第18話:ニンニク香る報酬
春の陽光は、時として残酷なまでに明るい。
三月の穏やかな光が、ボロアパートの薄暗い玄関先に容赦なく差し込み、宙を舞う埃の一つ一つをチリチリと照らし出している。
新田一真の手元には、昨日まで「一万円の壁」を突破して誇らしげに輝いていた千円札の束……は、もうなかった。
代わりに握られていたのは、郵便受けに無造作に突き刺さっていた一枚の、無慈悲な払込票だ。
『町内会費・および下水管特別修繕負担金 合計:六、八七一円』
「……呪いか。忘れた頃にやってくる、貧乏人狩りの死神だな」
一真の呟きは、干からびた雑巾から漏れ出た最後の水滴のようだった。
昨夜のファミレスでのハンバーグの余韻。あの幸福な「壁の向こう側の景色」は、このペラペラの紙切れ一枚で跡形もなく粉砕された。
スマホの画面の中では、プラチナが白目を剥き、処理能力の限界を超えたフリーズ状態で固まっている。
彼女の周囲には、クラッシュした折れ線グラフと、真っ赤なエラーログが雪のように降り積もっていた。
「マスター! 計算、合いません……。先ほどまで右肩上がりだった資産曲線が、垂直落下……いえ、地表を突き抜けてマントルまで到達しました! 現在の推定残高、三、四、五、〇円! ダイエットなら大成功ですが、新田家の家計としては国家存亡の危機ですぅ!」
「……うるせえよ。俺だって、一瞬でも夢を見たのが間違いだったって分かってるよ」
一真は、よれよれのパーカーのフードを深く被り、アパートの裏にあるコンビニのレジへ向かった。
財布から抜き出した紙幣と小銭を差し出す指先が、徒労感で微かに重い。レジの機械が、チーンと無機質な音を立てて支払いの完了を告げた。
それは、一真が泥にまみれて稼ぎ出した「余裕」が、社会という巨大なシステムの中に一瞬で吸い込まれて消えた合図だった。
財布は再び羽のように軽くなり、一真はまたしても、十九円のもやしを死守し、特売の時間を気にする「三二一〇円の崖っぷち」付近へと強制送還されたのだ。
だが、生活というものは、彼をただ沈んだままにはしておかなかった。
事の始まりは、六八七一円を毟り取られてアパートに戻ってきた直後。
大家である老婆・キヨが、共有スペースの古びたベンチで、スマートフォンの画面を人差し指で何度も激しく叩きながら、今にも泣き出しそうな顔で途方に暮れていたことだった。
「……ばあさん。それ、連打しても進まねえよ。機械がパニック起こしてる」
一真は、スマホのスピーカーから漏れるプラチナの「マスター、他人のデバイスの不具合は我々の管轄外です。放置して高単価な現場を探すべきです」という小言を無視して、キヨの横に座った。
「……一回だけ、優しく押せ。ほら、ここだ。……この写真のマークだろ? ゆっくり一回だけ、触れるだけだ」
キヨが震える指で画面を押す。だが、画面は全く反応しない。
プラチナがスマホの中から即座に分析結果を弾き出す。
「マスター。対象者の指先の水分量が極端に低下しています。現在の静電容量式タッチパネルでは、乾燥した老人の指先を正確な『入力』として検知できません。システムの設定からタッチ感度を最大に変更するよう指示してください!」
「……そんな奥の画面まで、このばあさんが行けるわけねえだろ」
一真は小さくため息をつくと、パーカーのポケットから、現場で使わずに残っていた使い捨ての濡れおしぼりを取り出した。封を切ってキヨの指先を軽く拭き、ほんの少しだけ湿り気を与える。
「……よし。もう一回、押してみな」
今度は、画面がスッと切り替わり、無事に遠方に住む孫の笑顔が表示された。
キヨは「ああ……!」と声を上げ、枯れ木のような手で口元を覆った。
「ありがとう、お兄さん……。本当に、ありがとうねぇ」
プラチナは、スマホの画面の中で目を丸くしていた。
彼女の最新のアルゴリズムは「設定画面の変更」というソフトウェア上の正解を弾き出した。だが、一真は「おしぼりで指を拭く」という、泥臭い物理的なアプローチで、一瞬にして問題を解決してしまったのだ。
「……人間の皮膚の水分量と、おしぼりの摩擦係数……。……なるほど、アナログな物理補正ですね。記録しました」
この小さな「お世話」は、情報の伝播速度が光速を超えると言われる、ボロアパート周辺の老人ネットワークを駆け巡るには十分すぎた。
翌日から、一真の部屋の錆びついたドアを叩く音が絶えなくなった。
「新田さーん、ちょっといいかしら? 電子レンジが止まらなくなっちゃって」
「お兄さん、テレビの映りが悪いんだけど、叩いても治らなくて……」
かつて一真がICUで浴び続けてきた、命の終わりを告げるような鋭利なアラーム音。
それとは正反対の、どこか間の抜けた、けれど切実な「生活の悲鳴」が、彼の日常を埋め尽くし始めた。
「マスター。……重大な警告です」
日曜日の午後。
隣室の田中さんの家の電球を替え終えた一真に、スマホの中のプラチナが、ホログラムの腕を組んで詰め寄った。
「現在の私たちは、一分一秒を惜しんで日雇い現場をサーチすべきです。それなのに、なぜ『電球の交換』や『リモコンの電池の向きの確認』という、私のナノ秒単位の処理能力を無駄遣いするような作業に、貴重な休日の三四パーセントを割いているのですか!?」
プラチナがスマホの中で地団駄を踏み、画面を激しく明滅させて抗議する。
「……いいだろ、別に。どうせ今日は現場が休みなんだよ」
一真はよれよれの椅子に腰を下ろし、田中さんから手渡された、不揃いな形の一つのタッパーを見つめた。
「納得できません! 私の計算によれば、一真様がこの『無料の便利屋』を続けることで得られる現金収入は、完全に〇円……」
そこまで言いかけたプラチナが、ピクン、と銀色の髪を震わせた。
「……待ってください。スキャン、開始。……未知の熱源、および強烈な高分子芳香成分を検知。……新たな報酬を確認しました」
田中さんが「夕べの残りだけどね。若いんだから食べなさい」と押し付けてきた、そのタッパーの中身。
「鶏の唐揚げ……? マスター! 解析結果を報告します! この個体からは、市販の冷凍食品には絶対に存在しない『不規則な揚げ色のグラデーション』と、『過剰なまでの肉汁』を検知! さらに、ニンニクと生姜による暴力的な香りの波が、私の嗅覚エミュレータをオーバーヒートさせています!」
プラチナのホログラムが、タッパーの周りを蝶のように舞い始めた。鼻をひくつかせ、ありもしない「匂い」を必死に嗅ぎ取ろうとしている。
「……推定される幸福度上昇指数は、もやし炒め三〇〇食分に匹敵。……よし、許可します! この『便利屋』タスク、当面の主要ミッションとして継続しましょう!」
「……現金なやつだな、お前は。さっきまで時間の無駄だって怒ってたろ」
一真は苦笑しながら、タッパーの蓋を開けた。
その瞬間、カビ臭い六畳一間に、強烈なニンニクの香りと、醤油が焦げたような香ばしさが爆発した。
翌日。一真は、アパート近くの公園のベンチで、近所の偏屈な老人・佐々木さんにスマホの使い方を教えていた。
佐々木さんは、震える手で画面を見つめ、入力ミスをして画面が切り替わるたびに「ああっ、もういい! 壊れた! 捨ててやる!」と怒鳴り散らしていた。
「……佐々木さん。あんた、さっきから『間違えるのが怖い』って顔に出てるぞ」
「なにを! 怖くなどあるか!」
「……いいよ。俺も、昔はそうだったんだ」
一真は、冷たい風に吹かれながら、視線を足元の砂利に落とした。
画面の数字を見るのが嫌になった時期があった。自分が少し動くだけで、取り返しのつかないエラーが起きるんじゃないかと、モニターの波形ばかり気にして、目の前の顔を見られなくなった日々。
「……間違えたら、戻せばいいんだ。……ゆっくりでいい。あんたの指が、画面の明るさに慣れるのを待つから」
一真は、決して相手のスマホを取り上げて自分で操作しようとはしなかった。
佐々木さんが画面の文字を読み込み、迷いながら指を動かすまで、隣でただ同じ時間を過ごす。
それは、かつて彼が病院で、麻痺した身体でリハビリに励む患者の歩みを、じっと背後から見守っていた時の、あの「待つ」という行為そのものだった。
「マスター。……非効率です」
プラチナが、パーカーのポケットの中で小声で伝えてくる。
「私のガイド機能を使えば、三秒で終わる操作です。なぜ、一分もかけて、彼が自力で入力するのを待つのですか?」
「……プラチナ。お前の世界には、『自分の手で覚える喜び』ってのはないのか?」
「……覚える? データは上書きするか、新規保存するかの二択です。そこに『嬉しい』という感情が入る余地はありません」
「……そうか。でもな、この人たちは、自分の指で、遠くにいる誰かに『こんにちは』って言えたってことが、最高に嬉しいんだよ。その不器用な時間を共有してやるのが、今の俺の、一番の仕事なんだよ」
プラチナは、しばらく沈黙した。
彼女のレンズは、五分かけてようやく孫へのスタンプを送信できた佐々木さんの、クシャクシャに歪んだ、けれど最高に誇らしげな笑顔を捉えていた。
「……マスター。一真様の行動は、時間対効果としては最悪の〇点です。……ですが、対象者の血圧は正常値まで安定し、表情筋の緊張が完全に解けました。……この光学的情報は、私のメモリの、絶対に消去されない領域に保存されました」
その日の夕暮れ。
一真は、報酬として貰ったばかりの「冷めた鶏の唐揚げ」と、お礼に押し付けられた「三つの林檎」を大事に抱えて、アパートへと戻った。
所持金は、三四五〇円のまま。
家計簿上の数字だけを見れば、一万円の壁から転落した貧乏人のまま。
けれど、ボロアパートの廊下を歩く一真の足取りには、絶望感は微塵もなかった。
「……お兄ちゃん。唐揚げ。一個。同期……させてくれますか?」
部屋の古い蛍光灯をつける前に、プラチナがスマホの画面から控えめに顔を出した。
「……一個だけだぞ。あとは俺の、明日の現場のためのエネルギーなんだからな」
一真は、タッパーの中の唐揚げを一つ、使い古した割り箸で持ち上げた。
「……ほら、プラチナ。これだ。冷めても美味いってのは、衣に油と調味料がしっかり染み込んでる証拠だ。お前の言う『効率的な栄養摂取』には程遠いだろうけどな」
「……マスター。私の視覚野に入力されるこの唐揚げの断面図は、塩分と脂質の塊であり、計算上、不健康の極みです。ですが……一真様の脳から送られてくる満足感の信号が、私の論理回路を完全に沈黙させています」
プラチナは、画面いっぱいに大きな瞳を映し出し、唐揚げをじっと見つめた。
一真は、その冷めた唐揚げを口に運び、ゆっくりと噛み締める。
ジュワリ。
冷えているのにパサつかず、鶏の旨味とガツンと効いたニンニクの風味が、鼻を抜けて胃袋を満たしていく。衣のしっとりとした食感が、静かな部屋に心地よく響いた。
「……美味え。……ファミレスのハンバーグも良かったけど、こういう『誰かの手作り』ってのは、妙に腹の底に溜まるな」
「……マスター。私、少しだけ分かってきました」
プラチナの声は、夜の空気に溶けるように柔らかかった。
「二一四五年の管理社会では、『誰かのために何かを作る』という過程そのものが、すべて機械に最適化されていました。そこには、田中さんが一真様のお腹を満たそうとしてニンニクを増やしたような、『不確かな思いやり』が入り込む隙間はありませんでした」
「……思いやり、ね。そんな大層なもんじゃねえよ」
「いいえ。一真様は、自分の傷だらけの時間を、こうして誰かのために使うことで、自分自身を直しているのですね。他人の笑顔という、不格好な接着剤を使って」
一真は、箸を止めた。
左手首には、昨日自分で縫い合わせた、傷だらけのスマートウォッチが巻かれている。
不格好で、非効率。
けれど、誰かが直して使おうと思えば、ガラクタでもまだ動き続ける。自分も、この時計も。
「……直す、か。……そうかもな。こうして誰かに『ありがとう』って言われると、俺のこの手でも、まだ何かの役に立つんだって、そう思えるだけだ」
一真は、残りの唐揚げを平らげると、タッパーを流し台に置いた。
「……マスター。明日のスケジュールを確認。午前十時、キヨさんの換気扇の掃除。午後二時、佐々木さんの家のWi-Fi再設定。……報酬予測は、手作りのポテトサラダに加え、お茶菓子が追加される可能性、八五パーセントです」
「……フン。忙しくなりそうだな」
「ええ! 未来から来た最強の補助AIが、完璧なスケジュール管理を約束します! ……さあ、マスター。消化を促すため、直ちに睡眠モードへ。明日の『便利屋稼業』に備えてください!」
一真は、部屋の電気を消した。
暗闇の中、プラチナの宿るスマホの充電ランプが、小さな、けれど確かな銀色の光を放っている。
けれど、隣には、世界一うるさくて、お節介で、計算外のことばかり学習していく相棒がいる。
「……おやすみ、プラチナ」
「……おやすみなさい、マスター。いい夢を。……ニンニクの匂いが画面越しに充満しているので、ファンの回転数を上げておきますね」
静かな夜。
ボロアパートの六畳一間で、一人と一機は深く、満ち足りた眠りについた。




