第14話:特売の長靴と、雨上がりの虹
昨夜のけたたましい雨漏りのオーケストラは、明け方には静かな終止符を打っていた。
一真は、まだカビの匂いと湿り気の残る畳の上で目を覚ますと、昨日商店街の福引で手に入れた参加賞のポケットティッシュを抜き出し、病み上がりの鼻を盛大に噛んだ。
「マスター! 素晴らしいニュースです! 駅前のホームセンター『ギガ・マート』の開店セールで、完全防水の長靴が、驚異の『一足、百円』です! 限定五十足、早い者勝ちですよ! 私の予測では、今すぐ出発すれば九割以上の確率で手に入ります!」
ちゃぶ台のスマホから飛び出したプラチナのホログラムが、防災ヘルメットを脱ぎ捨て、今度は勝利のファンファーレを奏でるトランペットを構えて大はしゃぎしている。
「……百円か。どうせ、数回履いたら水が染みてくる安物だろ」
一真は、昨夜の雨漏りで水を並々とうけていた鍋や洗面器を、キッチンのシンクへ片付けながら気怠げに返した。嵐の爪痕でアパートの屋根は瀕死の状態だ。部屋の中に水が落ちてくる生活で、足元だけ防水したところで大差はない気がした。
「むぅ! 侮ることなかれ、マスター! 二一四五年の世界では、長靴なんて古めかしい概念は消えていましたが、この時代のアナログなゴム製品も、泥を弾く装備としては極めて優秀です! さあ、出発です! 私たちの新しい装備をゲットしに!」
結局、一真はプラチナの無駄な熱量に押し切られる形で、接着剤で鼻緒を強引にくっつけた不格好なサンダルを突っかけ、外へ出た。
嵐が去った後の空は不気味なまでに澄み渡り、アスファルトの水たまりが、春の強い日差しを跳ね返して眩しいほどに輝いていた。
*
『ギガ・マート』の特設会場には、プラチナの予測通り、特売の長靴を求める老人たちの執念じみた列ができていた。
一真は、プラチナの「一分前方、列の動きが鈍化! 右側の隙間を狙いましょう!」という必死なナビゲーションに従い、どうにか最後尾に滑り込むことができた。
だが。一真の順番が来た時、ワゴンの上に残されていたのは、鮮やかなドピンク色のものと、そして――。
「……マスター。……これ、ダメなやつです。……完全にエラーです」
イヤホン越しのプラチナの声から、いつもの元気がスッと消えた。
ワゴンの隅にぽつんと残っていた、最後の黒い長靴。その左足の甲の部分には、鋭利な刃物かワイヤーで引っ掛けたような、小さな、けれどもしっかりとした『裂け目』が入っていた。
「はい、お兄さん最後ね! それ、訳あり品だから百円なの。雨が降ったらそこから水が入ってくるから、承知で買ってね!」
レジのオバチャンが、申し訳なさそうに、けれどもしっかりと釘を刺して透明な袋に詰める。
「不当です! 詐欺です! マスター、抗議してください! 最初から穴が空いているなんて、不良品にも程があります! こんなジャンク、返品です!」
プラチナがスマホの中でじたばたと暴れ、パーカーのポケットの中でジジジとバイブレーションを鳴らす。
「……うるせえな。返品したところで、百円が返ってくるだけだ。並んだ俺の時間がムダになる」
一真は、袋の中の穴の空いた長靴を、じっと見つめた。
三二一〇円の崖っぷち。一円の無駄遣いも許されない生活。
穴の空いた長靴。和牛を透視して当てようとするような「インチキな勝利」などない。これが、自分の運のなさが引き寄せた、ただの泥臭い現実だ。
「……直せば、使えるだろ」
一真は踵を返し、店舗の奥にある工具コーナーへと歩き出した。彼の目は、棚に並んだ一本の小さな『強力瞬間接着剤』に向けられていた。
「マスター。理解できません。百円の長靴を、百円の接着剤で直す。……コストは二百円。その接着剤で直したところで、ゴムの強度は元には戻りません。最初から別の店でまともなのを買った方が……」
「……計算の話じゃねえよ。いいか、よく聞け」
一真は百円の接着剤を手に取り、無表情のままレジへと向かった。
「……もし、俺がこの百円をケチって、穴の空いたままの長靴で現場に行けばどうなる。泥水が入り込んで、足が濡れる。病み上がりの体に冷えが回って、風邪がぶり返す。……そうなったら、薬代や何日も働けなくなる損害は、たかだか二百円じゃ済まねえだろ」
「……ハッ。……行動の見た目は非効率ですが、リスク管理としては……筋が通っています」
「それに、俺は」
一真は、百円の接着剤を財布の奥の、小銭入れの隣にねじ込んだ。
「壊れてるもんを、そのまま放り出しておくのが、どうにも気分が悪いんだよ」
壊れたものを、そのままにしておけない。
それは、医療現場で救えなかった命への、彼自身の、決して消えることのない罪滅ぼしのようなものだった。
*
翌日。一真は、接着剤で穴を塞いだ長靴を履き、泥沼と化した隣町の解体現場に立っていた。
一昨日の嵐は、アパートを雨漏りさせただけではない。現場の地盤を水分の逃げ場がないドロドロの沼に変え、作業の難易度を極限まで跳ね上げていた。
「新田さん、悪いけど、その長靴で奥の泥の中にある鉄筋の端材を回収してきてくれる? 接着剤で直したんだろ? 頼むよ、こっちは泥まみれになりたくないからさ」
現場監督が、一真の不格好に白く接着剤の跡が残った長靴を眺めながら、自分は綺麗な安全靴を履いたまま泥沼の中央を指差した。
九千円の日銭。これがあれば、プラチナにいつか約束した「新しい充電器」を買ってやれるかもしれない。
「……了解しました」
一真は、覚悟を決めて泥沼の中へと踏み込んだ。
――ズブッ。
重く冷たい泥が、長靴のくるぶしまで一気に包み込む。強烈な泥の重圧と粘り気が、接着剤の縫合部分に容赦なく襲いかかる。
「マスター! 左足の接着部分に、すごい負荷がかかっています! 染みてきてませんか? 大丈夫ですか!? 耐久限界まであと……マスター、急いで!」
「……わかってるよ!」
一真はプラチナの警告を背負いながら、泥の山をかき分け、鉄筋の束へと向かった。
足を取られるたび、接着部分がピキピキと小さな悲鳴を上げる。一真はかつて、患者の点滴の漏れを指先で探った時のように、足の甲の「温度変化」に神経を研ぎ澄ませた。
冷たい水が入り込めば終わりだ。だが、百円の接着剤は、泥の圧力に必死で耐えていた。
一真は、泥に半分埋まった錆びた鉄筋を両手で掴み、力任せに引き抜いた。ズボァッ、と泥が跳ねた瞬間、足元の地盤が崩れ、大きくバランスを崩す。
「あぶない!」
咄嗟に転倒を防ごうと左手をついた場所には、剥き出しの鉄骨の角があった。
ガツッ、と骨に響くような鈍い衝撃が走り、一真の左手首に巻かれた『古いスマートウォッチ』を直撃した。
「ひぎゃあぁっ!? マスター! 痛い! 私の別荘が! 左手首のデバイスに致命的なダメージです! ベルトが、ベルトが千切れますぅ!」
「……クソッ、……うるせえポンコツ! 今、手が離せるかよ……!」
一真は激痛に顔をしかめながら、泥まみれの鉄筋を担ぎ上げた。
プラチナの「セカンド・ハウス」であり、一真の醜い火傷の痕を隠している安物のスマートウォッチ。その黒いシリコンベルトに、深い亀裂が走った。
泥、水気、そして長年の酷使。限界だったところに最後の一撃が加わったのだ。千切れる寸前のベルトが、一真の手首を締め付けるように震えている。
一真は泥沼から這い上がり、鉄筋を置き場へ乱暴に投げ出した。息が上がり、心臓が早鐘のように打っている。
手元に残ったのは、接着剤でどうにか浸水を防ぎきった、泥まみれの長靴。
そして、今にも千切れそうなスマートウォッチだった。
*
過酷な労働を終え、へとへとになった体を引きずり、一真はアパートへの帰り道を歩いていた。
雨上がりの夕暮れ。ふと顔を上げると、オレンジ色に染まり始めた空に、巨大な虹がアーチを描いていた。
「……マスター。虹です。大気中の水滴が太陽光を反射して……。……あ、でも、ここの虹、なんだかすごく明るいですね。……綺麗です」
スマホの中から、プラチナが少しだけ声を弾ませた。彼女のレンズが、虹の景色をこっそり最高解像度で保存しているのを一真は知っていた。
「……泥まみれになった後の、ご褒美みたいなもんだ」
一真は、泥だらけになった長靴を鳴らしながら、小さく笑った。
ピキッ。
その時、左手首で最後通告のような嫌な音がした。
スマートウォッチのベルトが、いよいよ皮一枚で繋がっているような状態まで裂けたのだ。
「……あ」
一真の足がピタリと止まる。
過去の自分を隠し、今のプラチナを支えている大切な相棒が、寿命を迎えようとしていた。
一真は、長靴を直すために買い、まだ中身が半分以上残っている『瞬間接着剤』の存在を思い出し、パーカーのポケット越しにその硬いチューブの感触を確かめた。
「……急いで帰るぞ、プラチナ」
「え? なぜですか、マスター。虹はまだ消えてないのに……」
「いいから、走るぞ!」
一真は、左手首の時計が落ちないように右手で強く押さえながら、夕闇の迫る街を駆け出した。
三二一〇円から始まった、ギリギリの生活。
壊れかけたものは、諦めるんじゃなく、接着剤で強引に繋ぎ止める。不格好でも、何度でも直して使う。
綺麗な虹のデータよりも、この泥臭い「半分残った接着剤」の方が、今の彼らには何倍も価値がある。
千切れそうな絆を真っ向から繋ぎ止めるため、一真は病み上がりの体に鞭を打ち、自分たちの「帰る場所」へと走り続けた。




