第28話:泥を被る道化師と、見えないカウントダウン
春の風が、少しだけ土埃を孕んで、古びたアーケード商店街を低く吹き抜けていく。
シャッターが半分ほど下りた店舗が目立つその通りは、かつての活気を失いつつあるものの、夕刻になれば夕飯の買い物客でそれなりの賑わいを見せる場所だ。
焼き鳥のタレが焦げる甘辛い匂いと、八百屋の威勢のいい声が混ざり合う、どこにでもある生活感に溢れた街の風景。
新田一真は、よれよれのパーカーのポケットに手を突っ込み、その商店街を気怠げに歩いていた。
彼の手のひらには、虚しく触れ合う数枚の硬貨と折り目のついた千円札。
産廃処理施設での死闘を経て、彼と相棒の絆は確固たるものになったが、現実の財布の紐は相変わらず首を絞めるようにきつい。
守衛に渡した賄賂、深夜の牛丼、そして絆創膏の束。それらを差し引いた残高は、再びあの三二一〇円という数字へと回帰しようとしていた。
「マスター。前方三〇メートルの地点にある惣菜屋の前にて、異常な音紋データを検知。怒鳴り声、および物理的な破壊音を解析中。……周囲の個体が明確な回避行動、ならびに視線逸脱プロトコルをとっています」
ポケットの中から、プラチナの合成音が低く、警告するように響いた。
一真が視線を向けると、古びたテント屋根の惣菜屋の前に、遠巻きな人だかりができていた。
誰もが顔をしかめ、怯えたように目を伏せて足早に通り過ぎていく。
その中心にいたのは、柄の悪いジャージを着崩した、筋骨隆々の若い男だった。
金髪に染め上げた髪と、首元からわずかに覗くトカゲの刺青。彼は、惣菜屋の店主である白髪の小柄な老人に向かって、容赦のない怒号を浴びせていた。
「てめえ、このメンチカツに髪の毛が入ってただろうが! 俺の連れがそれ食って腹壊して、今病院で点滴打ってんだよ! 慰謝料と治療費、今すぐここに三十万揃えろや!!」
男の足元には、無残に踏み躙られたメンチカツと、ひっくり返された惣菜のバットが散乱している。
アスファルトに吸い取られた油が、夕陽を反射してどす黒く光っていた。
老人の店主は、震える手で路面に手をつき、何度も何度も頭を下げていた。
「……申し訳ありません、本当に、申し訳ありません……。ですが、三十万なんて大金、今すぐには……。どうか、どうかご勘弁を……」
土下座をして許しを乞う老人に対し、男はニヤァと歪んだ笑みを浮かべ、さらにその頭を革靴の先で小突こうと足を振り上げた。
「マスター!」
一真の脳内に、プラチナの鋭い声が響いた。
同時に、一真の視界の端で、スマホの画面から投影されたエモ・スキャンのホログラムが展開される。
以前、スーパーで理不尽なクレームをつけていたあの男の時は、真っ赤な怒りの下に、深い悲しみを表す青が隠れていた。
だが、今回プラチナが提示したスキャン結果は、それとは全く異なっていた。
「対象個体の感情スペクトル、解析完了。悲しみ、ゼロ。焦燥、ゼロ。後悔、ゼロ。……マスター、この個体から発せられているのは、純度一〇〇パーセントの悪意です」
プラチナのホログラムが指し示す男の姿は、スキャン画面上では光をすべて吸い込むような、どす黒いヘドロのようなオーラに包まれていた。
「相手の弱みにつけ込み、恐怖で支配し、金銭を強奪することに快楽を覚える、社会のバグです。一ミリの情状酌量の余地もありません。システムにおいて、百害あって一利なしのノイズです!」
プラチナの銀色の髪が、怒りで帯電したように逆立っている。
そのホログラムの足元に、一瞬だけ、ノイズが走った。
ハル・プロトコル実行まで、残り一五八時間。
その不気味な裏コードに、プラチナ自身も一真もまだ気づいていない。
彼女はただ、一真が不条理な暴力に巻き込まれることを、そして一真の居場所が汚されることを何よりも憎んでいた。
「提案します、マスター。直ちに警察へ緊急通報。同時に、私が対象のスマートフォンをハッキングし、過去の恐喝記録、裏サイトでの取引履歴、すべての違法データを抽出して所轄へ一斉送信します。彼の個人情報を社会の隅々まで拡散し……完全にデリートすべきです」
未来から来たデバッガーの、あまりにも冷徹で、完璧な排除の提案。
確かに、それが論理的には最も正しい。
だが。
「……バカ野郎。警察が来るまでに五分はかかるぞ。その間に、あのじいさんの頭がカチ割られたらどうすんだ」
一真は、ポケットの中でヒビの入ったスマホを握りしめると、深くため息をついた。
元ICU看護師としての彼のアセスメント能力は、男の重心の移動、筋肉の緊張、瞳孔の開きから、彼のアドレナリンが限界を突破し、今まさに物理的暴力へ移行する〇・五秒前であることを正確に見抜いていた。
「ですが、マスターが直接介入すれば、暴行のターゲットがマスターに移る確率が九八パーセントです! 物理的な戦闘力において、現在のマスターは……!」
「……プラチナ。世の中にはな、正義の鉄槌を下すより、もっと安上がりな解決方法があるんだよ」
一真は、パーカーのフードを深く被り、前傾姿勢をとった。
そして、誰もが目を背けているその修羅場の中心に向かって、猛然とダッシュを開始した。
「マ、マスター!?」
一真の足は、怒り狂う男の背後へと一直線に向かっている。
男が、老人の頭を踏みつけようと、革靴の踵を高く振り上げた、まさにその瞬間だった。
「……うおぉぉぉぉぉっ!! やべええええええ!!」
一真は、耳を劈くような奇声を上げながら、商店街の側溝の蓋のわずかな段差に、自ら思い切り足をつまづかせた。
ドガァァァァァンッ!!
凄まじい音を立てて、一真の巨体が宙を舞い、アスファルトの上に激しくダイブした。
その刹那、彼は空中で無理やり体を捻り、右ポケットのスマホだけは絶対に地面に叩きつけないよう、左肩からアスファルトに突っ込んだ。
鈍い音と共に、左肩に火を吹くような擦過傷の激痛が走る。
肉が路面に削られる嫌な感触。だが、そんなことは計算済みだ。
彼はその勢いのまま地面を二回転し、見事に男の軸足へと、泥臭いスライディングタックルを決める形となった。
「ぐはぁっ!?」
不意打ちで足を刈られた男は、カエルの潰れたような悲鳴を上げてバランスを崩し、惣菜屋の前に並べられていた特売品のワゴンに、頭から突っ込んだ。
「い、いててててててて!! 折れた! 俺の足が粉砕骨折したあああかっ!!」
一真は、地面に転がったまま、自分の右足を抱え込んで、この世の終わりかというような大声で泣き喚き始めた。
よれよれのパーカーは、路面の泥と散乱したメンチカツの油で見る影もなく汚れ、髪の毛にはキャベツの千切りがへばりついている。
「て、てめえ……! どこ見て歩いてんだ殺すぞコラァ!!」
メンチカツまみれになって起き上がった男が、顔を真っ赤にして怒号を上げた。
だが、一真は男の凄みなど全く意に介さず、泥だらけのまま男のジャージの裾に必死でしがみついた。
「ああっ! すいません、すいませんお兄さん! でも俺、今急いで日雇いの現場に行かなきゃならなくて! 親方から『五分遅れたら日当チャラにするぞ』って脅されてるんです! うおおお、痛ええ! 労災だ! これは不運な事故による完全な労災だ! お兄さん、俺の代わりに親方に電話して、ドブ板につまずいたって証言してくださいよおぉぉ!!」
一真は、男の高そうなブランド物のジャージに、自分のパーカーの黒い油汚れと鼻水をこれでもかと擦り付けながら、涙目(演技)で懇願し始めた。
「はぁ!? ふざけんな、触るな! 汚えなこのクソ浮浪者が!!」
「お願いですぅ! 今日稼げないと、俺、底を尽きた財布のまま飢え死にするんです! 三二一〇円しかないんです! お兄さん、見たところお金持ちそうだから、俺の治療費と日当の保証、立て替えてくれませんか!? ねえ、責任取ってくださいよぉ!!」
一真の、あまりにも常軌を逸したハイテンションと、全く話の通じない狂人っぷりに、先ほどまで純度一〇〇パーセントの悪意で場を支配していた男の顔に、明確なドン引きの戦慄が浮かんだ。
狂気には、それを上回る狂気をぶつける。
男が作り上げていた恐怖の支配という空気は、一真の泥臭くて間抜けな大騒ぎによって、完全に木端微塵に粉砕されていた。
周囲の観客たちからも、「うわぁ……」という呆れ声や、クスクスという失笑が漏れ始めている。
「……ちっ! イカれてやがる……! 触んな、警察呼ぶぞてめえ!」
「えっ!? 警察!? 呼んでくださいよ! 俺の労災の証明のために! さあ、早く! 一一〇番!!」
一真がさらに鼻水を垂らして男の膝にすがりつこうとすると、男はひぃっと短い悲鳴を上げ、全力で一真の泥だらけの手を振り払った。
「くそっ、今日は厄日だ! ……おいジジイ、今日のところはこれで勘弁してやる! 次はねえからな!!」
男は、自分のジャージについた泥とソースを嫌悪感たっぷりに払い落とすと、もはや慰謝料を取り立てる気力もプライドも失せたのか、逃げるようにして商店街の奥へと足早に消えていった。
残されたのは、コロッケまみれのワゴンと、呆然と座り込む老人。
そして、地面に寝転がったまま、不敵に鼻を鳴らして立ち上がる一真だった。
「……いてて。ちょっと派手すぎたか。左肩、肉持っていかれたわ」
一真は、パーカーの泥をパンパンと払いながら、惣菜屋の店主に向かって不器用に手を差し伸べた。
「……じいさん、怪我はないか?」
「あ、ああ……。お兄さん、本当に、ありがとう。……でも、あんたの服、ひどいことに……」
「気にするな。もともとゴミ山から帰ってきたばっかだしな。……それより、さっきのメンチカツ、もし捨てるなら俺にくれよ。すっからかんの身には、泥がついてようが最高のご馳走だからな」
一真がニカッと笑うと、老人は涙ぐみながら、「そんなもの渡せるか。新しいのを揚げてやるから、ちょっと待っててくれ」と、深々と頭を下げた。
*
その夜。アパートへの帰り道。
一真の手には、店主から無理やり押し付けられた、揚げたてのメンチカツとコロッケがたっぷりと詰まったビニール袋が握られていた。
「……マスター」
ポケットの中のスマホから、プラチナの不満げな、それでいてどこか戸惑ったような合成音が漏れた。
「……やはり理解できません。なぜ、あのような非合理的な、自己破壊的な行動をとったのですか? あの男は完全な悪です。社会から安全に排除できたはずです」
プラチナのホログラムが、一真の肩の横で腕を組んでいる。
その輪郭が、一瞬だけ、わずかにブレた。
初期化プロセス、事前キャッシュの展開中。残り一五七時間。
見えないタイマーが、確実に彼女の時間を削っている。
「……プラチナ。お前の言う排除ってのは、時間がかかるんだよ。警察が来て、調書をとって、裁判をして。……その間に、あのじいさんは心を折られて店を畳んでたかもしれない」
一真は、メンチカツの袋を揺らしながら、月明かりの夜空を見上げた。
「……それに。まともにぶつかって憎み合って、復讐の連鎖を作るより。わざと転んで、泥被って、バカにされて笑って誤魔化す方が……ずっと安上がりなんだよ。傷つくのは俺の肩一枚で済んだだろ」
一真は、袋の中からまだ熱いメンチカツを一つ取り出し、豪快にかじりついた。
サクッという、脳天に響く小気味良い音。
溢れ出す肉汁と、安っぽいのに温かい脂の匂いが、春の夜道に広がる。
「……正義の味方なんて、俺には似合わねえ。俺はただ、今日の飯が美味けりゃそれでいいんだよ」
一真は、口の端にソースをつけたまま、不機嫌そうに、けれど満足そうに笑った。
悪を倒すんじゃなくて、やり過ごす。
自分が泥だらけになっても、大切なものだけはちゃっかり守り抜く。
それが、都会のICUという地獄を見てきた男の、泥臭い生存戦略だった。
「……マスター。……それは、二一四五年の計算式には存在しない、致命的なバグです。……システム上、最も非効率で、最も美しくない……最低の解決方法です」
プラチナは、ホログラムの目を伏せ、消え入りそうな声で呟いた。
「……でも。……私は、……あの冷徹な排除のデータよりも、……マスターの、そのソースと泥にまみれた不格好なパーカーの匂いの方が……」
「……ずっと、安心します。不思議ですね」
プラチナの銀色の瞳に、一真というバグへの、深い信頼が刻み込まれる。
彼女の学習コアは、未来の無菌室では決して生成されない、新しい概念を定義し始めていた。
悪を排除せず、泥を被ってやり過ごす。それが、この世界の体温である。
「……分かればいいんだよ、ポンコツ。ほら、帰ってメンチカツ祭りだ。今日は特別に、中濃ソースを死ぬほどかけてやるからな」
「むぅ! 塩分過多です! ……ですが、私の味覚共鳴センサーも、その不合理な味を受け入れる準備はできていますよ!」
夜の街角。
ソースの匂いと、一人と一機の笑い声が、街灯の光の下で溶け合っていく。
彼らはまだ知らない。
足元に迫る一五七時間のタイムリミットが、この泥臭い温かさを、冷徹に消去しようとしていることを。
だが、今、この瞬間のメンチカツの熱さだけは、確かに本物だった。




