第20話:味覚共鳴(レゾナンス・グルメ)
春の陽光が、ボロアパートの薄暗い畳の上に、切り取られたような不格好な四角い光を落としていた。
三月も末。一真の財布の中身は、更新料の支払いや便利屋の活動経費、そして十九円のもやしへの過剰な投資を経て、再び運命の数字――三二一〇円へと収束していた。
それはまるで、この世界が新田一真という男に課した、決して逃れられない底辺の定数のようでもあった。
「マスター! 奇跡です! 私のプロセッサの深層領域から、高次アプリケーションのサルベージに成功しました! その名も……『味覚共鳴』! これさえあれば、私はついに、一真様が摂取する有機物の化学的組成……いえ、『美味しさ』という名の不条理な概念を共有できるのです!」
スマホの画面の中で、プラチナがフリルのついたエプロンのホログラムを纏い、フォークとナイフを両手に掲げて狂喜乱舞していた。銀色の髪が、興奮の演算で淡く発光している。
「……味覚共有? お前、データなのに味がわかるのかよ」
「もちろんです! 一真様の味蕾が感知した微細な電気パルスを、私のネットワークがリアルタイムで翻訳・エミュレートします。さあ、直ちに最高級のフォアグラ、あるいはキャビアの摂取を! 私の知的好奇心が、未知の美味を求めてオーバーロード寸前ですぅ!」
「……バカ言え。あるわけねえだろ。今日のご馳走は、昨日キヨさんから貰った『賞味期限が数時間過ぎた卵』だ。三二一〇円の残高じゃ、卵一個が高級食材以上の価値なんだよ」
一真は、よれよれのパーカーの袖を捲り上げ、左手首の継ぎ接ぎの時計を直すと、台所のコンロに火をつけた。
贅沢など望むべくもないが、プラチナが隣で騒いでいるだけで、この湿っぽくて狭いキッチンは、どこか賑やかな実験室のような熱を帯びる。
「……よし、共鳴開始だ。変なノイズ出すなよ。俺の脳が痺れるのは勘弁だ」
「了解です、マスター! 味覚レゾナンス、オンライン。……さあ、来なさい、二一世紀の食文化よ! 私のメモリに『至高のデータ』を刻むのです!」
一真が卵を割り、フライパンで手際よくスクランブルエッグを作り始めた、その時だった。
――トントン。
ドアを叩く音がした。
いつもの大家や田中さんの、遠慮のない乱暴なノイズではない。どこかためらいがちな、けれどもしっかりとした意思を感じさせる、規則正しいリズム。
「……新田さん。……新田一真さん、いらっしゃいますか?」
一真の背中が、氷水を流し込まれたように強張った。
その声には、聞き覚えがあった。いや、忘れたくても忘れられない。あの真っ白で無機質な病棟の廊下で、モニターのアラーム音に混じって、何度も自分を呼び止めた声だ。
一真はコンロの火を止め、重い足取りでドアを開けた。
そこに立っていたのは、一真がかつて働いていた救急救命センターの後輩看護師、**佐藤遥**だった。
整えられた短い髪、真面目そのもののリクルートスーツ。彼女の姿は、この埃っぽい木造アパートの廊下では、あまりにも異質で、眩しすぎた。
「……佐藤か。……なんで、ここが分かった」
「……師長さんに、無理を言って聞き出したんです。……新田さん、あんな風に急にいなくなるから。……みんな、心配して……」
遥は、一真のやつれた顔と、ボロアパートの内装を見て、言葉を詰まらせた。彼女の瞳には、かつての「救急の若きエース」だった一真の面影を探そうとする、切実な悲しみが揺れていた。
「……見ての通りだ。ただの底辺だよ。用が済んだら、帰れ。ここは、お前みたいな真っ当な看護師が来る場所じゃない」
一真は冷たくドアを閉めようとしたが、遥は首を振ると、胸に大切そうに抱えていた風呂敷包みを差し出した。
「……これ、お弁当、作ってきたんです。……新田さん、絶対ちゃんと食べてないと思って。……私なりに、精一杯、……完璧な栄養管理を考えて……」
「……いらねえよ。自分で作るから」
「……新田さん。お願いです。食べてください。……これ、私の『お節介』なんです。拒絶するなら、ここで私が全部食べて帰るまで動きません!」
遥の言葉に、一真は思わず絶句した。
『お節介』。
それは、プラチナと出会ってから、一真が何度も自分に言い聞かせるように口にしてきた言葉だ。
「……マスター。……彼女のバイタルは、極度の緊張と、それ以上の純粋な善意によって満たされています。……拒絶は非論理的です。……それに、スキャンによれば、その包みの中からは、未知の芳香……いえ、激しい熱化学反応の痕跡が……」
プラチナが、スマホの中から小声で助言を送る。
一真は深くため息をつき、遥を狭い六畳間に招き入れた。
*
万年床の端に座り、遥が不器用な手つきで風呂敷を広げる。
中から現れたのは、可愛らしい二段重ねの弁当箱だった。だが、その蓋を開けた瞬間、一真とプラチナの時が止まった。
「……お待たせしました! 彩りには、自信があるんです! 赤、黄、緑……完璧な色彩設計です!」
遥が満面の笑みで提示した「彩り」の正体。それは、色彩という概念を物質的な破壊で上書きしたような代物だった。
中心に鎮座するのは、炭化して石炭のようになった**『完全黒焦げの卵焼き』。その隣には、塩の結晶が雪のように積もった『真っ白な和え物』。そして、糊状になった『ベチャベチャの米』**。
「マスター。……警告、緊急警告です! 『味覚共鳴』を直ちに遮断することを推奨します! 対象物体からの反射スペクトルを解析した結果、これは食品ではなく、高濃度の炭素塊、あるいは致死量のナトリウム化合物です! これを摂取すれば……私の論理回路が塩分でショートして蒸発しますぅ!」
プラチナがパニックになり、一真の脳内に真っ赤なアラートを投射する。一真は、震える手で割り箸を割った。目の前では、遥が期待に満ちた、キラキラした瞳で自分を見つめている。
(……こいつ、仕事は完璧なクセに、生活能力はマイナスだったな……)
一真は、かつての記憶を思い出した。患者のバイタル変化を誰よりも早く見抜く彼女が、休憩室でカップ麺にお湯を入れすぎ、スープを「ただの薄いお湯」に変えていた、あの不器用な後ろ姿を。
「……いただきます」
一真は、一番「黒い」……もはや地獄の業火で焼かれたような卵焼きを一切れ、口に運んだ。
その瞬間、脳内を凄まじい雷撃のような衝撃が走った。
「――ぎゃあああああああ!? 苦い! 苦いです、マスター! これは焦げ味ではなく宇宙の『虚無』の味です! そして、あとから襲ってくるこの過剰な塩分……! 地球の全海水を一〇〇万倍に濃縮したようなナトリウム・スパイクですぅ! 救援! 直ちに胃洗浄の準備を!!」
一真の脳内で、プラチナが七転八倒しながら叫んでいる。
一真の顔は、一瞬だけ土色に変わった。焦げた苦味が肺の奥まで侵食し、塩分が喉の粘膜を焼き切ろうとする。だが。
「……どうですか、新田さん?」
遥の、自分を救いたいという一心で差し出された「お節介」の重さを、一真は噛み締めた。三交代勤務の合間に、不器用な手で作ってくれたものだ。
「……うまいよ。……焦げてるのが、香ばしくていい。……病み上がりの体に、この塩分が染みる」
「マスター、嘘です! 嘘をついています! 今、一真様の味覚受容体は全会一致で死刑判決を下しています! なぜ『まずい』と言わないのですか!? 未知の自殺志願ですか!? 私はもう限界です、感情同期がロックされています! 痛い、しょっぱい、うぅ……!」
プラチナの悲鳴を聞きながら、一真は黙々と弁当を口に運んだ。一粒一粒が鉛のように重い。塩辛くて、苦くて、水分を失った米が喉を通り抜けるたびに、一真の体力が削られていくのが分かる。
それでも、一真は一度も箸を止めなかった。
「……本当に、美味しいですか?」
「……ああ。お前の味だ。……ありがとな、佐藤」
一真は、最後の一粒を強引に飲み込み、空になった弁当箱をじっと見つめた。胃の奥が熱い。物理的な塩分と焦げが胃壁で暴れている。だが、それ以上に、冷え切っていた彼の心の奥底に、得体の知れない「重み」が居座っていた。
「……よかった。……また、作ってきますね。練習してきます!」
遥は、元気よく立ち去っていった。
*
ドアが閉まった瞬間、一真はよろりと崩れ落ち、壁に手をついた。
「……う、……うぅ……。……水……。水、一〇リットル持ってこい……」
「……マスター! 直ちに大量灌流を要請します! 私の処理能力は、現在『塩分濃度の演算』だけで一〇〇パーセント占拠されています! ひどいですよ、これ! 未来のバイオテロより悪質です!」
一真は水道の蛇口を全開にし、狂ったように水を飲んだ。それから、震える手で引き出しの奥から、期限切れの胃薬を取り出して飲み込む。
静寂が戻った部屋で、一真は畳の上に大の字になった。
プラチナのホログラムが、一真の顔の横にふわりと降り立つ。彼女の銀色の瞳は、いつになく深く、思索的な光を湛えていた。
「……マスター。質問です。私の論理回路では、未だに一つの解が導き出せません。なぜあんな致命的な味の物体を、『うまい』と嘘をついてまで、全て摂取したのですか? 一口目で吐き出すのが最適解のはずです」
「……プラチナ。お前、さっき『虚無の味』って言っただろ。……でも、俺には、別の味がしたんだよ」
「成分分析では、高濃度の食塩と炭素以外に特筆すべき物質は……」
「……『お節介』の味だよ」
一真は、ゆっくりと目を閉じた。舌の上には、まだあの地獄のような焦げの余韻が残っている。けれど、それは一真がこれまで食べてきた、どんな効率的なもやし料理よりも、ずっと深く、彼の存在を肯定していた。
「……あいつは、俺に『生きててほしい』と思って、あの弁当を作ったんだ。……だったら、不味いなんて言えるわけねえだろ。あいつの厚意を喉に詰まらせながらでも飲み込むのが、俺の、最後の看護師としての矜持なんだよ」
プラチナは、黙って一真の言葉を聞いていた。彼女の内部サーバーでは、凄絶なデータが繰り返し再生されていた。激痛のような塩分。絶望的な苦味。
けれど、そのデータの奥底に、一真の心拍と同期した、不思議なほど穏やかな波形が刻まれていることを、彼女は見逃さなかった。
「……理解不能です。苦痛のパルスの中に、幸福のシグナルが混在している。一真様の脳内データは、もはや整合性のカケラもありません。……不味くて、温かくて、……胸の奥が熱くなる、不条理なバグ……」
プラチナは、その矛盾したログを、最深部に保存した。
「……お兄ちゃん。……次は、私が最高のレシピを提案します。……といっても、私はまだ、データ上の理想値しか知りませんが……」
「……やめとけ。お前の『理想値』で作ったメシなんて、機械の味しかしねえよ」
「むぅ! 失礼です! 次回は、田中さんのレシピを学習し、ニンニクを一〇〇倍にして……!」
「……死ぬわ、俺が。また胃薬が必要になる」
二人の笑い声が、三二一〇円の崖っぷちのアパートに響く。胃薬は効いてきたが、一真の舌に残る「黒焦げの記憶」は、まだ消えそうにない。
「……プラチナ。お前、さっきの和え物、どうだった?」
「……。……。一〇〇年分の海水を一瞬で飲まされた気分でした……二度と同期したくありません……」
「……ハハッ。お前も、いい経験したな」
一真は、不器用に微笑み、眠りに落ちていった。
三二一〇円。数字は変わらない。けれど、彼の味覚は、世界で一番豊かで残酷な「贈り物」を、確かに飲み込んでいた。




