第19話:迷子の自転車と、ペダルを漕ぐ理由
春の陽光は、時として残酷なまでに明るい。
三月の穏やかな光が、ボロアパートの薄暗い玄関先に容赦なく差し込み、宙を舞う埃の一つ一つをチリチリと照らし出している。
新田一真の手元には、昨日手に入れたばかりの現場代の九千円を合わせた「一万円超え」の札束……は、もうなかった。
代わりに握られていたのは、更新料の支払いを終えてスカスカになった財布と、一枚の無慈悲な領収書だけだ。
「マスター。深刻なリソース不足、いえ、もはや文明崩壊レベルの危機です。昨日の収入を合わせても、この理不尽な約一万円の更新料のせいで、現在の残高はピッタリ三、二、一、〇円! 明後日の夕食における『もやし二袋体制』の維持すら絶望的です。栄養失調によるパフォーマンス低下は、私の生存戦略において最大のリスクです!」
スマホの画面の中で、プラチナが家計簿のホログラムを真っ赤な警告色に染めながら抗議していた。
だが、一真は古びたパイプ椅子に深く腰掛け、窓の外を眺めていた。
「……うるせえよ。現場の仕事は明日からだ。今日は……非公式便利屋の、受付日だろ」
その時、一真の部屋のドアが、遠慮がちに、けれど切実なリズムで叩かれた。
コン、コン、コン。
大人ではない。低く、か細い位置からのノック。
「……はいよ」
一真が重い腰を上げてドアを開けると、そこには小学校低学年ほどの少年が立っていた。
頬には乾いた泥がつき、大きな瞳は今にも溢れ出しそうな涙で潤んでいる。
膝の絆創膏が剥がれかけ、砂が混じっているのが、一真の視界に真っ先に飛び込んできた。
「……あ、あの。……便利屋のお兄ちゃん、ですか?」
少年は、震える手でぎゅっと握りしめていたものを差し出した。
それは、使い古されて縁が削れた五〇〇円玉が一枚と、画用紙をいびつに切って作られた、手書きの『肩たたき券』が三枚。
『いちまいで、じゅっぷん』と、覚えたてのひらがなで一生懸命に書かれている。
「……僕の、自転車が……なくなっちゃったんだ。昨日の夕方、公園に置いておいたら。……お母さんに買ってもらった、大事なやつなんだ。これ、僕の宝物全部。足りないかな……?」
一真は、その小さな「報酬」をじっと見つめた。
五〇〇円と、三枚の紙切れ。
システムに数万円を奪われたばかりの今の彼にとって、その五〇〇円は数日分の命綱だ。
だが、それ以上にその『肩たたき券』に込められた、逃げ場のない切実な「真っ直ぐさ」が、一真の胸の奥にある、かつて捨て去ったはずのお節介に火をつけた。
「……自転車か。どんなやつだ」
「青色で、……ベルのところに、金色の怪獣のシールが貼ってあるんだ。僕が、一番かっこいい位置に貼ったんだ」
「……分かった。預かっとくよ、そのチケット。……探してきてやる」
一真がよれよれのパーカーを羽織ると、スマホの中でプラチナのモードが切り替わった。
「マスター! ターゲット補足及び周辺環境のデータ収集を開始します! 報酬の五〇〇円は、現在の資産において一五・五パーセントの超大幅増益! 了解しました、これより『広域・監視カメラジャック』を強行。画像解析による車両特定、予測完了まであと五秒……」
「……待て、ポンコツ」
一真は、スマホのカメラレンズを、大きな親指でグイと塞いだ。
「むぅ! 何をするのですか、マスター! 私の演算能力を使えば、犯人の現在地と心拍数、過去の万引き歴まで一瞬で特定できるのですよ!? これこそが未来の『効率』という正義です!」
「……ダメだ。子供の前で、そんなズルを見せるな」
一真はスマホをポケットにねじ込むと、少年の頭を一撫でして歩き出した。
「……ハッキング? 正義? 何言ってんだ。便利屋ってのはな、自分の足と目を使って、泥にまみれて仕事するもんなんだよ。あの子に『ボタンを押せば解決する』なんて薄っぺらい嘘を教えたくないんだ」
「……非論理的です! 感情的なエラーです!」
*
公園の片隅。
一真は、少年が自転車を置いたという場所の周りを、這いつくばるようにして観察していた。
プラチナはポケットの中で、バイブレーションを細かく震わせながら抗議を続けている。
「網膜スキャンを許可してください! 赤外線センサーを使えば、地面に残った熱から三時間前の足跡を復元できます! なぜわざわざ、視力という原始的な機能だけで情報を集めるのですか!」
「……少し黙ってろ。……プラチナ、あの子の長靴の泥を見ろ。あれは粘土質だ。そして、この地面に残った、不自然に深く抉れたタイヤの跡」
一真は、目を細めた。
患者の顔色、呼吸、皮膚の乾燥具合から、隠された病状を見抜いてきた、あの研ぎ澄まされた観察眼。
「……このタイヤの溝の幅、自転車じゃない。原付、それもオフロード用のタイヤだ。……そしてこの泥の色。黒ずんでいる。これは公園の土じゃない。北側の裏路地、廃材置き場の近くにあるヘドロ混じりの土だ。……さらに言えば、この地面に落ちている焦げたようなプラスチックの破片。あそこの不法投棄ガレージで使われている溶接機の火花が飛んだ跡だ」
一真は立ち上がり、公園の裏手へと歩き出した。
指先で、近くのガードレールに残された銀色の塗装剥げを確認する。
「……そしてこの吸い殻。メンソールの安物だ。……あのアパートの周辺で、この銘柄をポイ捨てしやがるのは、あそこのガレージにたむろしてる連中しかいねえ」
「……計算中。……なるほど、状況証拠の積み重ねによる推論。一真様、あなたの脳は時折、二一四五年のコンピュータを凌駕する『直感』という不条理なショートカットを行いますね」
一真が向かったのは、公園から少し離れた、半壊したプレハブのようなガレージだった。
内部からは、下品な重低音の音楽と、金属を叩く音が漏れ聞こえてくる。
「マスター、警告です! 私のマイクが内部から三名の生体反応をキャッチ。心拍数は通常時より一五パーセント上昇、アドレナリンが過剰分泌されています。彼らは工具を武器として使用する確率が八八パーセント。直ちに警察へ通報を!」
「……警察が来たら、あいつらは真っ先に証拠を消そうとする。……自転車をバラして、あの『金色の怪獣』をゴミ箱に捨てるだろうよ。……そうなったら、あの子の宝物は二度と戻ってこねえんだよ」
一真は、ガレージの重い鉄扉を、蹴り破るような勢いで開けた。
中には、タバコを吹かしながら、盗んできた原付や自転車をバラしている三人の不良たちがいた。
「……あ? なんだお前。入ってくんなよ、オッサン」
金髪の男が、手にしたレンチを威嚇するように弄ぶ。
「……おい。……青い自転車、金色の怪獣のシールが貼ってあるやつ。……今すぐ、あの子に返せ」
一真の声は、地を這うように低かった。
一真は、不良たちの目を見なかった。彼が凝視していたのは、リーダー格の男の、右の頸動脈だ。
(……脈拍、一分間に一二〇。……右膝に重心が偏っている、古傷か。……左手首、レンチの握りが甘い。……やるなら、右顎の神経を抜いてから、頸動脈を圧迫して一瞬で落とす)
一真の瞳には、かつてICUで毎日のように「死」と対峙してきた男の、絶対的な冷徹さが宿っていた。
不良たちは、言葉を失った。
目の前の男は、怒っているのではない。まるで、壊れた機械の部品を交換するかのような無機質な眼差しで、自分たちをどう「解体」するかを計算している。
その本能的な恐怖に、ガレージの空気が完全に凍りついた。
「……ちっ、……なんだよ。……あのガキの自転車か。シケてんな。奥にあるよ、まだ手をつけてねえ」
リーダーの男が、蛇に睨まれた蛙のように視線を逸らした。
一真は、奥に転がっていた青い自転車を黙って拾い上げた。ベルに貼られた『金色の怪獣』が、薄暗いガレージの中で誇り高く輝いている。
外へ出る間際、一真はポケットの中でスマホのフラッシュ機能が最大出力で待機していることに気づいた。プラチナが、いざとなったら相手の目を焼き、一真の脱出経路を確保しようとしていたのだ。
「……プラチナ。……バックアップ、助かった」
「……何のことですか? 私はただ、暗所における撮影モードを自動調整していただけです。論理的な最適化ですよ、マスター」
*
帰り道。一真は、子供用の小さな自転車を片手で転がしながら、夕暮れの街を歩いていた。
プラチナはスマホの画面を解放され、不満げに口を尖らせている。
「……理解できません。なぜわざわざ、自分が怪我をするリスクを冒してまで『凄み』などという数値化できない要素に頼ったのですか? 通報一発で済む案件です」
「……プラチナ。お前に教えといてやる。……あの坊主はな、俺を『便利屋のお兄ちゃん』として頼ってきたんだ」
一真は、夕陽に照らされた自転車の小さなハンドルを握りしめた。
「……あの子に、『ボタン一つで、誰かが勝手に解決してくれる』なんて、そんな薄っぺらい世界を教えたくない。……自分の足で探し回って、泥にまみれて、やっと宝物を取り戻す大人がいる。……そういう泥臭い背中を見せといてやりたいんだよ」
「……それは、二一四五年の世界では『非効率なバグ』と呼ばれます」
「……そうだろうな。でも、ここではそれを『誠実』って呼ぶんだよ」
アパートの前で、少年は泣き腫らした顔で待っていた。
青い自転車が見えた瞬間、彼の時間が再び動き出した。
「……ほらよ。怪獣も、怪我してねえぞ」
少年の瞳が、瞬時に夜明けのような輝きを取り戻した。
彼は自転車に飛びつき、シールの端を愛おしそうになぞった。
「……ありがとう! ありがとう、お兄ちゃん!! 本当に見つけてくれたんだね!」
少年は自転車にまたがり、何度も、何度も振り返りながら、嬉しそうに走り去っていった。そのベルの音が、チリン、チリンと、夕闇が降りる街に優しく響いた。
「マスター。……少年のドーパミン放出量は、計算上の限界値を突破。そして、一真様の心拍数も……安定。……非効率な、あまりに非効率な仕事です。まったく計算が合いません」
「……いいんだよ、これで。……あの坊主が大人になった時、『あの時のお兄ちゃんは、ちゃんと走ってくれた』って思い出せれば、……五〇〇円以上の価値があるだろ」
一真は、不器用に笑いながら五〇〇円玉をポケットに放り込んだ。
だが、その瞬間、一真の膝がガクンと微かに震えた。
空腹、疲労、そして不良たちとの極度の緊張状態からの離脱。
「マスター! バイタルに低血糖及び疲労反応を確認。直ちにエネルギー補給を行ってください! 五〇〇円の報酬のうち、四〇〇円を投入して『特製レバニラ弁当』の摂取を提案。タンパク質と鉄分を補給しなければ、明日の現場でマスターが倒れますよ!」
「却下だ。……今日は、もやし三袋だ。……あ、でも、ハムも入れるか。五〇〇円あるんだからな」
「むぅ! 強情です! その不合理な倹約精神、ここではそれを『マスターらしい』と呼ぶべきなのでしょうか」
*
部屋に戻り、一真は約束通り三袋のもやしと、半額のハムを炒めた。
ジュウという油の跳ねる音が、静かな夜の空気に馴染んでいく。
「……お兄ちゃん。肩たたき券、……一枚。同期させてください」
フライパンを洗う一真の背中に、プラチナが控えめに声をかけた。
「……はあ? お前に肩なんてあんのかよ」
「あります! 私のホログラム投影領域における、第十五座標周辺に、データの蓄積……いえ、肩こりに似た重さを感じるのです。さあ、契約の履行を!」
「……勝手なやつだな。ほらよ」
一真は空中で、見えないプラチナの肩をトントンと軽く叩くように手を動かした。
もちろん、そこには何もない。けれど、プラチナは画面の中で、とても気持ちよさそうに目を細めていた。
「……おやすみ、プラチナ。明日は現場だ。起こすなよ」
「了解しました、マスター。……あ、言い忘れていました。マスターが叩いてくれた第十五座標の『肩こりデータ』ですが、保存する際に、なぜか削除できないロックがかかりました。……変なバグですね」
暗闇の中、一真の枕元に置かれた五〇〇円玉が、スマホの充電ランプの淡い銀色を反射して、静かにそこに存在していた。
三枚の肩たたき券は、ボロアパートの机の引き出しの、一番奥に大切に仕舞われた。
効率では測れない小さな報酬を、一人と一機は静かに抱きしめながら、眠りについた。




