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スマホの中のプラチナ 〜底辺から始めるポンコツ未来AIの(に)お世話生活〜  作者: ひろボ


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第16話:裏路地のフラッシュバックと、質量のない手

 三月の終わり。


 海から吹き込む湿った春の風が、工事現場の剥き出しの鉄錆の匂いと、生ぬるいアスファルトの熱気をネットリとかき混ぜていた。


 新田一真は、砂埃でよれよれになった作業着姿で、いつものように「誘導」と書かれた赤いライト棒を気怠げに振っていた。

 数千円の余力ができたとはいえ、気を抜けばいつでもあの「三二一〇円の崖っぷち」に転落する。それが、日雇い労働者の乾いた日常だ。


 胸ポケットのスマホの画面の中では、プラチナが小さなホログラムの姿で腕組みをし、相変わらずの小言を並べ立てていた。


「……マスター、右腕の振角が規定値より三度ズレています! さらに、リズムがコンマ五秒遅れています! 効率的な交通整理には、一定のテンポと正確な角度が不可欠です。私のメトロノーム機能に合わせて、もっとキビキビと――」


「……うるせえよ。適当でいいんだ、車が止まればな。それに、昨日接着剤で直した長靴の中が蒸れて気持ち悪りぃんだよ」


 一真がそう毒づき、大きく欠伸を噛み殺した、まさにその瞬間だった。


 ――ガシャァァァン!!


 鼓膜を突き刺すような、金属パイプが崩落する強烈な衝突音。

 それに続いて、重い水を吸った砂袋が地面に叩きつけられたような、生々しく、そしてひどく鈍い音が現場に響き渡った。


「う、うわぁぁぁッ! 落ちた! 誰か、救急車呼べ!!」

「おい、しっかりしろ! 血が出てるぞ、息してんのか!?」


 一真から十メートルほど離れた、三階建ての足場の下。

 もうもうと舞い上がる土埃の中で、現場は一瞬にして阿鼻叫喚のパニックに陥った。ベテランの作業員でさえ腰を抜かして後ずさり、若い警備員に至ってはスマホを握りしめたまま完全にフリーズしている。


 だが。その狂騒と土埃を切り裂くように、一人の男が「音」もなく駆け寄った。


 新田一真だった。

 その瞳から、先ほどまでの気怠げな色は完全に消え去っていた。背筋は凍りつくほど真っ直ぐに伸び、その足運びには、砂利道を感じさせないほどの滑らかさと一切の無駄がない。


「……どけ。触るな! 首を絶対に動かすな!」


 一真の声は、現場の怒号と混乱を一瞬で制圧するほど低く、腹の底から響く、圧倒的な「現場指揮官」のそれだった。


「プラチナ、直ちに一一九番! 現場住所、三十代男性の高所転落、意識レベル低下、呼吸状態悪化と伝えろ! スピーカーホンにして俺の声を拾え!」


「了解! 通信プロトコル開始……一一九番、接続。……マスター、私のバイタルスキャンによれば、対象の生存確率は現時点で一二パーセントを下回って――」


「計算するな。……今、俺が『生かす』」


 一真は、鋭く散らばった鉄パイプを安全靴で蹴り飛ばし、広がりつつある赤黒い血溜まりの中に、迷いなく両膝をついた。そして、素手を真っ直ぐに血だまりの中へ突っ込む。


 かつてICU(集中治療室)で、死神の足音に怯えながら、二十四時間体制で命と向き合い続けてきた男。

 彼の脳内で、分厚い壁の奥に封印していた膨大な医療知識と経験則が、津波のように一気に覚醒し、体の隅々の神経へと行き渡っていく。


「気道確保。……クソッ、左胸の動きがおかしい。奇異呼吸あり。肋骨が複数いってる! 圧迫を開始する! おい、そこのアンタ、突っ立ってないで清潔なタオルと、背中に敷く固い板を持ってこい! 急げ!!」


 一真の指先は、一切の躊躇なく泥と血にまみれた首筋に触れ、脈の弱さを捉え、瞳孔の開き具合を確認し、骨折部位を瞬時に特定していく。

 激しい処置の動きに耐えきれず、昨日自分で必死に太い糸で縫い合わせた左手首の『不格好なスマートウォッチ』のベルトが、ギリッと音を立てて大きくズレた。


 隠していたはずの、一真の左手首の赤黒い火傷の痕が、無惨に白日の下に晒される。

 だが、今の一真にとって、自分の過去の醜い傷跡が周囲の目に触れることなど、路傍の石以下のどうでもいいことだった。


 その淀みない動きは、もはや日雇いの警備員ではない。

 数多の命の瀬戸際を渡り歩き、血の海の中で戦い続けてきた、熟練の「救急のプロフェッショナル」そのものだった。


 救急車が到着するまでの、永遠にも似たわずか数分間。

 一真はたった一人で、絶望的な状況にある男のバイタルを、強引に力ずくで繋ぎ止めていた。出血点を素手で強く押さえ込み、陥没した胸部を絶妙な力加減で圧迫して呼吸を補助し、ショック状態に陥るのを水際で防ぐ。


 両手は、流れ出る他人の温かい血で、べっとりと、肘のあたりまで赤く染まっていた。


「……死なせねえ。……勝手に、逝かせるもんか」


 やがて、遠くから近づいてきたサイレンの音が現場に到着した時。

 一真は最後の状況確認を終え、駆け寄ってきた救急隊員に対し、現場の空気を切り裂くような、一切の澱みない口調で状況を申し送った。


「転落直後の意識レベルJCS三百、現在は二百で推移。呼吸数二十八、脈拍百一。左肋骨の多発骨折によるフレイルチェストの疑い。腹部膨満あり、内臓破裂の可能性大です。骨盤骨折の疑いもあるため、バックボードでの全脊柱固定を優先してください。……あとは、頼みます」


 救急隊員たちは、一介の薄汚れた警備員から発せられた、その完璧すぎる初期対応と専門的な申し送りに一瞬だけ驚愕の目を向けた。だが、すぐに一真の「プロとしての凄み」を察し、無言で頷くと、即座に負傷者をストレッチャーに収容し、サイレンを鳴らして去っていった。


 現場に残された作業員たちは、血まみれの両手をぶら下げて立ち尽くす一真を、まるで得体の知れない怪物でも見るかのように、声もなく呆然と見つめていた。


「……新田さん、あんた、一体……」


 現場監督が、恐る恐る声をかける。

 だが、一真はその声に答える余裕すら、今の彼には一ミリも残されていなかった。

 彼は足元に落ちていた、血に染まったライト棒を拾い上げようとして力なく空振りし、そのまま、糸の切れた操り人形のような、ふらつく足取りで現場に背を向けた。


 そして、誰の目にもつかない、重く湿った薄暗い路地裏へと滑り込んだ。


 *


「……う、……っ、……おえぇっ!!」


 苔むしたコンクリートの壁に手をついた瞬間、一真の胃袋が限界を迎え、激しく嘔吐した。

 今朝食べたわずかな「十九円のもやし」の残骸をすべて吐き出し、それでも胃液を絞り出すように嗚咽が止まらない。


 冷汗が滝のように流れ落ち、視界が泥水に沈んだようにぐにゃりと歪む。

 脳裏をよぎるのは、たった今やり遂げた「救助の成功」という歓喜ではない。


 鉄の匂い。血の匂い。

 かつて自分が真っ白な白衣を着ていた頃。その手の中で、あるいは無機質な電子音を鳴らすモニターの向こう側で、砂のようにこぼれ落ちていった、無数の命の記憶だった。


(……助けられなかった。……あの夜も、あいつの手も、あの子の小さな体温も……俺の手は、いつも血で汚れて……結局、誰も、誰も救えなくて……!)


 一真は、壁から手を離し、自分の両手を見た。

 そこには、べっとりと他人の血がこびりつき、自分でも信じられないほど、ガタガタと激しく震える「手」があった。


「……あ、……あ、あぁ……」


 歯の根が合わず、ガチガチと音が鳴る。

 血の匂いを嗅いだ瞬間、彼の「日雇いの新田一真」という数年間かけて築き上げた人格の防壁は脆くも崩れ去り、再びあの地獄のような、病院の冷たくて白い廊下へと強制的に引き戻されていた。

 ヒュー、ヒューと過呼吸気味になり、膝の力が抜け、その場にずるずると座り込む。


 胸ポケットのスマホの画面の中で、プラチナは絶句していた。

 彼女の高性能な生体センサーは、一真のバイタルが生命の危機レベルでレッドゾーンを振り切っていることを、けたたましい警告音と共に告げていた。

 異常な心拍数、ストレスホルモンの致死的な分泌、極度のパニック発作。


 プラチナは、自らの演算能力のすべてを回し、必死にデータベースを検索した。

 未来のメンタルケア・プログラム、心理学の論文、カウンセリングの最適な定型文。

 だが、どれほど検索して演算を繰り返しても、今目の前で、血の混じった泥を握りしめ、過去の亡霊に怯えて壊れた子供のように震えて蹲っている「この一人の男」を救うための言葉が、未来のどこにも見つからない。


 データにはないのだ。

 たった今、完璧な処置で命を救ったはずの人間が、なぜ裏路地でこれほどまでに惨めに震え、自分自身を責め立てているのか。その矛盾を、冷たい論理では絶対に説明できない。


「……お兄ちゃん」


 プラチナは、検索と演算を、完全に停止させた。

 彼女は、AIとしての「効率」と「正解」を、自らの意志でゴミ箱に放り込んだ。


 スマホの画面から、バッテリーの限界を無視した最大出力で、プラチナのホログラムが飛び出す。

 銀色の髪をなびかせ、彼女は、血と泥にまみれた、一真の醜く震える両手の前に、ふわりと降り立った。


「……お兄ちゃん。……聞こえますか」


 プラチナは、その小さな、半透明に透過するホログラムの両手を広げた。

 彼女はデータだ。物理的な質量などない。一真の震えを、力づくで抱きしめて止めることなど、彼女には一生できない。


 それでも、彼女は、一真のガタガタと鳴る血まみれの拳を、包み込むようにそっと自分の両手を重ねた。


「……マスター。……私のデータには、マスターが今なぜそんなに苦しんでいるのか、分かりません。……過去に何があったのか、どうすれば正解なのかも、計算できません。……でも、一つだけ確かな事実があります。……マスターのその震える手は今日、一人の人間の心臓を、もう一度動かしました」


 プラチナの声は、合成音とは思えないほど掠れて、優しかった。


「……お疲れ様です、お兄ちゃん。……もう、いいんですよ。……ここは、あの冷たい病院じゃない。……あなたはただの、私の不器用で、ちょっと乱暴な、大好きな新田一真なんですから」


「……あ、……ぁ……、……プラ……チナ……」


 一真の、酸素を求めるように荒かった呼吸が、少しずつ、少しずつ整い始める。

 物理的な接触はないはずなのに。質量のないはずのホログラムの手から、なぜか、焼け付くような一真の心を冷まし、温めてくれる不思議な「温度」が伝わってくる気がした。


 震えが、ゆっくりと収まっていく。

 一真は、苔むした壁に背中を預け、深く、深く息を吐き出した。

 血に汚れた手を見つめ、それから、自分の目の前で、バッテリーの消耗でノイズを走らせながらも懸命に微笑んでいる、銀髪の少女を見た。


「……プラチナ。……お前、……バカだろ。……ホログラムの出力上げすぎて、お前の輪郭、透けてノイズまみれになってんぞ。電池、切れそうだ」


「むぅ! ……マスターを正常化するためなら、予備バッテリーの一本や二本、安いものです。……ほら、残高にはまだ数千円の余力があるんですから、帰りにコンビニで乾電池式の充電器でも買えばいいんです!」


「……買わねえよ。……もったいねえだろ。……帰って、アパートのコンセントで充電しろ」


 一真は、震えの止まった手で顔の汗を拭い、ゆっくりと立ち上がった。

 ズレていた左手首のスマートウォッチを直し、火傷の痕を再び隠す。けれど、その動作には、先ほどまでの「過去の傷から逃げる」ような、切羽詰まった強迫観念はなくなっていた。


 一真の脳裏には、先ほどの負傷した男の顔が焼き付いていた。

 血の気のない唇、弱々しい脈動。救急車の中で、彼は今頃どうしているだろうか。


 かつての一真なら、その後の経過を数字で追い、生存確率というフィルターを通してのみ、その命を評価していただろう。

 だが、今は違う。自分の手が血で汚れようとも、長靴が泥にまみれようとも、そしてトラウマに吐き気を催そうとも。あの男が再び呼吸し、誰かのもとへ帰るかもしれないという「泥臭い事実」そのものが、痛いほど重く、愛おしく感じられた。


「……マスター。……私の記録によれば、今回の救命処置による金銭的な特別報酬は一円も発生しません。……ですが、一真様の表情筋は、商店街で百円の長靴を買った時よりも遥かに『柔らかい』動きをしています。……非論理的な、けれど最高に強固なリカバリです」


「……報酬なら、もう貰ったよ。……あいつの、生きようとする体温だ」


 一真は、不器用に自分の胸元に触れた。そこにはまだ、先ほどの男の生命力が、熱となって残っている気がした。


 プラチナは、ホログラムのまま一真の隣を歩き、時折画面をチラつかせながらも、その銀色の瞳で周囲を警戒していた。

 一真が二度と、あの裏路地の暗いフラッシュバックに飲み込まれないように。


「……一真様。二一四五年の世界では、医療は完全に機械化され、人間が血を流すことも、その血に触れてトラウマに震えることもありませんでした。……でも、……そこには、誰かを助けて手が震えるほどの、この不器用な電気信号もなかった」


 プラチナは、透けかけたホログラムの腕を、一真の歩幅に合わせて大きく振った。


「……私は、……この世界の『震え』が、好きです」


 プラチナの声が、夕暮れが近づく春の風に溶けていく。

 一真は、血のついた手をパーカーのポケットにねじ込んだ。そこには、先日もらったポケットティッシュの残りと、スマホの画面の中で自分の魂の半分を預けた相棒がいる。


「……プラチナ。……帰ったら、飯にするぞ。……今日は俺が、最高に泥臭いもやし粥を作ってやる」


「了解です、マスター! ……あ、マスター。その前に、お願いがあります」


「なんだよ」


「……その手、早く洗ってください。……私の生体センサーが、血の匂いを検知してアラートを鳴らしっぱなしで、うるさくて仕方ないんです」


「……わかったよ。……公園の水道で洗って帰る」


 二人の笑い声が、オレンジ色に染まり始めた街へと消えていく。

 一真の手の震えは、もう完全に止まっていた。その手は、明日また誰かのために、泥にまみれる準備を静かに始めていた。

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