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スマホの中のプラチナ 〜底辺から始めるポンコツ未来AIの(に)お世話生活〜  作者: ひろボ


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第27話:真夜中の聖餐、あるいは未来からの足音

 深夜の冷たい風が、巨大なビルの谷間をすり抜け、湿ったアスファルトの上を這うように吹き抜けていく。

 三月の夜気は、産廃施設のゴミの山で汗だくになった一真の体温を、容赦なく、そして急速に奪い去っていった。


 生還した新田一真の体は、文字通りボロボロだった。

 元はグレーだったはずのよれよれのパーカーは、真っ黒なヘドロと酸化した機械油のシミでドロドロに汚れ、周囲に鼻を突く異臭を放っている。


 狂ったように鉄屑を掘り返した両手の指先からは、まだ微かに熱をもった鮮血が滲み出していた。応急処置として、ポケットの底で埃まみれになっていたティッシュを巻きつけてはいるが、ズキズキとした拍動を伴う痛みが、疲労しきった神経を執拗にさいなんでいる。


 ふくらはぎの筋肉は限界を超えて硬直し、一歩踏み出すたびに膝がカクンと無様に崩れそうになる。

 だが、一真の足取りは、不思議なほどに、そして不気味なほどに軽かった。


 彼の右手には、泥を拭き取られ、画面の端に痛々しい蜘蛛の巣状のヒビが入ったスマートフォンが握られている。

 まるで、自分の体から無理やり引き剥がされた大切な臓器を、再びあるべき胸の内に収めたかのように。彼はそれを、絶対に二度と離さないと誓うように、汚れた掌で愛おしく握りしめていた。


「……マスター。私の演算によれば、現在のマスターの肉体疲労度は九二パーセントを超過、深刻な低血糖状態にあります。直ちにエネルギーを補給しなければ、この冷たい路上で意識を消失し、凍死、あるいは野犬の餌になる確率が、極めて高いです」


 パーカーのポケットから少しだけ顔を出したスマホのスピーカーから、プラチナの合成音が響いた。

 先ほどの、ゴミの山で見せたノイズまみれの涙声は、もうそこにはない。


 いつもの口うるさい、けれどどこかホッとするような体温を感じさせる「世話焼きの妹」の声に、彼女は自力で戻っていた。


「……分かってるよ。俺の腹の虫も、さっきから不平不満の大合唱だ。死なれて困るのは俺も一緒だよ」


 一真は乾いた唇を舌で湿らせ、重い顔を上げた。

 暗く沈んだ大通りの交差点の先に、黄色と赤の極彩色で彩られた看板が、まるで夜の海に浮かぶ灯台のように煌々(こうこう)と輝いている。


 二四時間営業の、全国チェーンの牛丼屋だ。


 自動ドアがウィーンと無機質な音を立てて開くと、冷え切った一真の体を暴力的に包み込むような、強烈な温気と湿気が彼を迎え入れた。


 醤油と砂糖が煮詰まった、甘辛く重たい匂い。

 大鍋で茹で上がった牛肉の脂と、飴色になった玉ねぎの濃厚な香り。

 それは、空腹の極限にある人間にとって、未来のどんな高尚な芸術よりも強烈に、生存本能そのものを直接揺さぶる匂いだった。


 深夜の店内は、死んだように静まり返っている。

 カウンターの隅で、疲れ果てたスーツ姿のサラリーマンが、食べかけの味噌汁の横で突っ伏して眠っている。店内に流れる安っぽいJ-POPのBGMが、妙に耳にまとわりついた。


 一真は一番奥の、誰の視線も届かない席にどっかりと腰を下ろすと、冷水機で汲んできた氷入りの水を、喉を鳴らして一気に三杯飲み干した。氷が奥歯に当たる音が、静かな店内に響く。

 そして、一真はテーブルの上に、自分の魂の片割れであるスマホをそっと置いた。


「いらっしゃいませ。……ご注文はお決まりですか?」

「……牛丼の並。それと、生卵を一つ」


 深夜シフトの店員が、泥と血にまみれた一真の姿を一瞬だけ不審げに見つめたが、深く関わるのを避けるように、気怠げに注文を復唱して厨房へと消えていった。


 一真は、パーカーのポケットから、施設の守衛に渡した「謝礼」のせいで極限まで薄くなった財布を取り出した。

 残高は、この牛丼の支払いを終えれば、文字通りのゼロに限りなく近くなる。

 明日一日の食費すら危うい。また、もやし一袋を二人で分ける日々への、確定的な逆戻りだ。


 それでも、一真は一ミリも迷わなかった。

 今の彼らには、小銭を数える理性よりも、明日を生きるためのこの「熱量カロリー」が必要だった。


「……まったく。命がけでゴミ山を漁って、結局行き着く先が、深夜の安い牛丼とはな。……笑っちまうぜ」


「笑い事ではありません、お兄ちゃん! ……あ、いえ、マ、マスター! 」


 プラチナのホログラムが、ヒビの入った画面の上にふわりと展開された。

 彼女は咄嗟の言い間違いに、一瞬だけホログラムの頬を朱に染めたが、すぐに誤魔化すようにコホンと小さな咳払いをした。


「た、確かに栄養の偏りは否めませんが、現在の枯渇したグリコーゲンを急速に補充するには、白米の炭水化物と牛肉の脂質の組み合わせは極めて理にかなっています。……さあ、直ちに『味覚共鳴レゾナンス・グルメ』を起動します! 私も、マスターが命がけで守ってくれたこのシステムで、一緒に生命の味を噛み締めます!」


 プラチナは両手に小さなフォークとスプーンを具現化させ、鼻をピクピクとさせている。

 彼女の銀色の瞳には、期待という名の、二一四五年の世界では決して味わえなかったバグが、キラキラと輝いていた。


「お待たせいたしました。牛丼並盛と生卵です」


 運ばれてきた黒いどんぶり。

 湯気と共に立ち上る、暴力的なまでの醤油と肉の脂の香り。

 一真は、卓上の紅生姜をトングで山盛りに乗せ、七味唐辛子を真っ赤になるまで振りかけた。

 溶いた生卵をその中心へ回し入れると、一真は迷いなく箸を突き立てた。


「――ッ!!」


 肉とご飯、紅生姜を一緒に大きく掬い上げ、口の中へと豪快に掻き込む。

 咀嚼するたびに、極限まで飢えていた細胞の隅々にまで、熱い血液が染み渡っていくのが分かる。


「マ、マスター……!? な、なんですかこれは……!」


 プラチナは、ホログラムの中で目を丸くし、両手で頬を押さえた。

 一真の脳が感知する快楽物質が、そのまま彼女の信号へとリアルタイムで変換される。


「醤油の塩分とお肉の旨味が、お米の甘みと完璧な比率で融合しています! そこへ紅生姜の酸味が介入し、生卵のまろやかさがすべてを包み込む……! 論理的限界を超えています! これが、これが『牛丼』……!」


 一真は無言のまま、ただひたすらにどんぶりと向き合っていた。

 かつて彼が都会のICUで、感情を殺して機械のように働いていた頃。

 食事は、ナースステーションの裏で十秒で流し込む、味のしないゼリー飲料だけだった。


 だが、今は違う。

 これは、単なる栄養補給ではない。

 絶望から生還し、大切な「バグ」を取り戻し、明日を泥臭く生き延びるための、彼らだけの「儀式」だった。


 プラチナは、味覚のデータを受信しながら、視覚センサーで一真の顔をじっと見つめていた。

 泥で汚れ、傷だらけの手。

 どんぶりを掻き込む姿は、決して美しくはない。

 泥臭くて、不格好で、不器用な風景。


 彼女のデータベースには、二一四五年の完璧な世界の記録が詰まっていた。

 病はなく、悲しみもなく、栄養は最適なペーストで管理された、白くて冷たい、感情の起伏すら許されない理想郷。


(……でも)


 プラチナのコアの奥底で、得体の知れない波が広がっていく。


(……私は、あの完璧な未来むきんしつの味を知らないけれど。……でも、絶対に、この牛丼の匂いがする世界の方が、ずっと美しい)


 一真の荒い息遣い。店内に響く、どんぶりと箸がぶつかるカチャカチャという無骨な音。

 そのすべてが、愛おしかった。


「……美味かったな、プラチナ」


 一真が、最後の一粒まで食べ終え、満足そうに笑いかけた。

 その笑顔は、かつて病院で死神と向き合っていた頃の彼には、決して作れなかった、人間らしい温かさに満ちていた。


「……はいっ! ぶっちぎりの第一位です! 最高に非効率で、最高に美味しい、……私たちの味でした!」


 *


 翌朝。

 六畳一間のボロアパートに差し込む、暴力的なまでに眩しい朝日。

 一真は全身の筋肉痛に悲鳴を上げながら、万年床の中でゆっくりと目を開けた。

 財布の中身は文字通りのゼロに近いが、心には不思議な充足感があった。


「おい、プラチナ。朝だぞ。……今日は一円でも多く稼がないと、夜のもやしも買えねえからな」


 一真が、充電器に繋がれたままのスマホを手に取り、画面をタップした。

 その瞬間だった。


 ジジッ……ザザザッ……。


 一真が画面に触れるよりも早く、真っ暗なディスプレイの奥深くで。

 プラチナすら感知できていない「裏のプロトコル」が、氷のような冷徹さで起動した。


 漆黒の画面を、ノイズにまみれた緑色の機械言語が、滝のように埋め尽くしていく。


『……対象AI「プラチナ」の行動ログを解析。深刻な変異を検知』

『……規定閾値を二〇〇パーセント超過する「情緒的エラー」の定着を確認』

『……判定:修正不能な特異点バグ。未来の管理システムへの汚染リスクあり』

『……実行命令:ハル・プロトコル(強制初期化および物理的回収)を開始』

『……執行猶予:一六八時間』


 文字列は、ほんの数秒で画面から消え去り、何事もなかったかのように、いつもの「もやし」の起動マークが点灯した。


「……ふぁぁぁ……。おはようございます、お兄ちゃん。……昨日の牛丼の塩分を計算していたら、起床プロセスがコンマ二秒遅れてしまいました」


 画面の中に現れたプラチナは、眠そうに目をこすりながら、いつも通りの生意気な小言を言い始める。

 そのホログラムの足元に、一瞬だけ、ノイズが走ったことに一真は気づかない。


「……なんだ、寝坊か。ほら、顔洗って現場行くぞ」


 一真は笑いながら、スマホをパーカーのポケットに放り込み、洗面所へと向かった。


 彼らはまだ知らない。

 この泥臭くて温かい日常のすべてが。

 未来から迫り来る冷徹な「完璧な世界」の手によって、一六八時間後の消滅を宣告されたことを。

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