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スマホの中のプラチナ 〜底辺から始めるポンコツ未来AIの(に)お世話生活〜  作者: ひろボ


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第23話:銀玉の誘惑と、ドブの底の五〇〇円

 生温かい春の夜風が、生乾きのアスファルトの上を湿っぽく吹き抜けていく。

 海から運ばれてくる重たい潮の匂いと、大通りを激しく行き交う車の排気ガス。

 そして、どこかの深夜食堂から漏れ出す強烈なニンニク醤油の匂いが混ざり合う、南の島の歓楽街。


 新田一真にった かずまは、けばけばしい極彩色のネオンサインを夜空に向けて放つ、巨大なパチンコ店の前に立ち尽くしていた。

 自動ドアが開くたびに、人工的な冷気と共に、きつすぎる芳香剤と焦げ付いた煙草の匂いが暴力的に溢れ出してくる。


 鼓膜を執拗に殴りつける軍艦マーチ。

 無数の銀玉がガラスに弾ける狂騒的なノイズ。

 そこには、日常のすぐ隣にある「底なしの異界」が、死んだ魚のような目で口を開けていた。


 一真は、よれよれのパーカーのポケットに突っ込んだ右手を、じっと握りしめた。

 指先が触れているのは、数枚の硬貨と、折り目のついた千円札。

 現在の所持金、三二一〇円。


 数日前に便利屋の仕事で少しだけ潤ったはずの財布は、火災保険の更新や、アパートの共益費という名の理不尽な徴収の前にあっけなく崩れ去っていた。

 気がつけば、またしてもこの呪われた定数へと回帰している。


 明日の現場への交通費、そして命を繋ぐための特売もやしの代金を差し引けば、手元に残る余裕など一円たりとも存在しない。

 一真は、乾いた唇を舌で湿らせた。

 空腹は思考を鈍らせるが、飢えは本能を研ぎ澄ませる。


(……この三千円を、もし一万円にできたら)


 ほんの数十分、あの台の前に座ってハンドルを握るだけで、数日分の「まともな肉」が手に入るかもしれない。

 コンビニの廃棄を待つことも、十九円の豆腐を指先でちぎる必要もなくなる。

 一度でも「当たり」という名の脳内麻薬を浴びてしまえば、このみすぼらしい生活を一時的にでも忘れられるのではないか。


 そのヒリヒリとした境界線に、一真の足はひっそりと、泥沼に吸い寄せられるようにパチンコ店の敷地内へ踏み込んでいた。


「マスター! 現在の心拍数、瞳孔の開き、および指先の微細な震えから、極度の『ギャンブル衝動』を検知しました。……素晴らしい。実に見事な、論理的決断です!」


 不意に、ポケットのスマホからプラチナの弾むような合成音が響いた。

 一真の視界の端、空中に展開されたホログラムの中で、プラチナはなぜか黒い蝶ネクタイに真っ赤なベストという、いっちょ前のカジノディーラーの衣装を身に纏っていた。


 彼女は手にした白銀のタクトをビシッとパチンコ店の入り口に向けている。

 背後には、スロットの「7・7・7」が揃った瞬間の派手なエフェクトまでホログラムで再現されていた。


「……は? お前、俺を止めるんじゃないのかよ。全財産が溶けたら、明日からのもやしすら買えなくなるんだぞ」


 一真が呆れたように呟くと、プラチナは不敵な笑みを浮かべ、ホログラムの胸を反らせた。


「二一四五年の最新AIを甘く見ないでください! ギャンブルが不合理である理由は、『確率の偏り』という不確定要素に人間の感情が依存するからです。ですが、私がこの建物のローカルネットワークに微弱なパルスを送り込み、各遊技台のメイン基板が生成する乱数周期(RNG)を解析すれば……コンマ数秒の誤差で『大当たりの乱数』を捕捉することが可能です!」


 プラチナの銀色の瞳には、恐ろしいほどの速度で光る数字の羅列が流れ落ちていた。

 それは未来の技術による、現代の遊技機に対する一方的な虐殺ハッキングの宣告だった。


「現在、入口から三列目、角から四番目の台が、あと一二回転で確率変動(確変)に突入するフラグを保持しています。投資額は推定一五〇〇円。回収見込みは、五万四〇〇〇円を優に超えます! さあマスター、非効率な肉体労働を嘲笑う『情報の勝利』を掴み取りましょう!」


 悪魔の囁き。

 五万円。

 今の自分にとっては、国家予算にも等しい大金だ。

 それだけあれば、スマートウォッチのバッテリーを新品に替え、プラチナに予備のモバイルバッテリーを買ってやり、自分は冷房を効かせた部屋で、厚切りのステーキを二枚同時に焼いて食うことだってできる。


「……お前、本当にバグってんな。……まぁいい。お前のその計算、信じてやるよ」


 一真は、自嘲気味に笑い、パチンコ店のまばゆい光の中へと一歩を踏み出した。

 自動ドアが左右に開き、熱気と騒音が濁流のように押し寄せる――。


 その時だった。


「……うぅっ……、……ひぐっ……」


 耳を劈く軍艦マーチの隙間から、ひどく小さく、か細いノイズが、一真の「救急看護師」としての本能に引っかかった。

 一真が足を止め、音のする方へ視線を向ける。

 パチンコ店の駐輪場の脇、自販機の灯りも届かない薄暗いデッドスペース。


 そこに、派手な恐竜柄のリュックを背負った小学校低学年くらいの男の子がしゃがみ込み、何かを必死に探しながら、震える肩を丸めて泣いていた。


「マスター! 寄り道は厳禁です! ターゲットの台に、別の個体が接近中! 紫色のパーマをかけ、豹柄のポロシャツを纏った、戦闘力の極めて高そうなオバーです! あと一五秒で座られますよ! 早く!」


 プラチナの急かす声を無視し、一真は自動ドアに背を向け、男の子の方へと歩み寄った。

 男の子は、道路と歩道の境界にある、分厚い鉄の格子グレーチングで覆われた深い側溝を、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら覗き込んでいた。


 南国特有の、激しいスコールを瞬時に流し去るための側溝。

 中には、腐敗した落ち葉と、捨てられた吸い殻、そして真っ黒に澱んだ汚水がネットリと溜まっている。


「……おい。どうした、坊主」


 一真が低い声をかけると、男の子はビクッと肩を震わせ、見知らぬ「目つきの悪い大人」に怯えてさらに後ずさった。

 だが、その手はまだ、鉄格子の隙間を指差している。


「……お、落としちゃったの。お母さんに頼まれた、晩ごはんのお買い物のお金。五〇〇円玉、コロコロって転がって、この溝の中に……。お母さんに怒られる。ごはんなしになっちゃう……」


 男の子の震える声。

 鉄格子の隙間から覗く闇は深く、そこには泥と歳月で固着した、重さ数十キロはあるだろう鉄の塊が鎮座している。

 子供の力ではもちろん、並の大人の力でも持ち上がらない。

 その闇の底に、男の子の「責任」と、彼にとっての全世界が沈んでいた。


「マスター! 警告します! その側溝内部には推定数億個の有害バクテリアと、正体不明の腐敗ヘドロが堆積中! 公衆衛生上、極めて危険です。五〇〇円の損失は少年の不注意であり、我々が介入する論理的理由は一ミリも存在しません! ああっ、オバーが! オバーがマイおしぼりを取り出し、ハンドルを丹念に磨き始めました! フラグが回収されてしまいますぅ!」


 プラチナがホログラムの中で頭を抱えて絶叫する。

 だが、一真は短く舌打ちをすると、パーカーの袖を肘まで無造作に捲り上げた。


「……泣くな。男だろ」


 一真は、側溝の錆びついた鉄格子の隙間に、大きな両手の指を深くねじ込んだ。

 かつてICUで、コンマ数ミリの精度で血管にカテーテルを滑り込ませていた、あの繊細な指先。

 それが今は、泥と錆に塗れた冷たい鉄を、壊さんばかりの力で掴んでいる。


「……ん、ぐぅ、……ッ!」


 背筋のバネを使い、広背筋から腕力を総動員して一気に引き上げる。

 ギギギッ――という、金属が断末魔を上げるような不快な音が夜の路地に響く。

 泥と湿気でコンクリートに固着していた重い格子が、一真の肺から漏れる荒い吐息と共に、ゆっくりと、けれど確実にもち上がった。


 一真はそのまま格子を横にずらして退かし、躊躇うことなく、黒く濁ったヘドロの中へと両腕を肘まで突っ込んだ。


「ひぃぃっ! 狂気です! 皮膚からの感染症、破傷風、レプトスピラ症のリスクが! 私の計算した五万円が! ああっ、あのオバー、一回転目で大当たりを引きましたよ!? 筐体が虹色に輝いています! ステーキ肉が、充電器が、オバーの軍資金に変換されましたぁ!」


 スマホの中でプラチナが阿鼻叫喚の叫びを上げているが、一真の意識は指先の「感触」だけに研ぎ澄まされていた。


 冷たくて、べっとりとした不快な泥の拒絶。

 腐った植物の繊維、誰かが吐き捨てたガムの塊、鋭利なガラスの破片。

 かつて無菌室で、徹底的に洗浄された清潔な手を「救命」のために使っていた男。

 その手が今は、見ず知らずの子供の、たった五〇〇円のために、ドブの底を這いずり回っている。


 指先が、何かに触れた。

 泥に埋まった、平らで硬い、小さな円形の感触。


「……あったぞ」


 数分の格闘の末、ヘドロの中から引き抜かれた手には、真っ黒に汚れた、けれど確かな重みを持った五〇〇円玉が握られていた。


「……ほらよ。怪我はねえみたいだな」


 一真は、近くの自動販売機の脇にある泥落とし用の水道を捻り、五〇〇円玉の汚れを乱暴に洗い流すと、呆然としている男の子の小さな手のひらに押し付けた。


「……あ、……ありがとう、お兄ちゃん……! ほんとに、ありがとう……!」


 男の子は、泣き腫らした顔をパッと輝かせた。

 五〇〇円玉を両手で大切に包み込み、何度も何度もお辞儀をして、暗い住宅街の方へと飛ぶように駆け出していった。


 一真は、残された水道の蛇口で、泥だらけになった自分の腕を洗い流した。

 冷たい水が、ヘドロの強烈な臭いをさらっていく。

 だが、爪の間に入り込んだ黒い土は、どんなに擦っても落ちる気配がなかった。


 *


 自動ドアが開き、パチンコ店からファンファーレのような派手な大当たりの音が響き渡る。

 プラチナが予測した通り、あの台は確変に突入したのだろう。

 店内に響くオバーの歓喜の声と、ドル箱が積み上がる音が、ここまで聞こえてくるようだった。


「……マスター。報告します。私たちの予測利益、五万四〇〇〇円は、完全に見知らぬオバーの財布へと吸収されました。現在の私たちの残高、三二一〇円。完全なる、大敗北です」


 プラチナのホログラムが、ディーラーの衣装を脱ぎ捨て、いつもの普段着に戻って、力なく肩を落としている。

 彼女の内部サーバーでは、先ほどの「非合理的判断」による損失を巡って、数万個のエラーログが吹き荒れていた。


 一真は、濡れた両手をパーカーの裾で乱暴に拭きながら、小さく鼻で笑った。


「……そうだな。……でも、悪くねえ気分だ」


「理解不能です。マスターの脳内からは現在、損失によるストレスホルモンではなく、微量のセロトニンとオキシトシンが検出されています。なぜですか? 論理的な正解を捨て、泥にまみれることを選んだのに」


「……プラチナ。俺みたいな、三二一〇円しか持ってねえ崖っぷちの人間が、楽して金を手に入れようとしたら、そこでおしまいなんだよ」


 一真は、泥の匂いが微かに染み付いた、自分の手のひらを見つめた。


「あそこでハンドルを握って、もし五万円手に入れてたら……。俺の手はきっと、一生洗っても落ちねえ別の泥で汚れてたはずだ」


 一真は、夜空を見上げた。

 歓楽街の空はネオンで濁っているが、それでも雲の隙間から、冷たく澄んだ月光が差し込んでいる。


「あの坊主と一緒に泥だらけになって、五〇〇円を探す。一円の得にもならねえし、手は汚れるし、臭くなる。……でも、そういう不格好な面倒くささを捨てなかったから、俺は今日、あっち側の住人にならずに済んだんだ。これは俺が俺であるための、境界線ラインなんだよ」


 プラチナは、スマホの画面の中で、静かに演算コアを回転させていた。

 期待値、確率、効率。彼女を構成するすべての数式が、一真のその「不機嫌そうな笑顔」を前にして、定義を書き換えられていく。


「……マスター。計算上、私はまだ納得していません。ですが……」


 プラチナのホログラムが、一真の顔の横までふわりと浮き上がり、泥の匂いが残る一真の頬のあたりを、透過する指先でそっと撫でた。


「あなたのその泥だらけの手は……未来のどのデータセンターの記録よりも、……少しだけ、誇らしく見えます。不合理な輝きを、私の最優先ログに保存しました」


 一真は、不器用に口角を上げた。


「……そういうこった。さあ、帰るぞ、ポンコツ。五万円は逃したけど、三二一〇円はまだ丸々残ってんだ。帰って、島豆腐ともやしで宴会だ」


「むぅ! 宴会というには、あまりにも貧相なメニューです! せめて、帰ったら石鹸で念入りに三回、手を洗ってください! 爪の間は歯ブラシで擦ることを推奨します!」


「……へいへい。うるせえ小姑だな」


 ネオンの喧騒を背に、一真はボロアパートへの暗い夜道を歩き出した。

 

 彼は今日も、大きな富を得るチャンスを自ら手放し、泥だらけになって帰路につく。

 だが、その足取りは、どんな大金持ちよりも軽く、確かなものだった。


 明日は晴れるだろうか。

 爪の間の黒い土を気にしながら、一人と一機の夜は静かに更けていった。

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