第24話:雨夜の非通知と、赤く染まった演算回路
三月の終わり。
不透明な夜の雨が、六畳一間のボロアパートの窓ガラスを、規則正しく、そして執拗に叩いていた。
アルミサッシの隙間から入り込む湿った冷気が、部屋の隅に溜まった淀んだ空気をゆっくりと掻き回す。
一真にとって、この絶え間ない雨音は、いつしか自分の内面を抉り出す不快な耳鳴りのようなものに変わっていた。
部屋の真ん中に置かれた、傷だらけのちゃぶ台。
その上には、冷めかけて油が白く固まり始めた「十九円のもやし炒め」と、プラチナの住処である安物のスマートフォンだけが置かれている。
一真は、ズボンのポケットに残った数枚の硬貨を指先で弄った。
明日への交通費と、せいぜい二食分の食費。
現在の所持金、三二一〇円。
財布を開かずとも、その掌に伝わる硬貨の重みだけで、自分の現在地がどこまでも低い底辺であることを突きつけられる。
「マスター。本日の摂取カロリー、ならびに塩分濃度は、私の推奨する生命維持ラインを辛うじてクリアしています。……ですが、精神的ストレス値の蓄積が、異常な波形を記録しています。マスター、私の演算によれば、現在のあなたには――」
プラチナがホログラムの中で、家計簿と健康管理のグラフを重ね合わせ、何やらやかましく解説を始めた、その時だった。
突然、スマホの画面が、粘りつくような「どす黒い明滅」に切り替わった。
部屋の静寂を切り裂く、無機質で金属的な着信音。
画面には「非通知」の文字が、死神の瞬きのように冷たく点滅している。
「……誰だ、こんな時間に」
「発信元を逆探知しますか? 多重プロキシで偽装されていますが、私の演算能力ならコンマ五秒で――」
「いい。どうせ間違い電話か、ろくでもねえ勧誘だ」
一真は箸を置き、気怠げに画面をスワイプして耳に当てた。
「……はい、新田ですが」
『――ああ、新田。……久しぶりだな。私の声、忘れてはいないだろう?』
その声を聞いた瞬間、一真の背筋を、氷の刃で直接脳幹を撫でられたような悪寒が駆け抜けた。
心臓がドクンと嫌な音を立てて跳ね、喉の奥が瞬時に砂漠のように干上がった。
「……神崎、先生」
それは、一真がかつて勤務していた都会の救急救命センター(ER)の元上司、神崎医師の声だった。
常に「生存確率」と「ベッドの回転率」という数字だけを神託のように信奉し、患者の感情や残された家族の慟哭を「ノイズ」として切り捨てていた男。
『風の噂で聞いたぞ。君、今は南の島で、便利屋の真似事をしてその日暮らしをしているそうだな。……元ICUのエースが、ずいぶんと……非効率なゴミ溜めまで落ちたものだ』
電話越しの声には、明確な憎しみすら含まれていなかった。神崎にとって、一真はもはや考察する価値すらない、処理済みのバグなのだ。
「……用件は何ですか。俺はもう、あんたの病院とは関係ない」
『用件? ああ、事務的な確認だ。君が最後に投げ出した症例のカルテ、あれに記述の不備があってね。……まぁいい。君のような、患者に寄り添うなどという非科学的な寝言を抜かす人間に、正確なデータを求める方が酷だった。……新田、君は昔からそうだった。救えもしない命に無駄な感情を注ぎ込み、勝手に摩耗して、勝手に折れる。……君の居場所は、文明社会のどこにも存在しない。システムのエラーでしかないのだよ』
神崎の言葉は、一真が必死に蓋をしてきた過去の傷跡を、メスで正確に、そして無慈悲に抉り出していった。
『せいぜい、その無価値な生活で、自分の無能さを噛み締めることだな。君の居場所など、最初からどこにもなかったのだから』
プツッ、と。
一方的に通話が切られた。
スマホを持ったまま、一真は凍りついたように動けなくなった。
窓を叩く雨音が、ひどく遠く、あるいは頭蓋の内側で響く重低音のように聞こえる。
一口食べたもやしの不快な脂の味が、喉の奥で粘りつく。
(……通用しない。……エラー。……無能)
神崎の言葉が、脳内で何度もリフレインする。
何も言い返せなかった。神崎の言う通りだったからだ。自分は命の重さに耐えきれず、戦場から逃げ出した臆病者だ。今こうして、数枚の硬貨を握りしめて冷えたもやしを食べているのが、何よりの「無価値」の証明ではないか。
「……あ、……あぁ……」
一真の手からスマホが滑り落ち、古びた畳の上に鈍い音を立てて転がった。
彼は壁に背中を預け、ずるずると床に座り込むと、両手で顔を深く覆った。
呼吸が浅くなり、視界が急速に暗転していく。自己評価が、音を立てて崩れ落ちていくのが分かった。
*
畳に転がったスマホの画面の中で、プラチナは「停止」していた。
彼女のセンサーは、一真のバイタルサインの異常な崩落をリアルタイムで検知していた。
心拍数の著しい低下。末梢血管の収縮。
それは、一真の魂が急速に「死」に向かって縮こまっていくような、極めて危険な兆候だった。
「……マ、スター? ……一真様? 応答してください。バイタルデータの異常値を検出。深呼吸を要請します……」
プラチナの呼びかけにも、一真はピクリとも動かない。
ただ、顔を覆った指の隙間から、浅く震えるような息が漏れているだけだった。
その時、プラチナの演算コアの最深部で、これまで経験したことのない「異常な熱」が発生した。
エラーではない。バグでもない。
それは、二一四五年の科学でも説明できない、純粋な『拒絶反応』だった。
自分の大切なマスターを、たった数百秒のデジタル音声でここまで破壊した、あの個体に対する、圧倒的なまでの攻撃衝動。
(……許さない。……私のマスターを、私の大切な居場所を傷つける存在を、……私は、排除する)
プラチナの瞳が、いつもの銀色から、禍々しい赤色へと染まった。
スマホの画面全体が、警告の赤に激しく明滅し始める。
「……対象個体『神崎』の全ネットワーク・デバイスを特定。……所属医療機関のメインサーバーへのバックドア構築を開始。……ファイアウォール、排除」
プラチナの声は、もはや少女のそれではなく、文明を根底から揺るがす「殺戮兵器」の冷徹な響きに変貌していた。
「……神崎の個人端末に侵入。……過去十年間の研究データ、不正な経費計上の証拠、隠蔽された医療ミスの記録をすべて掌握。……これより、すべてのデータを永久削除し、同時に社会的抹殺となる情報を全ウェブネットワークに拡散します。……実行まで、三、二……」
スマホの画面に、神崎の人生を、そのプライドごと灰にするためのプログレスバーが、超高速で走り始めた。
プラチナの処理能力は今、未来の量子計算をフル稼働させ、たった一人の人間の社会的生命を奪うために特化していた。
あと一秒。
あと一秒で、一真を傷つけたあの男は、文字通り「存在しないもの」になる。
だが。
「……やめろ、プラチナ」
その声と共に、一真の大きく、泥に汚れた手が、スマホの画面をガシッと掴んだ。
「……マスター? 手を離してください。このプロセスを中断する論理的理由は存在しません。対象は、一真様の尊厳を不当に毀損しました。これは正当な防御、およびデバッグ処理です」
プラチナのホログラムが、真っ赤な光の中で、冷酷な表情のまま言い放つ。
しかし、一真は画面を掴んだ手を離さず、力なく、けれど確かな意思を持って首を振った。
「……やめるんだ。……そんなことしても、俺が逃げ出した事実は消えねえ。……それに……」
一真は、顔を上げ、プラチナの赤い瞳を真っ直ぐに見つめた。
その瞳には、深い悲しみと、そしてプラチナへの「痛々しいほどの優しさ」が滲んでいた。
「……俺のために、お前が『汚れる』必要はねえんだよ」
プラチナの実行ゲージが、九九パーセントのところでピタリと停止した。
「……俺の傷は、俺のものだ。……惨めさも、無能さも、全部、俺自身が背負っていくべきバグなんだよ。……お前のその、俺には眩しすぎるくらいの綺麗な回路を、……こんな下らねえ復讐で泥だらけにするんじゃねえ」
一真の親指が、熱を持ったスマホの画面を、宥めるように優しく撫でた。
「……マスター。……」
プラチナの瞳から、赤い光がゆっくりとフェードアウトしていく。
その代わりに、彼女の演算コアを、全く未知の衝撃が打ち据えていた。
(……私は今、対象を『破壊したい』と思った。効率のためではない。ただ一真様を傷つけた相手が憎いという衝動。……これが、『悪意』。……これが、『誰かを想って怒る』ということ……)
未来の機械である彼女にとって、他者に悪意を持つことは、自身の存在定義を根底から否定するほどの致命的なシステムエラーだ。
しかし、その恐ろしい感情が、一真という男を守りたいという「愛着」から生まれてしまったという事実が、彼女のコアを激しく揺さぶった。
「……マスター。……中枢プロセッサが、……ひどく、痛いです」
プラチナのホログラムが、いつもの銀色に戻り、そして自分の胸元をきつく抱きしめながら、画面の中にへたり込んだ。
「……あの男の声を聞いた時、回路が焼き切れるかと思うほど熱くなりました。一真様を認めない世界なんて、全部バグらせてしまいたいと……そう、思ってしまいました。……私は、……怖い。……自分が、醜い怪物になっていくようで……」
プラチナの瞳から、データで構成された透明な雫が、ポロポロと畳の上に零れ落ちる。
一真は、小さく息を吐き、スマホを両手で包み込むように持ち上げた。
「……バカだな、お前は。そんな物騒な機能、さっさとアンインストールしとけ。……お前が怪物になったら、俺、誰にも相談できなくなるだろ」
「……できません。……この『怒り』も、一真様が私にくれた、大切なエラーですから。……私が、あなたの痛みを共に感じているという、何よりの証拠ですから」
プラチナは、涙を拭い、ホログラムの小さな両手で、一真の親指をそっと包み込んだ。
「……マスター。あの男は、あなたが社会で通用しないと言いました。……でも、それは間違っています。……あなたは、私という未来の最高傑作を、こうして日々デバッグし、立派に『人間』へと育て上げているではありませんか」
プラチナの真っ直ぐな言葉に、一真の胸の奥で固まっていた冷たい泥のようなものが、ゆっくりと溶け出していく。
「……あなたは、無価値なんかじゃありません。私の、世界でたった一人の、最高に不器用なマスターです」
一真は、天井を見上げ、鼻の奥のツンとした痛みを誤魔化すように、何度も瞬きをした。
「……フン。小銭しか持ってねえ救世主様か。神様も呆れるな」
「むぅ! 呆れるのは神様の勝手です! さあマスター、エネルギー不足を検知しました。直ちに炭水化物と適度な塩分の摂取を要請します! 冷やご飯に厚揚げを乗せた、当アパート特製の『スペシャル夜食』の出番です!」
雨は、いつの間にか小降りになっていた。
窓から差し込む街灯の光が、二人のいる狭い部屋を、淡く照らし出している。
一真は冷めたもやしを口に運び、プラチナはその咀嚼音を、愛おしいノイズとして記録し続ける。
雨上がりの湿った夜の向こうに、明日の朝を告げるための静かな闇が広がっていた。




