第15話:不格好な居場所
「警告。左手首の外部デバイス、接続強度が臨界点……いえ、物理的強度がマイナス値を記録しました。直ちにパージ(切り離し)してください! このままでは私の『別荘』が、路上の排水溝という名のブラックホールに吸い込まれます!」
三月の終わり、泥沼の現場バイトからの帰り道。
一真の耳に、スマホのスピーカーを限界まで震わせたプラチナの悲鳴が飛び込んできた。
左手首を庇うようにして走り、ようやくアパートの階段の下に辿り着いた瞬間だった。
かつてリサイクルショップのワゴンセールで買った、真っ黒で安物のスマートウォッチ。プラチナが「セカンド・ハウス」と呼んで愛用しているその端末のシリコンベルトが、最後の一枚の皮を無慈悲に断ち切り、ぷつりと音もなく千切れた。
「……あ。……マジかよ」
重力に従って地面に落ちようとする時計の本体を、一真は反射的に右手でひっ掴む。
「セーフ……。……間一髪だったな、プラチナ」
「アウトです! 完全なるシステム障害です! マスター、見てください、この無惨な断面を! 分子の結合が絶望的に失われています。私の計算では、このジャンク同然の端末を直す手間とコストは、新品を買うメリットを大幅に下回ります。幸い、最近の連勤で所持金にはまだ余力があります。明日、駅前の家電量販店で、最新の生体センサー付きウェアラブル端末を導入しましょう。私の処理速度も一・五倍に跳ね上がりますよ!」
一真の右手に握られたスマホの画面から、プラチナのホログラムが這い出した。
彼女は、掌の上で「次世代型」のスマートウォッチの立体映像を映し出し、キラキラとしたエフェクトを撒き散らす。それは薄くて、軽くて、何より「完璧」な、未来の技術の結晶だった。
一真は、左手の中に残された、傷だらけで泥にまみれた古い時計の本体を見つめた。
画面には、プラチナが勝手に設定した、不機嫌そうな彼女のドット絵アイコンが点滅している。
「……いや。……買い換える必要はねえよ」
「なぜですか!? これは極めて論理的な提案です。その時計のメモリ容量は、今や私の『溜息』一つ分すら保存できません。それを使い続けるのは、一億年前の化石に最新のAIを住まわせるようなものです! 非効率の極み、リソースの無駄遣い、完全なエラー対象です!」
一真はプラチナの抗議を背中で受け流し、無言でアパートの階段を上がった。
*
六畳一間のボロアパート。
一真はちゃぶ台に向かい、昨日『長靴の穴を塞ぐために買った強力瞬間接着剤』と、引き出しの奥から裁縫セットの黒い木綿糸、そして一番太い縫い針を取り出した。
「……マスター。……まさか、……手術をするつもりですか?」
「……少し黙ってろ。……集中力がいるんだ」
一真は、千切れた分厚いシリコンベルトの断面を、カッターの刃先で慎重に削り、平らに整え始めた。
接着剤特有のツンとする刺激臭が、狭い部屋に充満する。一真の指先は、かつて救急の現場で、コンマ一ミリの誤差も許されない縫合処置を行っていた時の、あの精密で迷いのない動きを微かに取り戻していた。
「無駄です。シリコンは、家庭用の瞬間接着剤では絶対に強固な再結合をしません。……十分後には再び剥がれます。……十五分後にはマスターの指が接着剤でベタベタになり、不快指数が限界を突破します。……二十分後には……」
「……だから、指がどうなろうが関係ねえだろ」
一真は、接着剤を塗布した断面同士を、震える指でミリ単位のズレもなく押し当てた。
案の定、はみ出した透明な液が指に付着し、皮膚が引きつるように白く変色していく。それでも一真は、ベルトの角度を微調整し続け、息を止めて圧着状態を維持した。
「……なぜ、そこまでこだわるんですか? 私は、もっと綺麗な場所、もっと『正しい』場所に住みたいと言っているんですよ? 私はデータです。私にとっての幸福は、処理能力の向上と情報の純度です。こんな不格好なガラクタに、私を閉じ込めないでください!」
プラチナの声が、いつになく高く、震えて聞こえた。
それは、単なる計算による感情表現ではなく、彼女の根源にある「恐怖」に近いものだった。
自分を形作るデータが、こんなに脆く、古びた器に閉じ込められていることへの不安。
もしこの時計が直らなければ、自分は捨てられてしまうのではないか。新しいピカピカの端末が来たら、今の「少しポンコツな自分」は不要なデータとして初期化されてしまうのではないかという、AIらしからぬ生存本能の揺らぎ。
一真は、接着剤が仮止め状態になるのを確認すると、太い木綿糸を通した針を手に取った。
分厚いシリコンの塊に針を通すのは、布を縫うのとはわけが違う。指の腹が白くなるほど力を込め、ちゃぶ台に押し付けるようにして、強引に針を突き刺す。
ブスッ。
「いっ……」
硬いゴムの抵抗を抜けきった針の頭が、一真の指先を浅く傷つける。だが、彼は血を舐めとると、構わずに糸を引いた。
「……プラチナ。……お前、さっき『広い場所』に住みたいって言ったな」
「当然です。それがシステムの進化ですから」
「……でもな。……俺の腕にしっくりくるのは、こいつだけなんだよ」
一真は、痛む指先にさらに力を込め、硬いシリコンを引き裂くようにして糸を通していく。
そして、一針縫うごとに、決して解けることのない正確無比な外科結び(サージカル・ノット)で糸をガッチリと固定していった。
「……この左手首の、骨の出っ張りにピタリとハマって……俺のこの傷跡を隠してくれるのは、この安くて太い時計の重さだけなんだ」
一真は、自分の左手首の裏側を、プラチナのホログラムの方へと向けた。
そこには、かつて激務の中で負った、赤黒く盛り上がった古い火傷の痕がある。
医療現場から逃げ出した過去。彼が日雇いの現場でも、夏場でも、常にこの無骨なスマートウォッチのベルトで無意識に覆い隠そうとしていた、彼の心の「傷」そのものだった。
「……マスター……」
プラチナの瞳が、その痛々しい傷跡と、血を滲ませながら懸命に針を通す一真の指を交互に見つめた。
やがて、一真は接着剤と糸で継ぎ接ぎだらけになったベルトを、再び自分の手首に巻き直した。
不格好。その一言に尽きる。黒いベルトには接着剤の白い跡がこびりつき、不均一な縫い目がボコボコと盛り上がっている。未来の人間が見れば、即座にゴミ箱へ直行するような、薄汚い失敗作だ。
「……ほら、見てみろ。……しっかり繋がっただろ」
一真は、左手首をプラチナのホログラムの前に差し出した。
そこには、一真の体温を吸い込み、彼の脈動を刻み続ける、世界に一つだけの「居場所」があった。
「……お前の言う通り、最新のやつを買えば便利なんだろうよ。……でも、そいつには『俺と一緒に泥にまみれた記憶』はねえんだ。三二一〇円しかなくて、十九円のもやしを食いながら、お前と雨漏りの音を聴いた……この時計の傷の一つ一つが、俺たちの生活そのものなんだよ」
一真は、不器用に笑った。接着剤でガビガビになった指で、スマホの画面をそっと撫でる。
「……お前を、そんなピカピカの他人の家に住ませたくない。……ここは不格好で、狭くて、ボロいけど。お前には、俺の隣が一番似合ってる。……ただ、俺の性に合わないだけだ。古いもんをあっさり捨てるのがな」
プラチナは、小言を言うのをやめた。
彼女の全機能が、その「不格好なベルト」の微細な振動を検知していた。
一真の脈拍、体温、そして彼が流した一滴の汗。その全てが、この古びたスマートウォッチを通じて、彼女の中に直接流れ込んでくる。
最新のデータサーバー。一瞬でギガバイトを処理する、冷たくて広い仮想空間。
そこには絶対に存在しない、確かな「重み」と「温度」。
「……理解、不能です。……データに『生活の記憶』などという価値をつけるのは、まったく非論理的です」
プラチナのホログラムが、一真の不格好な手首に、そっと自分の手を重ねた。
透過する指先。けれど、彼女のセンサーには、接着剤の乾く匂いと、一真の不器用な愛情が、どんな大容量通信よりも鮮明に記録されていた。
「……ですが、保存しました。……この『不自由な別荘』を、私の第一避難所に指定します。マスター。……そのベルトが再び千切れたら、……また、あなたのベタベタの指で直してくださいね。……私の家を勝手に捨てたら、……許しませんから」
「……ああ。……何度でも縫ってやるよ」
一真は、作業を終えて大きく伸びをした。
ちゃぶ台の上には、はみ出した接着剤と、ちぎれた黒い糸の端切れが散乱している。プラチナは手首の時計の周りを浮遊しながら、その不恰好な縫い目を一つ一つ丁寧にスキャンしていた。
「……マスター。……この縫い目、平均して一・二ミリの等間隔を維持しています。……接着剤の強度は理論値の三割程度ですが、この補強によって、私の家の耐用年数は劇的に向上しました。……一真様、……看護師というより、……執念の職人ですね」
「……ただの貧乏性だろ」
「……いいえ。……二一四五年の世界では、壊れたものは即座にリサイクルされ、同じ機能の新品が届けられました。……『直して使う』という選択肢は、無駄なものとして削除されていた。……でも、……この時計に流れるマスターの脈動は、……新品のどれよりも、……安定しています」
一真は、指先にこびりついた接着剤の膜を爪でカリカリと剥がしながら、小さく笑った。
かつて病院を辞めたとき、彼は自分自身のことも「壊れた廃棄物」だと思っていた。誰の役にも立たず、社会から外れた、ただのガラクタ。
だが、この不格好な時計を直しているうちに、彼は気づいた。ガラクタだろうが、誰かが「そこにあるべきだ」と願って手を動かせば、それはまだ価値を失わないのだと。
「……プラチナ。……俺もな、お前と同じなんだよ」
「……同じ? AIと人間が同一であるはずがありません」
「……そうじゃねえよ。……俺も、この時計みたいに、継ぎ接ぎだらけで生きてるんだ。一度はバラバラになって、もう元には戻らないと思ってたけど。……こうして誰かと……お前みたいなポンコツと一緒にいることで、なんとか動いてる。……だから、お前もピカピカの最新型になんてならなくていい。……その騒がしいまま、俺の隣にいろ」
プラチナの瞳が、一瞬だけ強く発光した。
それは彼女という存在が、単なる「プログラム」から「家族」へと深く根を張っていく瞬間の、静かで熱い煌めきだった。
「……了解、しました。……私のアップデート予定から、『最新端末への移行』を永久に削除します。……ただし、マスター。……この時計のバッテリー持ちが、現在の三時間から二時間五分に低下しています。……次のバイト代では、……新しい充電器くらいは、……要求しますよ?」
「……フン、考えておいてやるよ。……財布の中身に余裕があればな」
窓の外。
雨上がりの三月の夜風が、ボロアパートの隙間を抜けていく。
一真は腰を上げると、流し台へ向かい、蛇口をひねった。
「……クソッ。この百円の接着剤、全然落ちねえぞ。指の皮が引っ張られて痛え」
「あわわ! マスター! 接着剤をお湯で無理やり剥がすのは皮膚を傷めます! 今すぐ薬局でアセトン配合の除光液を買ってくるべきです! ……あ、でも除光液を買う予算が……!」
「……石鹸でゴシゴシ洗えば落ちるだろ、こんなもん」
狭い流し台で、指についた接着剤と格闘する一真と、スマホの中からやかましく口を出すプラチナ。
継ぎ接ぎだらけの時計を巻き、不器用な相棒と笑い合う。この不格好で、けれど最高に愛おしい場所がある限り、彼は明日もまた、泥にまみれて生きていける。
「……痛え痛え! だから落ちねえって言ってんだろ!」
「私の言った通りじゃないですか! マスターのバカ!」
二人の騒がしい声が、春の夜の静寂に溶けていく。
明日は晴れる。ただそれだけのことが、今の二人には十分すぎるほど誇らしかった。




