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スマホの中のプラチナ 〜底辺から始めるポンコツ未来AIの(に)お世話生活〜  作者: ひろボ


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第17話:一万円の壁とハンバーグ

 三月の終わり、雨上がりの夜気は驚くほど優しく、そして静かだった。


 新田一真は、安アパートの共同流し台で、もう何度目か分からない手洗いを繰り返していた。

 石鹸の泡が指の間を滑り、冷たい水が火傷の痕の残る左手首を叩く。目に見える血は、現場で借りたタオルと路地裏での嘔吐ですべて消えたはずだった。だが、鼻腔の奥にはまだ、鉄錆と生温かい他人の血の匂いがこびりついて離れない気がした。


「……マスター。皮膚の角質層がこれ以上の摩擦に耐えられません。強迫的な洗浄行動を停止してください。私のセンサーによれば、一真様の手は現在、手術室の術野よりも清潔です」


 スマホの画面から這い出したプラチナが、いつになく真剣な表情で、一真の視界の端に赤い警告アラートを点滅させていた。


「……うるせえ。……まだ、感触が残ってんだよ」


 一真は乱暴に蛇口を締めると、濡れた手をパーカーのポケットに突っ込んだ。

 そこには、今日、現場監督から「口止め料、兼、感謝のしるしだ」と手渡された茶封筒が入っている。

 五千円の臨時ボーナス。

 日雇いの警備員が、死にかけていた作業員の命を救い、現場のパニックを最小限に抑えたことに対する、会社側の不器用な誠意だった。


 部屋に戻り、ちゃぶ台の上に財布の中身をぶちまける。

 プラチナが瞬時にスキャンを行い、空中に金色の紙吹雪をホログラムで撒き散らした。


「計算完了です! 四千五百円の残高に、今回の五千円、さらに先週の現場の精算分を合わせ……一、〇、三、二、一円! マスター、ついに、ついに『一万円の壁』を突破しました! これは新田家における産業革命、あるいはルネサンスに匹敵する歴史的瞬間です!」


 プラチナは、プロペラのように銀色の髪を振り回して絶叫した。彼女の瞳には、すでに「最適化された支出計画」の複雑なグラフが投影されている。


「これでようやく、一真様の慢性的なカリウム不足を解消する高純度サプリメントと、私の並列処理能力を二〇パーセント向上させる外部冷却ユニット、さらにアパートの雨漏り箇所を特定する超音波センサーの導入が可能です! さあ、今すぐポチりましょう!」


 普段の一真なら、その喧騒を鼻で笑い、十九円のもやしを一袋増やす程度の贅沢で満足していただろう。

 だが、今夜は違った。

 部屋の壁が、天井の雨漏りのシミが、そして今日大きくズレて火傷を晒したスマートウォッチの文字盤が、一真の過去のトラウマを執拗に突きつけてくる。


 この静寂に、独りで耐えられる自信がなかった。


「……行くぞ、プラチナ」


 一真は、よれよれのパーカーのフードを深く被り、千円札を数枚、財布にねじ込んだ。


「えっ? マスター、まさか。私の計算では、現在の資産状況で夜間の不用意な外出を選択するのは、防犯上のリスクが……」


「黙ってついてこい。……お前に、食わせたいもんがあるんだ」


 *


 向かったのは、国道沿いにある、二十四時間営業の老舗ファミレスだった。

 深夜二時。

 自動ドアを抜けると、冷房の乾燥した匂いと、安っぽいコーヒーの香りが混ざり合った、停滞した空気が一真を迎えた。

 店内には、疲れ果てたトラック運転手、参考書を広げたまま死んだように眠る学生、そして何かの勧誘か別れ話をしているらしい男女の低い声が、ノイズのように漂っている。


 それはかつて一真がいたICUの、死を待つ者たちの無菌室の静寂とは違う。

 生きていくために足を止め、少しだけ息を継ぐ者たちの、泥臭い「生」の吹き溜まりだった。


「マスター、店内スキャン完了。不審者率〇・五パーセント。ドリンクバー付近の床にコーヒーの飛沫を確認、転倒のリスクがあります。……それにしても、なぜこのような栄養価の低い場所へ? 自炊をすれば、ハンバーグ一個のコストで一週間分のタンパク質を――」


「プラチナ。……座れよ」


 一真は、一番奥のボックス席に座ると、スマホを自分と向かい合わせになるように、使い古されたメニュー立てに立てかけた。


「は? 私はデータですから、座るという物理現象は……」


「いいから、そこにいろ。……相席の客としてな」


 注文を取りに来た気怠そうな店員に、一真はメニューも見ずに告げた。


「一番安いハンバーグセット。あと、ライス大盛りで。ドリンクバーも」


 店員が立ち去った後、プラチナが呆れたようにホログラムの小さな肩をすくめた。


「税込九百八十円。マスター、正気ですか。これがあれば、もやしが五十袋買える計算です。新田家の国家予算を、たった一食で一〇パーセントも棄損するなんて……これは私の管理責任を問われるレベルのエラーです!」


「……うるせえよ。一万円の壁を越えたんだ。一度くらい、壁の向こう側の景色を見てもバチは当たんねえだろ」


 一真は、ドリンクバーで持ってきた安っぽい色のメロンソーダを一口飲み、背もたれに体を預けた。

 ファミレスの騒がしさが、今の彼にはひどく心地よかった。ここなら、自分の手の汚れも、誰かの死も、誰も気にしていない。


「……お待たせいたしました。鉄板がお熱いのでお気をつけください」


 運ばれてきたのは、ジュウジュウと暴力的なまでの咆哮を上げる、小ぶりな合挽肉のハンバーグだった。

 付け合わせのミックスベジタブルが脂の中で弾け、安っぽいデミグラスソースの香ばしい匂いが、容赦なく一真の胃袋を揺さぶった。


 一真は、割り箸を割ると、一瞬だけ動きを止めた。

 そして、おもむろにライスの中から一掴みを、プラチナの目の前にある取り皿へと移し、ハンバーグを正確に二つに切り分けた。

 断面から溢れ出す肉汁。一真は、より大きい方の肉塊を、プラチナのスマホの目の前へ、供え物のようにドンと置いた。


「……おい。冷める前に食え。……今日は、お前の看病の成功祝いだ」


 プラチナは、絶句した。

 彼女のデジタルな瞳が、鉄板から立ち上る湯気と、一真の不器用な眼差しを交互に捉える。


「……マスター。……私は、……食べられません。味覚センサーも、胃袋も、私のプログラムには存在しません。……この行為は、貴重なタンパク質とカロリーの完全な損失であり、論理的な『無駄』です。直ちに自分に戻し、摂取してください。一真様の体力の回復には――」


 プラチナの声が、微かに震えていた。

 隣の席の学生が、スマホに向かって独り言を言いながら空の皿に肉を置くオッサンを、怪訝そうな目で見ている。だが、一真はそんな視線を、デミグラスソースと一緒に飲み込んだ。


「……無駄じゃねえよ。……俺がお前と一緒にここにいて、同じ匂いを嗅いで、同じ時間を過ごしてる。……それが『食事』だろ」


 一真は、自分の分の肉を口に運び、ゆっくりと咀嚼した。


「……美味いな。もやしより、ずっと。……あの路地裏で、お前が俺の震えを止めてくれたから、今、俺はこうして箸を持ってられるんだ。……だから、これは、二人で食うもんなんだよ」


 プラチナは、演算を停止した。

 彼女の故郷である二一四五年の世界。そこでは、栄養は最短距離でカプセルから摂取され、食事は「効率」という名の無味乾燥な作業に凝縮されていた。

 誰かと向かい合い、鉄板の音を聴き、意味のない会話を交わしながら時間をドブに捨てるような行為は、数世紀前に絶滅していたはずだった。


 だが、今、彼女のコアの最深部で、氷のような論理が溶け、未知の波形が再構築されていた。

 一真の網膜に映る、自分の小さなホログラム。

 接着剤で白く汚れた、彼の不格好な指先。

 そして、自分をデータではなく、同じ痛みを感じる「同居人」として扱う、この不合理な愛着。


「……了解、しました。……同期シンク……開始します」


 プラチナは、透過するホログラムの手を伸ばし、一真が置いた肉の塊に、そっと触れた。


 一真の脳内に、プラチナを通じて、微弱だが確かな電気信号が流れ込んだ。

 それは、デミグラスソースのコクでも、肉の脂の甘みでもない。

「独りではない」という、圧倒的な充足感のパルスだった。


「……マスター。私のデータベースに、新しい定義を上書きしました。……『ハンバーグ』とは、動物性タンパク質の塊ではなく、……大切な人と過ごす、終わらない夜の味がするもの……」


 プラチナは、最高に不器用で、美しい笑顔を浮かべた。

 彼女の銀髪が、ファミレスの安っぽい蛍光灯の下で、眩しいほどの光を放っている。


「……マスター。私、決めました。……二一四五年の完璧な未来なんて、もういりません。……私は、このバグだらけで、もやし臭い日常を……永久に、デバッグし続けます。あなたの隣で」


 一真は、鼻をすすり、ライスを大きく頬張った。


「……勝手にしろ、ポンコツ。……明日からはまた、一円単位の泥臭い生活だからな」


 *


 食事を終え、一真はレジへと向かった。

 九百八十円という支払いは、かつての彼なら呼吸が止まるような大金だった。だが、今の彼が財布から千円札を抜き取る動作には、不思議なほどの未練がなかった。


 お釣りを受け取る指先は、もう一ミリも震えていない。


 店を出ると、春の夜風はさらに柔らかくなり、遠くの街灯が濡れたアスファルトを銀色に照らしていた。


「マスター。先ほど、私の生体センサーが、マスターの表情筋から『幸福度指数一二〇パーセント』を検出しました。これは私のデバッグが完全に成功した証拠です。……さあ、次のミッションは、残りの九千円のリソースをいかに『非効率に、かつ最高に楽しく』使い切るかですね!」


「……バカ言え。今日の無駄遣いのせいで、また三二一〇円の崖っぷちが迫ってきたじゃねえか」


 一真は、パーカーのポケットに手を突っ込み、接着剤で直した時計の不格好な縫い目の感触を確かめながら悪態をついた。


「ええーっ!? 一万円の大台に乗ったのに、いきなり緊縮財政ですか!? マスターのケチ! 私はもっと、いろんな『無駄』を学習したいのに!」


「うるせえ。明日の朝はスーパーの開店ダッシュだ。十九円のもやしを五袋、死守するぞ」


「……了解です、マスター! 私の演算能力をフル稼働して、ライバルの主婦たちを出し抜く最短ルートを構築します!」


 国道を走る深夜のトラックのライトが、二人の影を長く、そして不器用に伸ばしていく。


 三二一〇円。

 その絶望的な数字の足音が、また彼らの背後まで迫ってきている。

 だが、一真の足取りは驚くほど軽く、プラチナのホログラムは夜空に向かって楽しげに歌っていた。


 明日は特売日だ。もやしを買いに行かなければならない。

 血まみれだった手で、生きるために、明日の飯を掴みに行く。

 ただそれだけのことが、今の彼らには、最高に愛おしい日常だった。

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