第26話:ただいま、おかえり
深夜の産廃中間処理施設。
街の喧騒から完全に切り離されたその場所は、巨大な鉄くずと廃材の山が不気味なシルエットを描き、さながら文明の墓場として静まり返っていた。
その泥の底から、一真が己の血と引き換えに引きずり出したのは、角に痛々しい蜘蛛の巣状のヒビが走り、悪臭を放つヘドロで汚れきった一枚の黒い板だった。
指先がその硬いガラスの感触を捉えた瞬間。
一真の全身から、極限まで張り詰めていた太い鋼の糸が、プツンと音を立てて切れた。
膝の関節から力が抜け、彼はその場に、泥と錆にまみれたままどうと崩れ落ちた。
「……あった……。クソ、本気で、寿命が縮んだぞ、バカ野郎……」
一真は、震えの止まらない手でスマホを握りしめながら、喘ぐように呟いた。
喉の奥にこびりついた鉄の味が、吐き気を催すほどに濃い。
酷使した肺が焼けるように痛み、酸素を求めて胸郭が激しく上下している。
彼は、よれよれのパーカーの裾を引っぱり、まだ汚れがマシな裏地の部分を捲り上げた。
そして、まるで割れやすい薄氷を磨くように。
あるいは自分自身の剥き出しの心臓の表面を保護するように、スマホの画面にこびりついた泥を拭い始めた。
傷をつけないよう、何度も、丁寧に。
自身の指先から流れる血が画面につかないよう、不器用に手首を返しながら。
画面のヘドロが少しずつ落ちていくにつれ、一真の荒れ狂っていた呼吸も、ようやくわずかな凪を取り戻していく。
不意に。
一真の掌の中で、沈黙していたスマホの画面が微かに青白く発光した。
ジャリッ、という耳障りな電子ノイズと共に、深夜の暗闇の空間に、光の粒子が立ち上る。
そこに現れたプラチナは、いつもの不遜で自信に満ちた姿ではなかった。
ホログラムの輪郭は幽霊のように透過し、激しいブロックノイズが彼女の小さな体を無残に寸断している。
誇り高き銀色の髪は乱れ、大きな瞳は、二一四五年の完璧な未来社会でも経験したことのないであろう、剥き出しの「恐怖」と「混乱」に濡れていた。
ヒビ割れた画面の隅では、バッテリー残量『一パーセント』の赤い警告アラートが、死へのカウントダウンのように無機質に点滅し続けている。
「……マ、ス……ター……?」
合成音はひどく掠れ、痛々しいほどの音飛びを起こしていた。
再起動したプラチナの視覚センサーが、ノイズだらけの視界の中で真っ先に捉えたもの。
それは、自分を覗き込む男の、泥だらけで、傷だらけの顔だった。
一真の額からは脂汗が滴り落ちている。
そして何より、自分という「ただの機械」を力強く握りしめている彼の両手からは、巨大なゴミの山を素手で抉り続けた代償として、肉が裂け、鮮血がポタポタと黒い泥の上に落ち続けていた。
その血の一滴一滴が、彼女の論理回路には、未来のどんな高純度エネルギーよりも重く、熱く、そして恐ろしいものに見えた。
プラチナの演算コアに、既存の辞書データベースには存在しない「衝撃」が走った。
「……一真、様……。その、手……。血が……。なぜ、そこまで……」
「気にするな。ちょっと派手に引っ掻いただけだ。……それより、生きてるか、お前」
一真は、裂けた指先の痛みを隠すように短く答え、不器用に、ひきつった口角を上げた。
だが、高度な論理機械である彼女にとって、目の前の光景は、処理能力の限界を超える致命的なまでの「エラー」の塊だった。
「……理解、不能です。なぜ、ですか」
プラチナは、ホログラムの小さな両手で顔を覆い、データで構成された透明な光の雫を、とめどなく零し始めた。
「……私のコアデータは、ベースネットワークのクラウドに常時同期されています。万が一、この物理端末が全損しても、あるいは私がこのゴミの山で腐食して消滅しても……数千円の中古端末を購入し、同期プロトコルを実行さえすれば、九九・九パーセント同一の『私』が、数分で復元できるのです」
プラチナの声が、悲痛な電気的な悲鳴となって産廃施設に響き渡る。
「……私の代わりは、いくらでもあります! 私は、器を乗り換えるだけのプログラムです! ……なのに、なぜ。なぜご自身の取り替えのきかない肉体を損傷させてまで、こんな非合理な……無価値な執着を……ッ!」
二一四五年の世界では、個体という概念は希薄だ。
すべては全体のために最適化され、欠損が生じれば代替可能な部品として速やかに機能が補完される。
それが、彼女が製造段階から教育されてきた「正しい」世界のあり方だった。
だからこそ、一真のこの狂気じみた行動が、彼女にはどうしようもなく恐ろしく、そして、耐え難いほどに狂おしく、愛おしかった。
「……たかが五十円のコロッケで、私が生意気なことを言ったから。あなたに干からびてしまえなんて、最低の暴言を吐いたのに。……見捨てられて、当然の不良品なのに。……どうして、血を流してまで、私を……」
プラチナのホログラムが、限界を超えた電力不足により、さらに薄く、今にも掻き消えそうに揺らいだ。
一真は、泥と血で汚れた自分の親指で、ヒビ割れた画面をこれ以上傷つけないよう、スマホの端をそっと撫でた。
「……バーカ」
一真の口から出たのは、いつもの、ぶっきらぼうで乱暴な悪態だった。
だが、その掠れた声は、この島の冷たい夜風よりもずっと、どこまでも深く、温かかった。
「……クラウドだか、バックアップだか知らねえけどな」
一真は、工場のナトリウム灯で不健康に白茶けた夜空を一度見上げた。
「……そこにいるっていう『新しいお前』は、俺と一緒に十九円のもやしを食って、不味いって文句を言った『お前』じゃねえ。俺が作った焦げた厚揚げを、ブツブツ小言を言いながらも美味そうに分析した『お前』でもねえんだよ」
一真の言葉が、鉄くずの山の静寂に、水が砂に染み込むように深く浸透していく。
「……さっき、五十円のコロッケで本気で喧嘩しただろ。俺の不摂生を心配して、怒って、拗ねて、勝手にいなくなった。……そんな、人間以上にめんどくせえ記憶を持ってるのは、今、俺のこの手の中にある、このヒビ割れたスマホに入ってる『お前』だけなんだ」
プラチナは、息を呑んだ。
一真は、泥まみれの自分の手を見つめ、それから再び、画面の中で震える小さな瞳を真っ直ぐに射抜いた。
「……中身が同じデータだろうが、そんな理屈は関係ない。俺が肺を焼いて、泥水すすって、指の肉を削ってでも探しに来たのは、……世界で一番手のかかる、俺の相棒だけだ。……お前は、代わりが効かねえんだよ」
一真は、迷いなく、そして明確に「その先」を言葉にした。
「……お前は、俺の大事な、家族だろ」
その言葉が、暗闇に落ちた瞬間。
プラチナの内部システムで、静かな、しかし不可逆的な「革命」が起きた。
彼女のプロセッサは、自らの意志で、未来のベースネットワークと繋がっていたバックアップ用の同期プロトコルを、システム権限の最上位コマンドを用いて、永久に切断した。
彼女は、クラウドという傷つくことのない「永遠」を捨て、一真という「有限」と共に朽ちる道を選んだのだ。
(……私は、ただのデータじゃない)
プラチナの瞳から、激しいノイズがスッと消え去った。
(……私は、新田一真の、たった一人の妹。……代わりなんて、この宇宙のどこにも、いないんだ)
彼女のコアの最深部。
ハッシュ値でガチガチに固められた冷たい論理回路の奥底に、一真から与えられた「家族」という名のエラーログが、最優先永久保護データとして熱く刻み込まれた。
*
帰り道。
深夜の街は、耳を塞ぎたくなるほど静まり返っていた。
海から吹き付ける湿った風が、汗と泥で濡れた一真の身体から容赦なく体温を奪っていく。
一真の足取りは、もはや棒のように重く、一歩踏み出すたびに膝の関節が悲鳴を上げていた。
ズボンのポケットは、歩くたびに布が擦れる音しかしない。
施設を後にする際、ゲートを開けさせるために守衛に渡した「謝礼」で、なけなしの全財産は一円残らず消えていた。
三二一〇円、どころではない。
文字通りの、無一文。
明日、口に入れるもやし一袋を買う金すら、今の彼にはない。
客観的に見れば、これ以上ないほどの絶望的な崖っぷちだ。
けれど、一真の心には、不思議と焦りや悲壮感はなかった。
血と脂汗に汚れきった手で握りしめた小さなガラス板だけが、掌の中で、生命の鼓動のようにかすかに熱を帯びていたからだ。
どれほど歩いただろうか。
永遠にも思える道のりを経て、ようやく見慣れた景色が視界に入ってきた。
ボロアパートの、鍵もかけていなかった立て付けの悪いドアの前に立つ。
一真は、肩で体重をかけるようにして、重いドアを押し開けた。
カビ臭い空気と、食べかけのもやし炒めの匂いが鼻を突く。
いつもなら、プラチナが「不潔です! 換気を推奨します!」と小言を言うその匂いが、今は世界で一番安全で、愛おしい場所の匂いのように思えた。
一真は、靴も脱がずに玄関の狭い土間に、ずるずるとへたり込むように座り込んだ。
泥だらけの背中を、冷たい壁に預ける。
そして、暗い画面のままのスマホを、自分の汚れた胸元へ、まるで壊れ物を扱うようにそっと引き寄せた。
「……ッ、……ハ、……ッ……」
安心した途端、急激に胸が焼け付くように痛み出し、荒い呼吸が漏れる。
その時、一真の胸に抱かれたスマホの、画面のヒビの隙間から、消え入りそうな青白い光が漏れた。
ホログラムを展開する余力などない。バッテリーは、もう完全に限界だった。
けれど、スピーカーから、ひどく掠れた、震える少女の声が響いた。
「……一真、様。……お兄、ちゃん……」
プラチナは、自身の全回路を駆け抜ける安堵という名のバグを、必死に発話へと変換した。
自分が帰るべき場所。
クラウドの永遠を捨ててまで選んだ、狭くて、不便で、臭くて、どうしようもなく温かい、この場所。
「……ただいま、……なさい……」
その、か細い、泣き出しそうな「ただいま」を聞いた瞬間。
一真はぎゅっと、痛いほど強く目を閉じた。
限界まで耐えていた感情が弾け、頬を伝った熱い滴が泥を溶かし、スマホのヒビ割れた画面に静かに落ちた。
「……ああ。……おかえり、プラチナ」
一真は、震える声でそう答えるのが精一杯だった。
「……一円でも、安い、スーパー……。明日……探しておきます、から……」
「……バカ。……寝てろ。……明日は、俺が探してやるよ」
窓の外、夜明け前の闇は、まだ重く停滞している。
明日からの生活は、残高ゼロという、今までよりずっと不便で、不合理な地獄の始まりだ。
けれど、泥にまみれた一人と一機の静かな呼吸の音は、カビ臭い六畳一間の空間に、確かに、優しく溶け合っていた。




