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スマホの中のプラチナ 〜底辺から始めるポンコツ未来AIの(に)お世話生活〜  作者: ひろボ


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第21話:怒りのスキャンと、見えない傷

 三月も末、夕暮れ時のスーパー『タナカ』な店内は、特売のタイムセールに群がる主婦たちと、仕事帰りの疲れ果てた会社員たちでごった返している。惣菜コーナーから漂う揚げ物の油の匂いが、空腹の胃袋を容赦なく刺激してくる。


 新田一真は、よれよれのパーカーのポケットに手を突っ込み、手元のカゴの中で鎮座する「もやし一九円」と「半額シールの貼られた厚揚げ」をじっと見つめていた。

 現在の所持金、三二一〇円。

 この数字は、もはや彼の人生における逃れられない定数ていすうのようになりつつあった。


「マスター、報告です。周囲の感情エネルギー(エモ・シグナル)を可視化する新機能『エモ・スキャン』の試験運用を開始しました。……おや、三時方向、レジ付近に異常な熱源を感知。これは……純度九八パーセントの『怒り(レッド)』です!」


 スマホの画面から飛び出したプラチナのホログラムが、警告灯のように真っ赤なエフェクトを撒き散らしながら、レジの一角を指差した。


 そこには、一人の男がいた。五十代半ばだろうか。かつては上等だったであろうグレーのスーツは、あちこちに不自然なシワが寄り、ネクタイは結び目が緩んでだらしなく垂れ下がっている。

 彼は、レジの若い女性店員に向かって、小刻みに震える指を突き出しながら、激しい怒号を撒き散らしていた。


「……遅いんだよ! なんで隣のレジより三〇秒も遅れてるんだ! 俺の時間を何だと思ってる! 責任者を呼べ、今すぐだ!」


 男の声は、店内のチープなBGMを完全に殺すほど荒々しかった。周囲の客たちは腫れ物に触れるように視線を逸らし、その場から蜘蛛の子を散らすように離れていく。店員は恐怖で顔を強張らせ、レジのバーコードリーダーを持ったまま硬直していた。


「マスター、危険です。対象の脳内アドレナリン及びコルチゾール濃度は限界点を突破。非論理的な物理攻撃に転じる確率、八二パーセント。直ちに一秒以内の緊急通報(一一〇番)および、このエリアからの即時撤退を推奨します。……マスター? 聞いていますか?」


 プラチナの警告をよそに、一真の瞳は、いつになく鋭くその男を射抜いていた。

 かつてICUの最前線で、言葉を発せない重篤な患者の「声なき叫び」を聞き続けてきた元看護師の眼。それは、プラチナのデジタルなスキャンが見落としている『ノイズ』を、一瞬でアセスメント(観察・分析)していた。


(……おかしいな。あいつ、怒鳴ってる割に、足元の重心が全く定まってねえ。それに、あの指の震え。アルコールの離脱症状じゃない。極度のストレスと睡眠不足による振戦しんせんだ。スーツの襟元に、クリーニングのタグがついたままだ。身なりを整える余裕すら失くした、急激な環境の変化……)


 一真は、カゴをレジ待ちの列の最後尾に置いたまま、ゆっくりと男の方へ歩み出した。


「マ、マスター!? 自殺行為です! データの解析によれば、あの個体は現在、理性を喪失した破壊衝動の塊と化しています! 近づけば、一真様の物理的耐久値(HP)がゼロになる恐れがありますぅ!」


 プラチナがパニックになり、一真の脳内に真っ赤なアラートを投射する。

 だが、一真は男の背後に音もなく忍び寄ると、男と店員の間に割って入り、男の視界を物理的に遮った。


「……おい、おっさん」


 一真の、地を這うような低い声。レジ周辺の空気が凍りついた。

 男が、獲物を奪われた獣のような形相で一真を見上げる。


「……あぁ!? 何だお前は! 関係ない奴は引っ込んでろ!」


「関係あるんだよ。俺は今、猛烈に腹が減ってて、さっさとこの厚揚げを焼いて食いたいんだ。お前のくだらねえ怒鳴り声のせいで、レジが止まってんだよ。……それに」


 一真は、男の顔を覗き込むようにして、さらに一歩踏み込んだ。相手のパーソナルスペースを完全に蹂躙する、プロの圧迫感。


「あんた、今、過呼吸になりかけてるぞ。怒鳴りすぎて酸素が足りてねえ。唇の色がチアノーゼだ。深呼吸しろ」


「な……何を……! 放っとけ! 俺は大手商社の……!」


「……商社の何だよ。もう『元』なんだろ。あるいは、今日で終わりだったのか」


 一真の言葉に、男の口がピタリと止まった。男の瞳に、激しい動揺と戸惑いが走る。


「……な、何を根拠に……」


「プラチナ、こいつの胸の社章。画像解析しろ」


 一真がポケットのスマホを軽く叩くと、プラチナが即座に反応した。


「了解です! ……該当バッジは中堅専門商社『東都マテリアル』のものと一致。さらに、現在同社は大規模な早期退職リストラを募集中。対象年齢は五十歳以上……合致します!」


「……そういうことだ」


 一真は、男から視線を外さずに言った。


「あんたの靴、右だけ踵が激しく擦り減ってる。スーツのズボンは膝が抜けてる。デスクワークの人間が、最近になって不慣れな外回りをさせられてる証拠だ。追い出し部屋か? それとも、絶望的な謝罪行脚か? どっちにしろ、あんたの体はもう悲鳴を上げてる。その怒り、店員に向けてるんじゃねえだろ。自分に向けてんだろ」


 一真は、突き放すように、けれどどこか体温を感じさせる声で告げた。


「あんた、今日はもう帰って寝ろ。疲れてんだよ。そんな真っ赤な顔して叫んでたら、明日には脳の血管がブチ切れるぞ。俺は元看護師だ。自分を誤魔化して死んでいった人間の顔は、見飽きるほど見てきたんだ」


 男は、何かを言い返そうとして口を開けたが、声にならなかった。

 彼の全身から、先ほどまでの荒々しい覇気が、風船がしぼむように霧散していく。代わりに現れたのは、プラチナのスキャンが捉えきれなかった、深く、重い絶望の色だった。


「マスター、……エラーです。エモ・スキャンに異常が発生。対象の『怒り(レッド)』が急速に減衰し、代わりに……信じられないほど深い『悲しみ(ブルー)』が、画面を塗りつぶしていきます……」


 プラチナの声が、震えていた。スマホの画面の中で、真っ赤だった男のホログラムが、一瞬にして凍てつくような蒼色へと変色し、さらにその奥で、黒く沈んだおりのような色が渦巻いている。


「……。……。……ぁ……」


 男は、膝から崩れ落ちた。レジ横の冷たい床に手をつき、子供のように嗚咽を漏らし始めた。


「終わったんだ、全部。三十年、会社のために尽くしてきたのに。たった一通の通知で、机を奪われた。……今日が、最終日だった。……家族に、妻に、なんて言えばいいんだ……」


 男の涙が、スーパーの床にポタポタと落ちる。店内の喧騒は遠のき、この一角だけは、まるで時間の流れが止まったような静寂に包まれていた。


 一真は、そんな男の背中を、乱暴に一度だけ叩いた。


「……家族に言う前に、まずは自分が休め。死んだら、謝ることもできねえんだからな」


 一真は、そう言い残すと、何事もなかったかのように自分のカゴを取りに戻った。

 三二一〇円の財布から小銭を出し、厚揚げともやしを買う。レジの女性店員が、「……あ、ありがとうございました」と、怯えと深い感謝が混じったような顔で一真を見送った。


 *


 店を出ると、春の夜気はさらに深く、街路樹の隙間を吹き抜けていった。

 一真は、夜空を見上げながら、深く息を吐き出した。


「マスター。アーカイブ、完了しました。……今の事象を解析した結果、私の論理回路に致命的な修正が必要です。私は『怒り』を、単なる攻撃性の指標としてしか見ていませんでした。でも、それは……脆すぎる心を守るための、防衛機制の副産物だったのですね」


 プラチナのホログラムが、一真の肩のあたりで、淡い青色の光を放ちながら浮遊していた。彼女の声はいつになく穏やかで、思索に満ちていた。


「データは、常に一面しか見せない。でも、人間はバグの塊なんだよ、プラチナ。怒ってる奴が、一番傷ついてることもある。笑ってる奴が、一番泣きたがってることもある。それを数字や色だけで測ろうとするのが、お前の世界の限界だ」


 一真は、ポケットの中で接着剤だらけのスマートウォッチに触れた。

 不格好な居場所。けれど、そこで刻まれる脈動は、どんな精密機械よりも真実を語っている。


「……マスター。先ほどの男の心拍数は、一真様が声をかけた瞬間、一二〇(ピーク)に達しましたが、その後、驚くべき速さで鎮静化しました。物理的な薬剤も、高度なカウンセリング・ボットもなしに、たった数言の『お節介』が……」


「……お節介じゃねえよ。俺の買い物の邪魔だっただけだ」


 一真は照れ隠しにパーカーのフードを深く被った。だが、プラチナはその嘘を見抜いていた。


「いいえ。一真様は、彼の『見えない傷』を見ていました。エモ・スキャンには映らない、その奥の出血を。……マスター、私は決めました。私のエモ・スキャン、アップデートします。色の彩度だけではなく、その奥にある『ノイズ(痛み)』を検知するフィルターを、標準実装します。私は、もっと人間を、一真様を、深く理解したいのです」


 一真は鼻をすすり、もやしの袋を提げて歩き出した。


「……ふん。勝手にしろ。ただし、あんまりジロジロ覗き見すんなよ。俺の心はバグだらけで、見ても面白くねえからな」


「むぅ! 失礼な。世界で一番興味深いデータセットです! さあ、マスター、早く帰って厚揚げパーティーです。ニンニク醤油の香ばしい匂いを同期シンクさせて、私のこの『青いログ』を温かい色に上書きしてください!」


 不器用な救世主と、未来から来たデバッガー。彼らの奏でる「非効率」という名の旋律は、この騒がしい街のどこかで、確かに誰かの「見えない傷」を癒やし続けていた。


 夜の帳が降りる街角で、一真はふと足を止めた。

 スーパーから出てきたあの男が、遠くでタクシーに乗り込むのが見えた。その背中は、先ほどよりも少しだけ、しっかりと伸びているように見えた。


「……マスター。……お節介、成功ですね」


「……知らねえよ。……さあ、飯だ」


 三二一〇円。数字は変わらない。けれど、一真が歩き出したアスファルトの上には、先ほどよりも少しだけ明るい、街灯の光が伸びていた。


 *


 一真のアパートに戻ると、彼は慣れた手つきで厚揚げを切り、フライパンに並べた。ジュウという音が、静かな部屋に響き渡る。

 プラチナはスマホを充電器に繋ぎ、ホログラムをキッチンの隅に座らせた。


「マスター。……さっきの男、明日には家族に話すでしょうか。……自分の弱さを、見せられるでしょうか」


「さあな。……でも、泣ける奴なら大丈夫だ。……一番危ないのは、泣くことも、怒ることも忘れた奴だからな」


 一真は、焦げ目のついた厚揚げにたっぷりとニンニク醤油を垂らした。立ち上る香ばしい煙が、一真とプラチナを包み込む。


「……お兄ちゃん。……私、……あなたのことが、少しだけわかってきた気がします」


「……あ? 何を今さら」


「……あなたは、誰よりも傷ついたことがあるから、……誰かの傷が見えてしまうのですね。……それは、二一四五年の世界では『弱点』と呼ばれます。……でも、この三二一〇円の世界では、……それを『優しさ』と呼ぶのだと、学習しました」


 プラチナの銀色の瞳が、一真の不器用な横顔を映し出す。


「……食うぞ、プラチナ」


 一真は言葉を遮り、箸を割り、厚揚げを口に運んだ。

 熱い。けれど、最高に美味い。

 隣で輝く相棒の光を受けながら、一真は不器用に咀嚼した。


 明日は晴れるだろうか。

 そんな、どうでもいいことを考えながら、一人と一機の夜は静かに更けていった。

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