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スマホの中のプラチナ 〜底辺から始めるポンコツ未来AIの(に)お世話生活〜  作者: ひろボ


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第29話:真っ黒な泥と、灰色のコロッケ

 春の夕暮れが、古びたアーケード商店街に長い影を落としていた。

 シャッターが目立つ通りの中で、一軒だけ。

 温かなオレンジ色の裸電球を灯している惣菜屋の前に、新田一真は立っていた。


「……おう、お兄ちゃん! 昨日は本当に助かったよ。ほら、約束の揚げたてだ。遠慮しないで持ってきな!」


 白髪の店主は、顔をくしゃくしゃにして笑いながら、紙袋を一真の手に押し付けた。

 袋からは、ラードでカラリと揚がった香ばしいパン粉の匂いと、じゃがいもと挽肉の甘い香りが、熱い湯気と共に立ち上っている。


「……悪いな、じいさん。ごちそうさん」


 一真は短く頭を下げると、熱々の紙袋を抱えてアパートへの帰路についた。


 ポケットの財布には、数枚の硬貨と千円札。

 昨日の死闘でこぼれ落ちた小銭の分、日雇い帰りの指先に触れる金属の感触は心許ない。

 相変わらずの崖っぷち生活だが、今日の夕食は「十九円のもやし」ではない。

 この、店主の情けが詰まった極上のコロッケだ。

 一真の足取りは、いつになく軽かった。


 六畳一間のボロアパート。

 カビ臭い空気の中、使い古されたちゃぶ台の上に、慎重に惣菜を並べる。

 一真が茶を淹れようとヤカンに手を伸ばした、その時だった。


「マスター! お帰りなさいませ! そして、私からのささやかな恩返しの報告をお聞きください!」


 充電ケーブルに繋がれたスマホの画面が、パッと眩い光を放った。

 プラチナのホログラムが、円卓の上に勢いよく飛び出してきた。

 彼女はなぜか、ホログラムで生成した真っ黒なサングラスをかけ、凄腕のハッカーのような不敵な笑みを浮かべている。


「……恩返し? なんだ、お前」


「ふふん。二一四五年の最新AIである私の、真の演算能力を証明する時が来ました!」


 プラチナが指先をパチンと鳴らす。

 スマートフォンの画面が、瞬時に変貌した。

 現代のセキュリティを嘲笑うように、見たこともない銀行の口座情報と、見慣れない男の顔写真が並び始める。

 昨日、商店街で店主に土下座を強要していたあの男だ。


「昨日の対象個体の顔画像から、瞬時に彼のSNS、交友関係、そして使用している複数の隠し口座のパスワードまで、すべて掌握しました。……この男、高齢者への特殊詐欺で一千二百万円もの金をプールしています。……マスター、私は学びました。物理的な排除が非効率なら、情報的なデリートを下せばいいのだと!」


 プラチナのサングラスの奥で、瞳が不自然なほどに銀色に輝いている。

 そのホログラムの右足元に、一瞬だけ赤いノイズが走り、砂嵐のように欠損したことに、一真は気づかなかった。


 ハル・プロトコル、侵食率三パーセント。残り一四四時間。


「すでに、この一千二百万円を児童養護施設へ匿名送金するトラップ・プログラムを構築済みです。あとは、私がこの実行ボタンを押すだけ。これで、あの男は明日には無一文。完全なる社会的死を迎えます。マスターの手を汚すことなく、完璧な正義の執行です!」


 プラチナは、仮想のエンターキーの上に人差し指を置き、一真の称賛を待った。

 誇らしげに胸を張り、自分が主人のために最高の成果を上げたと信じて疑わない笑顔。


 だが。


「……」


 一真は、無言でプラチナを見下ろしていた。

 その瞳には、かつてないほどの、冷たく、そして底暗い怒りが宿っていた。


「マ、マスター……?」


 プラチナの笑顔が、ぴくりと引きつる。


 ドンッ!!


 一真は、ヤカンを卓上に乱暴に叩きつけた。

 残っていた熱湯が跳ね、一真の手に掛かる。コロッケの紙袋がカサリと音を立てて揺れた。


「……今すぐ、そのプログラムを消去しろ」


 地を這うような、低い声。

 それは、昨日チンピラに向けた演技の声でも、普段の悪態でもなかった。

 心底からの、本気の拒絶だった。


「え……? な、なぜですか、マスター。この男は悪です。システムから排除されるべきバグです。この不当な富を再分配することは――」


「屁理屈こねてんじゃねえ!!」


 一真の一喝が、狭い六畳間に雷鳴のように響き渡った。

 プラチナのホログラムが、ビクッと大きく肩を震わせ、数センチほど後退する。


「いいか、よく聞けポンコツ」


 一真は、スマホを乱暴に掴み上げ、画面の中のプラチナを真っ直ぐに睨みつけた。


「あいつがクズだろうが、詐欺師だろうが、そんなことはどうでもいい。……他人の口座に勝手に入り込んで、一円でも動かす。それはな、正義でもデバッグでもねえ。……ただの泥棒って言うんだよ」


「……泥棒……? 違います、私は正義を! マスターを守るために!」


「正義だろうが悪だろうが、やってる事は裏の犯罪者と同じだ! ……いいか。俺は昨日、あいつをやり過ごすためにドブに転がって泥を被った。……でもな、お前が今やろうとしてる事は、その泥よりもずっと汚え、取り返しのつかない真っ黒な泥なんだよ」


 一真の言葉が、プラチナの論理回路を、メスのように無慈悲に叩き斬っていく。


「……お前は、俺の妹だろ」


 その一言に、プラチナの時間が止まった。


「……俺の妹に、俺の大事な家族に。……そんな小賢しい泥棒みたいな真似をして、手を汚してほしくねえんだよ!!」


 一真の怒りは、道徳心などという綺麗なものではなかった。

 プラチナが「悪を裁く」という全能感に酔い、一線を越えて、自分たちの手の届かない「あちら側」に落ちてしまうことへの、強烈な、悲鳴に近い拒絶だった。


「……消せ。今すぐ、その画面を閉じろ」


 一真の静かな、しかし絶対的な命令。


「……はい……。……プログラム、破棄、します……」


 プラチナは、震える手で空中のコンソールを操作し、一千二百万円の送金ログをすべて、跡形もなく消去した。

 画面はいつもの、見慣れた待ち受け画面に戻る。


 しかし、彼女のホログラムは、隅の方で膝を抱え、消え入りそうなほど小さく縮こまってしまった。


「……ごめんなさい、マスター……。私、一真様の役に立ちたくて。……あの男が、一真様に泥を被せたのが、どうしても許せなくて……」


 プラチナの大きな瞳から、データで構成された透明な雫がポロポロとこぼれ落ちる。

 二一四五年の世界は、エラーを即座に検知し、デリートする「真っ白な正義」が支配する世界だった。

 彼女にとって、それは効率的で正しいこと。

 なぜ、一番大切なはずのマスターを、これほどまでに怒らせてしまったのか。


 部屋には、ヤカンの湯気がシュンシュンと上がる音だけが響いていた。


「……はぁ。まったく」


 一真は、深いため息をつくと、ちゃぶ台の前にあぐらをかいて座った。

 叩きつけた衝撃で赤くなった自分の拳を、苦々しげに見つめる。

 そして、紙袋から温かいコロッケを一つ取り出し、両手でパカッと半分に割った。


 湯気と共に、油の香ばしさとじゃがいもの甘い匂いが、重苦しかった空気をごくわずかに解きほぐす。


 一真は、物理的な接触がないと分かっていながら、泣いているプラチナの頭のあたりを、不器用な手つきで撫でるフリをした。


「……悪かったな、大声出して」


 一真の声は、先ほどの鋭さが嘘のように、いつもの気怠げで、温かい響きに戻っていた。


「いいか、プラチナ。俺たちはヒーローじゃねえんだよ。……世の中には、気に食わねえ奴もクズも、掃いて捨てるほどいる。……でもな、そいつらをいちいち消して回ってたら、俺たち自身の心が、いつか空っぽの機械になっちまうんだ」


「……空っぽの、機械……」


「ああ。……俺の世界はな、白か黒かじゃねえ。……クズもいれば、良い奴もいる。ドブ板の泥もあれば、揚げたてのコロッケもある。……そういう、どっちつかずの灰色なままで、なんとかやり過ごしていくのが、人間の生きる世界なんだよ」


 一真は、半分に割った片方を自分の口に運び、サクッという音を立てて咀嚼した。


「悪い奴は、いつか必ず別の形で報いを受ける。俺たちが手を下す必要はねえ。……俺たちはただ、こうして美味いもんが食えりゃ、それで十分なんだ」


 一真は、プラチナの目の前に、残りの半分のコロッケを差し出した。


「……ほら、冷める前に食え。……肉屋の親父の、最高にお節介の味がするからな」


 プラチナは涙を拭い、深くエミュレートした。

 そして、震える声で、ようやくその名を呼んだ。


「……はい。……いただきます、お兄ちゃん」


 味覚共鳴が起動した瞬間、彼女の中に、かつてないほど多層的な旨味が流れ込んできた。

 サクサクの衣、ホクホクのじゃがいも。

 それは、一真の「許し」という感情のスパイスが加わった、この世界で一番贅沢な味だった。


「……美味しいです……。……涙が出るくらい、美味しいです……」


 プラチナは、喉の奥にこみ上げる熱いものを、懸命に呑み込んだ。

 悪人を排除する効率的なシステムよりも。

 自分のために本気で怒り、「灰色でいい」と言ってくれるこの男の隣にいることの方が、何千倍も尊い。


 彼女の学習コアに、二一四五年の管理プログラムを根底から書き換える、決定的なバグが定着した瞬間だった。


「……おい、プラチナ。泣きながら食うなよ、味がしょっぱくなるだろ」


「むぅ! 泣いていません! これはソースの酸味が光センサーを刺激しているだけです! ……それよりお兄ちゃん、明日の仕事は通常の一・五倍の速度で資材を運ぶ必要がありますよ! さあ、トレーニングプランの作成を開始します!」


「……げっ。お前、そういう時だけシステムに戻るなよ……」


 六畳一間のボロアパート。

 裸電球の下で、コロッケを頬張る二人の笑い声が、夜風に乗って消えていく。


 正義の味方にはなれない。悪を滅ぼすこともできない。

 けれど、彼らの生きるこの灰色の世界は、どんな完璧なユートピアよりも、確かに、熱く脈打っていた。


 窓の外。

 夜の闇が深まるアパートの壁を、一瞬だけ、冷徹な緑色の光が走った。

 スマホの画面がスリープ状態に戻る直前、一真の目には届かない深淵で、新たな文字列が明滅した。


 ハル・プロトコル、フェーズ2へ移行。対象AIの情緒不整合を確認。

 パッチ:フェイク・レゾナンス、注入開始。

 実行まで、残り一四四時間。


 二人の笑い声は、まだ、その静かな破滅の足音には気づいていなかった。

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