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スマホの中のプラチナ 〜底辺から始めるポンコツ未来AIの(に)お世話生活〜  作者: ひろボ


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第25話:プラチナの家出、あるいはゴミの山に沈む心

 春の夜風が、ボロアパートの薄い窓ガラスをガタガタと絶え間なく揺らしていた。

 立て付けの悪いサッシが立てる乾いた音は、まるで住人の苛立ちを代弁しているかのようだ。


 部屋の中には、安売りのコロッケが放つチープな油の匂いと、それに負けないくらい重苦しく険悪な空気が充満していた。

 傷だらけのちゃぶ台の上には、いつもの十九円のもやし炒め。

 そしてその隣に、スーパーの惣菜コーナーでようやく勝ち取った、一個五十円のコロッケが不敵な面構えで鎮座している。


「……ですから! 現在の我々の、底をつきかけている資産状況において、特売日でもないのに五十円もの『突発的な贅沢』を敢行するなど、論理的に破綻しています! カロリー対費用の効率が完全に崩壊しているのが分からないのですか!」


 スマホの画面の中で、プラチナが三角の目をして、ホログラムの指揮棒をブンブンと激しく振り回していた。

 銀色の髪が、彼女の計算負荷の高まりに呼応するように、淡く明滅しながら波打っている。


「うるせえな……。たまには油モンが食いたかったんだよ。俺が現場で汗水垂らして稼いだ金だ。五十円くらい好きにさせろ」


 一真かずまは投げやりに言い返し、コロッケに安物のソースをドバドバとかけようとした。

 それは、一分一秒を争う医療現場から逃げ出した彼が、自分の人生をわずかでも「自分でコントロールしている」と実感するための、ささやかな、けれど必死な抵抗だった。


「好きにさせるわけにはいきません! 私はマスターの未来を最適化する優秀なAIです! そのような自暴自棄な塩分摂取を繰り返していれば、血管が詰まって倒れます! ――ええ、そうです。もう知りません! 一真様なんか、その脂ぎったコロッケと一緒に、勝手に一人で干からびてしまえばいいんです!」


 ブツッ、という冷淡な電子音。

 プラチナは自らスマホの電源をスリープ状態にし、画面は一切の光を失った沈黙の黒いガラス板へと戻った。


「……可愛げのねえポンコツが」


 一真は箸を置いた。

 無理やり口に運んだコロッケは、驚くほど味がしなかった。

 昨夜、元上司の神崎から浴びせられた「お前はシステムのエラーだ」という罵倒が、五十円のコロッケの脂身と一緒に喉に張り付いて離れない。


 イライラを紛らわすように、一真はよれよれのパーカーを引っ掴んだ。

 暗くなったスマホをポケットに無造作に突っ込み、鍵もかけずにアパートを飛び出した。

 夜風を浴びれば、少しはこの胸の支えが取れると思った。


 それが、取り返しのつかない致命的な油断だった。


 *


 深夜の国道沿い。

 街灯の少ない歩道を歩いていると、大型トラックが暴力的な風圧を伴って、一真のすぐ脇を猛スピードで通り過ぎていく。


 一真はポケットの中で冷たくなったスマホに、無意識に指を触れた。

 少し言い過ぎた、という後悔が、夜の湿気と共に胸に広がっていた。

 あいつは、俺のバイタルを誰よりも近くで見守っているからこそ、あの無骨な言葉で心配していたのだ。

 意地を張っている場合じゃない。そう思い直し、謝るためにポケットからスマホを取り出そうとした、その瞬間――。


 ヒュオォォォッ!!


 耳をつんざくような轟音と共に、巨大なダンプカーが一真を追い越していった。

 凄まじい風の渦が、一真の体を激しく翻弄する。

「うおっ!?」

 反射的に体がよろけ、パーカーの浅いポケットからスマホが滑り出した。


 スローモーションのような光景だった。

 黒い長方形のデバイスが、国道を照らすネオンの光を反射しながら宙を舞う。

 アスファルトに叩きつけられる鈍い音を予想した一真の耳に届いたのは、それとは違う――ガシャン、という重い金属音だった。


 スマホは、ダンプカーの直後を走っていた、廃品回収業者の軽トラックの「剥き出しの荷台」の中へと、吸い込まれるように落下したのだ。


「……え?」


 一真の思考が、一秒間停止した。

 軽トラックは、一真の絶望など知る由もなく、荷台に積まれた壊れた冷蔵庫や鉄屑をガタガタと鳴らしながら、夜の闇の彼方へと加速していく。


「……おい。……嘘だろ。おい、待て!! 待てよ!!」


 一真は、弾かれたように走り出した。

 だが、エンジンの回転数を上げる軽トラのテールランプは、無慈悲に遠ざかっていく。


 全力疾走。

 かつてERの廊下を、心停止した患者のストレッチャーと共に全力で駆け抜けていた、あの時以上の速度で一真は足を動かした。

 しかし、人間の足が時速六十キロの機械に勝てるはずもない。

 軽トラは遠くの交差点を左に折れ、完全にその姿を消した。


「ハァッ……、ハァッ……! くそっ、ふざけんな、待てよプラチナ!!」


 一真は膝に手をつき、肺が焼けるような呼吸を繰り返した。

 頭が真っ白になる。

 GPSによる追跡? 相手がスリープ中なら意味がない。

 プラチナの演算能力? 彼女は今、ポケットの中ではなく、あの闇へと消えたトラックの荷台の中だ。


(一人で干からびてしまえばいいんです)


 プラチナが最後に放った呪いのような言葉が、脳裏でリフレインする。


「……バカ野郎。干からびるのは、お前の方だろうが……!」


 一真は顔を上げ、街の明かりを睨みつけた。

 看護師時代に培われた、極限状態での判断能力が無理やり再起動する。

 トラックの側面に一瞬だけ見えた、掠れた文字の記憶。

『……川……リサイクル』。

 そして、荷台の状態。不燃ゴミ、家電のスクラップ、建材の破片。

 この時間、あの量の廃材を積んで向かう先は――。


「……市外れにある、二十四時間稼働の産廃中間処理施設か」


 一真は再び走り出した。

 タクシー? そんな贅沢ができる金は一円も入っていない。

 ポケットの中には、虚しくジャラジャラと鳴る数枚の硬貨があるだけだ。

 現在の全財産、三二一〇円。

 その数字が、今は鉛のように重く、一真の足を地面に縛り付けようとする。


 彼は走った。

 三月の夜風は冷たいはずなのに、体中の血液が沸騰しているようだった。

 足の裏の皮が剥け、膝の関節が悲鳴を上げても止めなかった。

 神崎に「居場所などない」と切り捨てられ、自分でも「俺はただのゴミだ」と思いかけていた一真にとって、あの生意気なAIだけが、自分が「一人の人間」であることを証明してくれる唯一の存在になっていた。


 一時間近く走り続け、ようやく街の最果てにある巨大なプラントが見えてきた。

 高いフェンスに囲まれ、煌々と照らされたナトリウム灯の下で、巨大なクレーンがうなりを上げている。


「待て! ここは立ち入り禁止だぞ!」


 施設のゲートで、眠そうな顔をした守衛が立ち塞がった。

 一真は肩で息をしながら、泥だらけの顔で訴えた。


「頼む……! さっきここに入った廃品回収のトラックに、……俺の、命より大事なもんが紛れ込んだんだ! 探させてくれ!!」


「何を言ってる、危ないだろう。ゴミの山に素人が入るなんて許可できるか。明日また来い」


「明日じゃ遅いんだ!!」


 一真は、震える手でポケットの中の「三二一〇円」をすべて叩き出した。

 千円札が三枚、端数の百円玉と十円玉。


「これ……全部やる。だから、十分……いや、五分でいい! クレーンを止めてくれ!!」


 守衛は一真の目を見た。

 その、血走った、けれどどこまでも真剣な瞳に気圧されたのか、あるいはなけなしの全財産を差し出したその必死さに何かを感じたのか、守衛は舌打ちをして背後の無線を取った。


「……五分だ。クレーンの運転手に連絡してやる。死んでも自己責任だぞ」


 *


 深夜の産廃中間処理施設。

 街の喧騒から隔絶されたその場所は、巨大な鉄くずと廃材の山が不気味なシルエットを描き、さながら文明の墓場だった。

 重機の油が焼けた刺激臭と、雨に濡れた廃棄物が放つ鼻を突く腐臭。

 それらが混ざり合った重たい夜風が、酸素を求める一真の肺の奥を執拗に掻き毟る。


 一真は、油まみれのスクラップの山に両手を突き立てた。

 尖ったプラスチックの断片が手の甲を裂き、錆びついた針金が指先を深く抉る。

 冷たい泥と、自分の体温を持った鮮血が混ざり合い、ぬるりとした不快な感触が脳に絶え間ないアラートを送る。


「おい……どこだ……返事しろ、プラチナ……!」


 掠れた声で呼びかけながら、一真は必死にゴミの山を掻き分ける。

 元看護師としての理性は、ヘドロにまみれた創傷が招く感染症のリスクを機械的に算出していた。

 だが、脳内のアラートを、一真は「うるせえ」と力業で黙らせた。


 かつて心停止した患者の胸を、無我夢中で押し続けた時のあの感触を思い出す。

 あの時は、救えなかった。

 だが、今はまだ、この泥の底に「脈動」があるはずなのだ。

 指先の感覚すべてを研ぎ澄まし、文明の残骸という名の死体袋を切り裂いていく。


 ザクッ、ガシャァン。

 鉄くずを撥ね退ける乾いた音が、施設の静寂を切り裂く。

 時間は無慈悲に過ぎていく。守衛との約束の時間は、もう残されていない。


「くそっ……どこだ、プラチナ!! どこにいる!!」


 一真の叫びが、虚しく処理施設に響き渡る。

 その時、湿った段ボールの残骸を剥ぎ取り、潰れた空き缶の層を掻き分けた先。

 指先に、周囲の泥とは明らかに異質な、硬く冷徹なガラスの感触が触れた。


「……ッ!!」


 泥の中から、角に痛々しいヒビが走った一枚の黒い板を、一真は力まかせに引きずり出した。

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