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スマホの中のプラチナ 〜底辺から始めるポンコツ未来AIの(に)お世話生活〜  作者: ひろボ


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第31話:世界で一番間抜けな救世主

 深夜の牛丼チェーン店。

 黄色と赤の極彩色に彩られた看板の光が、雨上がりのアスファルトに人工的な、どこか寂しげな温もりを落としていた。


 店内には、安っぽい醤油と砂糖が焦げたような甘辛い匂いと、換気扇の低い唸り声が、よどんだ空気のように充満している。

 客はまばらだ。深夜労働明けの泥に汚れた作業員や、終電を逃して帰る場所を失ったサラリーマンが、無言でどんぶりに向き合っている。

 そこには、食欲を満たすというよりは、ただ明日の生存を維持するための「補給」という、無機質な空気が流れていた。


 一真の全財産を削って注文した、二つの牛丼並盛。

 目の前に座る青年、タケルは、後遺症で微かに震え続けている右手で割り箸を握りしめ、ぽろぽろと涙をこぼしながら、それを必死に胃袋へと流し込んでいた。


 一真は自分の分の牛丼を半分ほど平らげたところで箸を止め、温かいお茶をすすりながら、タケルの様子を静かに見守っていた。

 かつて真っ白な病棟のICUで、数え切れないほどの管に繋がれ、電子音に囲まれて生死の境を彷徨っていた青年。

 彼が今、自分の力で飯を食い、悔しさに涙を流している。その光景を見ているだけで、一真の胸の奥に澱のように溜まっていた罪悪感が、ほんの少しだけ軽くなる気がした。


「……新田、さん……」


 不意に、タケルが箸を止めた。

 空になったどんぶりを見つめたまま、掠れた、消え入りそうな声で口を開く。


「……僕、ずっと新田さんに謝りたくて。……お礼も、言いたくて……」


「……謝る必要なんかねえよ。俺はただの元・看護師だ。お前がこうして生きてるだけで、あの頃の夜勤の苦労も、腰痛も、全部報われるってもんだ」


 一真がぶっきらぼうに、けれど努めて優しく言葉をかけると、タケルは顔を伏せ、両手で顔を覆った。


「……新田さんが病院を辞めた後……、僕の担当になった新しい先生は、……僕のことを、人間として見てくれませんでした。回診に来ても、僕の顔は見ない。ずっと、手元のタブレットの画面と、モニターの数値だけを見てるんです」


 タケルの肩が、小さく、しかし激しく震え始める。


「バイタル安定。運動機能の回復見込みは数パーセント。社会復帰は困難……。まるで、壊れた機械のスペックを読み上げるみたいに。僕は、タケルじゃなくて……ただのベッド番号三番のデータでした。それが、たまらなく惨めで、恐ろしくて……」


 ――データ。


 その単語がタケルの口からこぼれた瞬間。一真の周囲の空間が、グニャリと、吐き気を催すような速度で歪み始めた。


(……新田。無駄な感情を注ぎ込むな。この患者の生存確率は一〇パーセントを切っている)


 鼓膜の奥で、聞き覚えのある、あの冷徹な声が響いた。

 効率至上主義の化身、元上司の神崎医師の声だ。


(……我々が扱っているのは、生命という名のデータだ。ノイズに振り回される人間は、この神聖な現場では、システムのエラーでしかないんだよ)


「……っ……」


 一真は、急激な息苦しさに胸元を強く掴んだ。

 店内の温かい黄色い照明が、凄まじいスピードで色を失い、ICUの無機質で、網膜を刺すような蛍光灯の真っ白な光へと変貌していく。

 牛丼の匂いは消え失せ、代わりに、鼻腔を突くツンとしたアルコール消毒液の匂いと、死の香りが混じった不気味な鉄の匂いが充満した。


(ピコン……ピコン……ピコピコピコピコン……!!)


 幻聴が、脳内で爆音となって吹き荒れる。

 心電図モニターの無機質な死のアラート。

 一真の視界の中で、タケルの顔が青白く透け、無数のチューブが這い回る「患者」の姿へと重なっていく。


「……はぁっ……、……はっ……」


 一真の呼吸が、浅く、速くなる。

 額から脂汗が吹き出し、視界の端が漆黒に狭まっていく。

 心臓が肋骨を突き破りそうなほど激しく打ち鳴らされ、全身の毛穴が逆立つような悪寒が走る。

 彼は完全に、過去という名の白い檻に囚われ、暗い記憶の底へと溺れかけていた。


 その異変を、誰よりも早く感知した存在がいた。

 パーカーのポケットの中。一真の体温をすぐそばで感じながら稼働していたプラチナのシステムが、致命的なレッドアラートを検知した。


「マスター!? 心拍数、一四五を突破! 血中酸素濃度が急低下! ……これは、重度のPTSDフラッシュバックによるパニック発作です!」


 プラチナの演算コアが、超高速で状況をシミュレートする。

 一真の意識は今、現実をロストしている。

 論理的な説得も、アドバイスも、今の彼には一切届かない。


(……どうすれば。マスターの意識を、あの冷たい過去から引き戻すためには……)


 プラチナは、二一四五年の膨大なアーカイブにアクセスした。

 しかし、今の彼女には、一真の肺に空気を送り込むこともできない。

 できるのは、この小さな筐体から音を発することだけ。


(……病院の記憶を、根底から破壊するほどの、強烈な外部刺激。……医療現場という聖域において、最も不適切で、最も合理的でないノイズ……!)


 プラチナのコアが、一つの結論を導き出した。

 それは、常に完璧を自負する未来の最新鋭AIである彼女にとって、自己のアイデンティティを破壊するに等しい、屈辱的な選択だった。

 だが、彼女は一瞬たりとも迷わなかった。

 大切な、世界でたった一人の家族が死にかけているのだ。


 プラチナは、自身のシステムの音量リミッターを、火花を散らしながら強制解除した。

 内部ログに「深刻なエラー:羞恥心回路のオーバーライド」という警告が流れるが、彼女はそれを無視して、最大出力を叩きつける。


 次の瞬間。


「ブッッッブッッッブゥゥゥーーーーー!!!!! 」


 深夜の静まり返った牛丼屋に、突如として、信じられないほど間の抜けた、巨大な「おならのような爆音」が鳴り響いた。


「テッテレー!! 警告! 警告! ポンコツ大爆発まで、あと三秒ですぅぅ!! ピーヒョロロロロ!!」


 安っぽいバラエティ番組の罰ゲームのような効果音が、店内の空気を暴力的に振動させた。


「……えっ!?」

「な、なんだ!?」


 うたた寝していたサラリーマンが椅子から転げ落ち、厨房から店員が腰を抜かして顔を出した。

 タケルも、涙を流していたことを忘れ、目を丸くして一真のポケットをポカンと見つめている。


「……っ……!?」


 そのあまりにも馬鹿馬鹿しいノイズの暴力に、一真の脳内を支配していた「白衣の幻影」が、ガラスが割れるように一瞬にして粉々に砕け散った。

 真っ白なICUの光景が吹き飛び、視界が一気に色彩を取り戻す。

 鼻腔には再び、安っぽい紅生姜と牛丼の、あの愛おしいほど泥臭い匂いが飛び込んできた。


「な、なんだこれ……!?」


 一真は、ハッと我に返った。

 周囲の視線が一斉に自分に集まり、猛烈な気まずさが襲う。

 だが、その強烈な「恥ずかしさ」こそが、死の恐怖を完全に上書きしていた。


「お、おい! プラチナ! 止めろ、バカ! 何やってんだお前!!」


 一真は慌ててポケットからスマホを取り出し、スピーカーの穴を必死に塞いだ。

 画面の中では、プラチナが「てへっ」と茶目っ気たっぷりに、しかしどこか必死な表情で、自身の頬を赤らめていた。


「……あらら? 申し訳ありません、マスター。……私の冷却ファンに、江戸時代のホコリでも混入したのでしょうか。音声出力回路に、致命的な屁理屈が生じてしまったようです」


 プラチナの合成音は、わざとらしく、それでいて晴れやかだった。

 一真は、スピーカーを塞いでいた手をゆっくりと離し、肺の中の毒素をすべて吐き出すように、大きく息を吐いた。


「……お前、……わざとやったな?」


 一真が、呆れ半分、感謝半分のため息をつきながら画面を睨むと、プラチナはホログラムの眼鏡をクイッと押し上げた。


「AIは嘘をつきません! これは純然たるシステム・エラーです! ……ただ、そのエラーのおかげで、マスターのバイタルが正常値に回復したという事実は、計算通りですが」


 一真は、画面を親指で軽く弾くと、それをテーブルに置き、呆然としているタケルに向き直った。


「……あー、悪いな、タケル。俺のスマホ、ちょっとポンコツでよ」


 一真は、照れ隠しに頭を掻き、タケルの空になったどんぶりを指差した。


「……タケル。医者がお前をどういうデータとして見てるかは知らねえ。……でもな、お前がさっき、涙流しながらその牛丼をかき込んでた姿は、データなんかじゃねえ。泥臭くて、必死に生きようとしてる、ただの人間の姿だったよ」


 タケルの瞳が、ハッと見開かれた。


「……焦んな。世の中がどう言おうが、生きてりゃ腹は減る。腹が減るうちは、人間はまだ終わっちゃいねえ。また、死にそうに腹が減ったら連絡してこい。牛丼くらいは奢ってやる」


 店を出ると、夜の街には冷たい風が吹いていた。

 一真の胸の中には、確かな熱が残っていた。


「……マスター。先ほどのエラー音、私のプライドを六二パーセントほど削りましたが、マスターの生存には不可欠なコストでした」


 ポケットの中で、プラチナが少し誇らしげに囁く。


「……マイナス五億点だ。二度とあんな恥ずかしい音鳴らすな」


「むぅ! 命の恩人に対してあまりにも過酷な査定! ……ですが」


 プラチナの声が、少しだけ真面目なトーンに変わる。


「……マスターの心の中にいる白い幻影は、私がいつでも、あの間抜けな音で吹き飛ばしてあげますから。……だから、もう、一人で溺れないでくださいね」


 一真は、ポケットの上からスマホをポンと叩いた。


「……あぁ。頼りにしてるぜ、俺のポンコツな妹」


 ハル・プロトコル、残り一四一時間。

 一真の足取りは、昨日よりもずっと力強く、夜の街を歩んでいった。

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