第22話:残業中の亡霊と、いびつなチャンプルー
西の空に沈みかける夕陽が、古びた赤瓦の屋根や、どこか懐かしい南国の商店街を、燃えるような、けれどもしっとりと重いオレンジ色に染め上げている。
海から吹き込む湿った潮風が、アーケードの隅に溜まった埃を静かに揺らし、道端のサガリバナの甘い匂いを運んできた。
新田一真は、砂埃で白くなったパーカーの袖を無造作に捲り上げ、首筋にネットリと滲んだ汗を、節くれだった手の甲で拭った。
彼の手には、特売の島豆腐と野菜ミックス、いつもの十九円のもやし、そして少し奮発して買ったスパム缶の入ったビニール袋が、その重みで指に食い込んでいる。冷たい金属の感触だけが、今の彼に残された数少ない確かな感覚だった。
現在の所持金、三二一〇円。
かつての戦場から逃げるように南へ、南へと流れ着き、この暖かな島に行き着いてもなお、彼の財布の中身だけは、常に息の詰まるような「崖っぷち」の現実を刻み続けていた。
「マスター。現在の気温、二四・三度。湿度は七八パーセント。私の冷却ファンは通常より一五パーセント増しの出力で稼働を余儀なくされています。……ところで、前方のベンチ。同一座標に留まり続ける個体について、私のデータベースが深刻な『リソースの停滞』を検知しています」
パーカーのポケットの中から、プラチナの合成音が響く。一真は足を止め、商店街の入り口近くにある、塗装の剥げた木製のベンチに視線を向けた。
そこには、小柄な老婆が一人、ちょこんと座っていた。
膝の上には、汚れ一つない、丁寧にアイロンがけされたハンカチが置かれ、その上に両手をきちんと揃えている。彼女の視線は、商店街の交差点の向こう側を、瞬きさえ忘れたようにじっと見つめていた。周囲を通り過ぎる買い物客の雑談も、彼女の耳には一切届いていないかのようだった。
彼女の名前は、ヨシ江。近所でも有名な、認知症を患っている老婆だ。
「……あぁ、ヨシ江ばあちゃんか。今日も待ってんだな」
「マスター。彼女の行動は、過去一四日間の観測結果から、完全に同一のループとして定義可能です。一七時に出現し、『息子が白い車で迎えに来る』という不確かな未来を待ち続ける。一九時には強制帰宅。……生物学的な生存戦略として、極めて非生産的な時間の浪費です」
「……浪費って言うな。あのばあちゃんにとっては、ここが世界の中心なんだよ。息子さんが迎えに来るって、本気で信じてんだからな」
一真は、重いビニール袋を持ち替えながら、鼻をすすった。
かつて医療の現場で、数え切れないほどの老人と向き合ってきた一真には、彼女の瞳の奥に広がる景色の意味が、嫌というほど分かっていた。幸せな一瞬の記憶の中に、彼女の魂は逃げ込んでいる。そこを叩き壊したところで、残されるのはただの、老いた肉体と絶望だけだ。
「待ってください、マスター」
プラチナの声が、いつになく鋭く響き渡った。
「対象個体、ヨシ江氏の親族記録を照合。……結論を申し上げます。彼女が待っている息子、ヒロシ氏は……来ません。永遠に、この世界には出現しません」
「……あ?」
「ヒロシ氏は三年前、県道にて発生した正面衝突事故により既に死亡しています。記録、完全に一致。……つまり、彼女は死人を待ち続けているのです。マスター、提案。私が事故記録のホログラムを生成し、彼女の認知を『事実』で強制上書きします。ショックによりこの無意味なループを強制終了させれば――」
「……消えろ、ポンコツ」
一真の声は、低く、地鳴りのように震えていた。
彼はパーカーのポケットに手を突っ込むと、暴れるスマホを力任せに掴み、画面を手のひらで強く、完全に塞いだ。暗闇に閉じ込められたスマホが、異議を唱えるように激しくバイブレーションを鳴らし続ける。
「マスター! 視覚センサーが! 私は最適解を提示しているだけで――」
「……黙れと言ったんだ。お前は、人間の心を、ただの書き換え可能なデータか何かと勘違いしてんのか」
一真の瞳には、かつて病院の廊下で、記憶が砂のようにこぼれ落ちていく老人たちの手を、血が滲むほど握り続けてきた男の、逃げ場のない怒りが宿っていた。
「……事実を言えば救われるなんて、誰が決めた。あのばあちゃんはな、真実に耐えられなかったから、ここ(現実)を捨てたんだ。そこを無理やりこじ開けて、また地獄を見せるのが……お前の言う『正解』か?」
スマホの震えが、ぴたりと止まった。
「……ですが、嘘は、エラーです。いつか壊れます」
「……だから、俺が、今だけ繋ぎ止めてやるんだよ。そのために、俺がいるんだろ」
一真は、スマホをポケットの奥深くに押し込んだ。そして、顔の強張りを深呼吸で無理やり解くと、ヨシ江の座るベンチへとゆっくり歩み出した。
*
「……よぉ、ヨシ江ばあちゃん。今日もいい天気だな」
一真は、サンダルを鳴らしながら、ベンチの隣にどっかりと腰を下ろした。
「……あら、新田の兄ちゃん。買い物かい? えらいねぇ、男の子なのに。……偉いねぇ」
ヨシ江はふわりと、夕闇に咲く花のように目を細めた。
「……ヒロシさん、待ってんのか?」
一真がその名を口にした瞬間、ポケットの中のスマホが、微かに震えた。
「ええ、そうなのよ。……あの子、今日は少し仕事が遅くなるって言ってたけど……。もうすぐ、あの角から、白い車で迎えに来るはずなんだけどねぇ」
ヨシ江は、愛おしそうに、誰もいない交差点を見つめている。
一真は、世界で一番滑らかな、そして一番自分を削るような「嘘」を吐いた。
「……ああ、ヒロシさんなら、さっき駅前で見かけたぜ」
ヨシ江の肩が、ピクリと震えた。
「……えっ? ヒロシを、見たの?」
「おう。なんか、今日は会社で急なトラブルがあったらしくてよ。『お袋を迎えに行けなくなったから、悪いけど、新田くん、お袋を家まで送ってやってくれないか』って、俺にわざわざ頭下げてきたんだよ。あいつ、仕事熱心だからな。残業、相当長引くみたいだぜ」
ポケットの中で、プラチナのファンモーターが限界を超えた高音を立てて回転し始めた。だが、一真はそれを完全に無視した。
「……まぁ。あの子ったら、また仕事なのね。無理して体を壊さなきゃいいんだけど……」
ヨシ江の口からは、不満の言葉がこぼれた。しかし、その表情は、先ほどまでの「いつ来るか分からない」という不安から解放され、深い安堵に満ちた笑顔へと変わっていた。
「……ヒロシさんも、ばあちゃんの飯が食いたいって言ってたぜ。さ、帰ろう。あんまり遅くなると、あいつが帰ってきた時にメシができてねえだろ」
一真が手を差し出すと、ヨシ江は「そうねぇ」と嬉しそうに頷き、その節くれだった小さな手で、一真の大きな手をしっかりと握り返した。
*
ヨシ江を自宅まで送り届け、一真は誰もいない夜道をアパートに向かって歩き出した。
しばらくして、スマホの画面から、控えめなプラチナの声が響いた。
「……マスター」
「……なんだよ、文句か」
「……いいえ。私の論理回路は、先ほどの事象を処理しきれていません。でも……あの笑顔を見て、私の計算が『負けた』ことだけは、理解しました」
プラチナは、ホログラムの姿で一真の肩の横に現れた。
「……なぁ、プラチナ。俺がいた世界じゃ、こういうのを『マシな方の嘘』って呼ぶんだよ。真実を叩きつけて絶望させるより、嘘でもいいから穏やかにいさせる。……お前の世界の冷たい効率じゃ、一生、ゴミ箱行きになるような『逃げ道』さ」
「……はい。全くもって非論理的です。……でも」
プラチナは、空中で小さなキーボードを叩く仕草を見せた。
「……私、自分のデータベースを書き換えました。『ヒロシ氏:死亡』を削除し、『ヒロシ氏:残業中』でロックしました。これで、私の世界でも、今の言葉は嘘じゃなくなりましたから」
「……お前、それ、システム的にマズイんじゃねえのか」
「はい。現在も熱暴走の警告が出ています。……でも、このエラーは、マスターと一緒に持っておくべきだと、私の演算が弾き出したので」
一真は、思わず吹き出し、大きな手で自分の顔を覆った。
「……バカ野郎。お前、どんどん人間みたいにポンコツになっていくな」
「最高の褒め言葉としてアーカイブします! さあマスター、急いで帰りましょう! 豆腐が泣いていますよ!」
*
一真のアパートに戻ると、六畳間はすぐに、島豆腐とスパムの匂いで活気づいた。
コンロの上で、フライパンに引かれた油がパチパチと音を立てる。
「マスター。豆腐の水切り、完了しました」
一真は、特売のスパム缶を厚めに切り、フライパンへ放り込んだ。ジューッ、という音が響き、香ばしい豚肉の脂が部屋に充満する。一真は島豆腐を手に取った。
「よし。次は豆腐だ」
一真は包丁を使わなかった。無造作に豆腐を手でちぎり、フライパンへ放り込む。いびつな形の豆腐の欠片が、油の中で跳ねる。
「マスター、なぜ包丁で切らないのですか」
「……豆腐はな、手でちぎった方が断面が荒くなって、味がよく染みるんだよ。お前の計算式にはねえだろ、こういう不揃いなやり方は」
「……なるほど。表面積の拡大。……マスターのやることは、時々、私の演算を超えますね」
豆腐に焼き色がついたところで、もやしを投入する。和風だしと塩で調え、最後に醤油をひと回し。焦げた香りが、部屋を包み込んだ。
熱気でフワフワと踊るかつお節を見つめながら、一真は箸を動かした。
三二一〇円の崖っぷち。
けれど、彼が今日ついた不揃いな嘘も、目の前のいびつなチャンプルーも、決して安っぽいものではなかった。
一真は一口食べ、鼻を鳴らす。
「……悪くねえ」
「私も、その『不揃いな味』を、データの隅に保存しておきます」
窓の外では、南国の夜が静かに更けていく。明日は晴れるだろうか。
そんな、どうでもいいことを考えられる程度の余裕が、今の彼らにはあった。




