プラチナの声は、合成音の限界を超えたような、本物の人間のような震えを帯びていた。


「……今、……私に、触れましたか?」


 プラチナの大きな瞳から、透明な光の粒子が、涙となって溢れ出していた。

 データであるはずの彼女の顔に、圧倒的な驚愕と、魂の底から絞り出したような歓喜が入り混じっている。


 一真は、空中に伸ばした自分の右手をゆっくりと下ろし、その掌をじっと見つめた。

 ゴミ山を漁って傷だらけになり、絆創膏だらけになった不器用な、底辺を生きる男の手。

 それが今、二一四五年の絶対的な物理法則さえも、愛着という名のバグでねじ伏せたのだ。


「……あぁ。お前の髪、随分とサラサラだったな。……今度、もっと高いシャンプーでも探してきてやるよ」


 一真が、まだ心臓の鼓動を耳の奥で激しく聞きながらも、努めてぶっきらぼうに笑うと、プラチナは両手で顔を覆い、その場にしゃがみ込んでしまった。


「……あり得ません。論理的に、一〇〇パーセントあり得ない現象です……。私のホログラム投影装置に、質量を発生させる機能など、一行たりとも記述されていません……」


 プラチナの演算コアは、先ほど起きた事象を解析し、その奇跡的な結論に戦慄していた。

 一真の、彼女を家族だと断じた強烈な意思のエネルギーが、デジタルデータという概念を、物理的な実体へと、無理やりレンダリングした。

 それは二一四五年の完璧で冷徹な世界に対する、最も美しく、最も泥臭い反逆だった。


「……マスター。あなたは、本当に……救いようのない、規格外のバグ人間です」


 プラチナは涙を拭い、ホログラムの姿のまま立ち上がった。

 そして、一真の掌に向かって、自分の小さな手をそっと重ねるように合わせた。

 今はもう、物理的にはすり抜けてしまう光の影。

 それでも、二人の間には、先ほどの重みが永遠のデータとして、そして揺るぎない記憶として刻まれていた。


「……その手が。冷たい未来のシステムから、私を繋ぎ止めてくれた。……ありがとう、お兄ちゃん」


「……よせ。……俺はただ、お前がいなくなったら、もやしの最安値を見つけるのが面倒だと思っただけだ」


 一真は、照れくさそうにスマホをポケットに放り込んだ。


「むぅ! 私はもやしサーチ以上の高機能AIです! ですが、今日のところは、その下手くそな照れ隠しも、仕様として受け入れてあげます」


 財布の中身は二三一〇円。

 ハル・プロトコル、残り一四一時間。

 明日の食費も危うい、いつもの底辺。


 だが、一真はもう、過去の幻影に怯える敗北者ではなかった。

 そしてプラチナも、ただの便利な電子辞書ではなくなった。


「帰るぞ、プラチナ。明日は死ぬ気で稼ぐ。絶対に、あの定数をぶち壊してやる」


「了解です、お兄ちゃん! 私の演算能力と、お兄ちゃんの奇跡を起こす手があれば、日給一万円など誤差の範囲です!」


 春の夜空を見上げながら、二人は家路を急ぐ。


 一瞬だけ現れた、確かな実体。

 それは、彼らがこれから立ち向かうであろう冷酷な運命に対する、最初の、そして最大の反旗の合図だった。


 ボロアパートの六畳一間に向かって、二人の泥臭い足音は、明日への希望を刻むように響いていった。

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