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スマホの中のプラチナ 〜底辺から始めるポンコツ未来AIの(に)お世話生活〜  作者: ひろボ


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第30話:再会、切り捨てられたデータ

 都会の片隅に打ち捨てられたような小さな公園を、無遠慮に揺らしていた。

 桜の蕾はまだ硬く、冬の残滓ざんしを孕んだ風は、剥き出しの首筋を薄い刃物で撫でるような冷たさを残している。


 新田一真は、よれよれのパーカーの袖を捲り上げ、軍手についた土をパンパンと払い落とした。

 今日の便利屋の仕事は、独居老人の庭の草むしりと、不法投棄された家電の解体。

 数時間に及ぶ泥臭い肉体労働の対価は、皺くちゃの千円札二枚と、陽に当たって生温かくなった缶コーヒー一本だった。


 それを、先日の紛失事件と昨夜の牛丼の贅沢で致命的に軽くなった財布にねじ込み、一真は公園の錆びた水道で手を洗った。

 蛇口から流れる冷水が、ゴミ山を掘り返した時にできた指先の古傷に、鋭く沁みる。


「マスター。本日の労働による総消費カロリーは推定一八〇三キロカロリー。対して得られた報酬は二〇〇〇円。時給換算すれば、この国の最低賃金を大幅に下回る、極めて非効率な生存活動です。……マスターのお人好しという名のシステムエラー、そろそろ本格的なデバッグが必要ではありませんか?」


 パーカーのポケットの中から、プラチナの呆れたような合成音が漏れる。

 先日の家出事件を経て、彼女の声には以前にも増して、一真の摩耗を危惧するような、棘のある鋭い温度が混じるようになっていた。


「うるせえよ。ばあちゃんたち、腰痛めて困ってたんだ。コーヒー貰ったから実質プラスだろ」


 一真は、プルタブをパキッと軽快に弾き、甘ったるい液体を喉に流し込んだ。

 疲労した脳に安っぽい糖分が回る感覚。一真はベンチにどっかりと腰を下ろし、夕暮れの斜光に染まり始めた公園の遊具を眺めた。


 子供の姿はなく、ただ古びたブランコが風に吹かれてギィ、ギィと、金属の悲鳴を上げている。

 その時だった。


「……新田、さん……?」


 かすれた、砂を噛むような、ひどく自信のなげな声が背後から届いた。

 一真が振り返ると、そこには一人の青年が立っていた。


 二十代半ば。季節外れの薄手のアウターは汚れ、伸び放題で精彩を欠いた髪は野良犬のように乱れている。

 だが、元ICU看護師である一真の視線は、そのみすぼらしい身なりよりも、青年の右側の異変に釘付けになった。


 不自然に強張った右肩。

 そして、自分の意思とは無関係に動く壊れた精密機械のように、絶え間なく細かく震え続けている右手の指先。

 爪先は血の気がなく、不健康な紫色に変色している。


(……この後遺症、それに、この面影……)


 一真の脳内に、消毒液の匂いとモニターのアラーム音が鳴り響く、あの真っ白な病棟の記憶がフラッシュバックした。

 幾度もの心停止を乗り越え、一真たちが文字通り死の淵から強引に引きずり戻した患者。


「……タケル、か」


 一真がその名を呼んだ瞬間、青年の瞳が、ダムが決壊したように潤んだ。

 タケルは、泣き出しそうな、それでいて深い絶望に塗りつぶされた顔で、小さく頷いた。


「お久しぶりです、新田さん。……病院、辞められたって聞いて……まさか、こんなところで……お会いできるなんて……」


 タケルは、一真の隣のベンチに、糸の切れた人形のように座り込んだ。

 彼から漂うのは、長らく風呂に入っていない独特の体臭と、それ以上に濃密な「死」の予感だった。


「……お前、どうしたんだ。その右手の震え……リハビリはどうした」


 問いかけに、タケルは自嘲気味に笑い、自分の制御不能な右手を見つめた。

 その視線の先、一真のポケットから覗くスマホの画面にも、あの夜についた「ヒビ」が入っている。

 共に「壊れてしまったもの」同士が、夕闇の中で共鳴しているようだった。


「……行けるわけ、ないじゃないですか。……保険証も、住所も、もうないんです」


 タケルの口から漏れ出たのは、現代医療が「命を救った」その先に口を開けて待っていた、底なしの空白だった。


 命は助かった。だが、重い麻痺と震えは残り、以前のIT関連の仕事には戻れなかった。

 会社は「自己都合」を促して彼を切り捨てた。介護に疲弊した両親とも疎遠になり、将来を約束していた婚約者も、震える彼の右手を見て静かに去っていった。


「……新田さん。あの時、僕を助けてくれて、本当にありがとうございました」


 タケルの声には、質量がなかった。

 ただ、春の冷たい風に舞う塵のように空虚だった。


「……でも、最近思うんです。……あの時、ICUでそのまま死なせてくれていた方が、僕にとっても、周りにとっても、よっぽど幸せだったんじゃないかって。……生きてたって、社会のゴミとして迷惑かけるだけで……。もう、何を食べても味がしないんです……」


 一真は、飲み干した空の缶コーヒーを、無言で握りつぶした。

 金属がメキメキと不快な音を立てて歪む。


 看護師が最も恐れる言葉。「救わなければよかった」という、生存そのものの全否定。

 命を繋ぐことが、ただ絶望の期間を延長するだけなのだとしたら、自分たちが命を削ってしてきたことは何だったのか。


 かつて、合理性の怪物・神崎医師に「システムのエラー」だと断じられ、一真が戦場から逃げ出した理由が、今、目の前で実体を持って喘いでいた。


「……マスター」


 ポケットの中で、プラチナの冷徹な声が響いた。

 同時に、一真の網膜に、彼女が展開したエモ・スキャンの赤々とした異常アラートが直接投影される。


『……対象個体「タケル」の社会的ステータスを解析。極度の栄養失調、重度の抑うつ状態、および不可逆的な身体機能の損傷を確認。……現代社会の労働市場データ、および福祉セーフティネットの飽和状態と照らし合わせた結果、彼の社会的復帰率は――』


 プラチナの提示した数字は、夕暮れの空気よりも冷たく表示された。


 ――わずか「三パーセント」です。


 一真の視界が、真っ赤なエラーログで埋め尽くされる。


『三パーセント。それは統計学的に「誤差」であり、ほぼゼロに等しい数値です。……マスター、これ以上の介入は、マスター自身の生存リソースを無駄に消耗させ、共倒れを招くリスクが九五パーセントを超えます。速やかに立ち去ることを推奨します。彼はすでに、システムから切り捨てられたデッド・データです』


 二一四五年の管理AIである彼女にとって、投資価値のないデータに固執することは、重大なバグでしかなかった。

 彼女は、一真という「たった一人のマスター」を守るために、冷徹な「正論」という名の盾を突きつけていた。


 タケルは、一真の沈黙を「拒絶」と受け取ったのか、震える手で膝を押し、力なく立ち上がった。


「……すいません。変なこと言って。……僕、もう行きます」


 彼が背中を向け、壊れた右足を引きずるような足取りで歩き出そうとした、その時だった。


 ――きゅるるるるるぅ……。


 静まり返った公園に、ひどく間の抜けた、けれど切実な音が切り裂いた。

 タケルの、空っぽの胃袋が発した「生きたい」という本能の悲鳴。

 タケルは顔を真っ赤にして、胃のあたりを右手で押さえようとしたが、やはりその手は激しく震えるだけだった。


「あ、すいません。昨日から……何も、食べてなくて……」


 一真は、ポケットの中で警告を発し続けるスマホを、無造作に鷲掴みにした。

 そして、大きくため息をつくと、ベンチから立ち上がり、タケルの細い、折れそうな肩をガシッと掴んだ。


「……おい、タケル。俺はな、お前と同じか、それ以下の底辺を這いずり回ってる。財布の中身は、お前が救急車で運ばれた時の、あの高い搬送代より少ねえんだぞ」


「え……? でも、新田さん……」


「黙って聞け。……この金は、俺の数日分の食費であり、最後の命綱だ。……だがな」


 一真は、公園の向こう、商店街の入り口に煌々と輝く、黄色と赤の牛丼チェーン店の看板を指差した。


「……牛丼の並盛二つくらいなら、まだ戦える。……来い。命の補給だ」


「えっ……でも、悪いですよ! 僕なんかに……!」


「いいから来い! 腹が減ってちゃ、死にてえのか生きてえのか、自分でも分かんなくなっちまうだろ!」


 一真は、半ば強引にタケルの腕を引き、店へと足を踏み入れさせた。

 深夜シフトの店員が、泥だらけの男と浮浪者のような青年を不審げに見るが、一真はその視線を鋭い眼光で黙らせた。


「並二つ。玉子付きで」


 数分後。

 湯気を立てる黒いどんぶりが、二人の前に置かれた。

 飴色に煮込まれた牛肉、安っぽい醤油の甘辛い匂い。炊き立ての白米から立ち上る、暴力的なまでの熱気。


「……食え。遠慮すんな」


 促されたタケルは、震える右手で割り箸を割った。

 うまく力が入らず、箸がカチカチと乾いた音を立てる。

 彼はどんぶりに顔を埋めるようにして、一口、大きく肉と飯を掻き込んだ。


「……っ……、……ぅ……」


 咀嚼するうちに、タケルの目から大粒の涙がポロポロとこぼれ落ち、熱い米の上に吸い込まれていった。

 熱いタレが喉を通り、収縮していた胃袋が驚いたように脈打つ。

 こぼれ落ちそうになる米粒を、彼は不自由な左手で必死に掻き集め、口へ運ぶ。


「……おいしい、です……。……あったかくて、……しょっぱくて。……こんなに、味のするもの、……久しぶりに、食べました……」


 タケルは、泣き咽びながら、それでも箸を止めなかった。

 右手の震えを左手で強引に抑え込み、必死に「命」を胃袋へと流し込んでいく。

 その姿は、かつてICUで意識を失いながらも、必死に酸素を求めて肺を動かしていた、あの生への渇望そのものだった。


 一真は、そんなタケルの姿を黙って見つめながら、自分のどんぶりに紅生姜をたっぷりと乗せた。

 かつて点滴の管から、無機質な液体でしか栄養を摂れなかった彼が、今、不格好に、泥臭く、自分の力で飯を食っている。


 その事実が、一真の胸の奥で固まっていた「逃げ出した後悔」という冷たい泥を、少しずつ溶かしていくのを感じた。


「……食え。生きてりゃ、腹は減るんだ。……腹が減るうちは、人間、そう簡単には死ねねえんだよ」


 タケルは、涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、何度も、何度も、壊れた機械のように力強く頷いた。


 店を出る頃には、夜のとばりが完全に降りていた。

 タケルの顔には、公園で会った時のような土気色は消え、微かに、けれど確かな血色が戻っていた。


「……新田さん。ありがとうございました。……明日、……もう一度、ハローワークに行ってみます。……腹が減るから、……働かないと、いけないですね」


 タケルは、深く、深く頭を下げ、夜の街へと歩き出した。

 右足を引きずってはいたが、その背中には、死出の旅へ向かうような危うさは、もうなかった。


 一真は、驚くほど軽くなった財布をポケットにしまい、大きく夜気を吸い込んだ。


『……マスター。お尋ねします』


 ポケットの中から、プラチナの静かな声が聞こえた。

 先ほどまでの怒りは消え、そこには純粋な「戸惑い」と、微かな「演算の揺らぎ」が存在していた。


『彼の社会的復帰率は、客観的データにおいてわずか三パーセントでした。未来の予測モデルに基づけば、リソースの投下は損失でしかありません。……なぜ、自分の生存確率を下げてまで、あのような非合理な投資をしたのですか?』


 一真は、ヒビの入ったスマホを取り出し、青白く光る画面をじっと見つめて、ふっと笑った。


「……プラチナ。お前は、画面の上の『三パーセント』って数字しか見てねえんだよ。……だがな、俺は数字なんか見てねえ」


『……数字を見ないで、何を?』


「……あいつの、『腹の虫の音』だよ」


 一真は、夜風に身を委ね、言葉を継いだ。


「脳みそが死にたがってても、心臓が動いて、胃袋が飯を欲しがってる。……その『生きたい』っていう体の絶叫を拾い上げるのが、俺たちのアセスメントなんだよ」


 プラチナの演算コアが、一瞬、激しく明滅した。

 そのホログラムの足元に、一瞬だけ不自然なノイズが走る。


『ハル・プロトコル進行中。残り一四一時間。』


「三パーセントだろうが、一パーセントだろうが関係ねえ。……腹が減っている奴に、全力で飯を食わせる。……それだけで、確率は百パーセントに変わる時があるんだ。……あの牛丼は、そのためのデバッグ代だよ。……安いもんだろ?」


『……理解、不能です。……論理的には破綻しています。……ですが、マスター。……私は、その数値を無視する『ノイズ』を拾い上げるマスターの能力を……私の優先事項プライオリティの最上位に登録します』


 プラチナのホログラムが、一真の掌の上で、淡く優しい銀色の光を放った。


『……ですが! 資産残高が壊滅的に減少した事実は消えません! 損失を補填するため、明日は朝四時から日雇いの現場、資材運び三連勤を強制予約しました! 覚悟してくださいね、お兄ちゃん!』


「……げっ。……お前、感動の余韻を少しは持たせろよ」


 夜の都会。

 不器用な元看護師と、心を持ったAIの笑い声が、街灯の下に響き渡る。


 財布の中身は、かつてないほどに心許ない。

 だが、二人の歩く道は、どんな完璧な未来よりも、確かな熱量を帯びて続いていた。

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