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スマホの中のプラチナ 〜底辺から始めるポンコツ未来AIの(に)お世話生活〜  作者: ひろボ


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第13話:雨漏りのオーケストラ

「警告。気圧の急激な低下を検知。発達した積乱雲の接近を確認しました。マスター、至急『浸水対策』を開始してください。……数日前の土砂降りで、このアパートの屋根は限界を超えています。現在の耐久力は、二一四五年の段ボールハウス以下です!」


 スマホの画面の中で、プラチナが防災ヘルメットのホログラムを被り、赤い誘導棒を振り回しながら慌ただしく指示を飛ばしていた。


 新田一真にった かずまは、昨日商店街の福引で当てた『参加賞のポケットティッシュ』で豪快に鼻をかむと、丸めた紙屑をゴミ箱に放り投げながら重い腰を上げた。


「……分かってるよ。この部屋、さっきからカビと湿布が混ざったような変な匂いがするんだ。どこかしらの建材が、完全に死にかけてる証拠だろ」


 病み上がりの体は、まだ鉛のように重い。だが、ここで立ち止まれば、カビの匂いは明日以降の生活を完全に浸食してくる。

 一真が立て付けの悪い窓を閉め、ガタつく鍵を力任せに押し込んだ直後だった。


 ど、という地響きのような雷鳴と共に、バケツをひっくり返したような春の豪雨がボロアパートを襲った。

 築四十年を超える建物の薄い壁が、猛烈な風圧で情けない悲鳴を上げる。窓ガラスがビリビリと震え、隙間から入り込んだ冷たい風が、一真の首筋を撫でた。


「マスター! 天井の北北西に歪みを検知! 水分が建材を貫通してきます! 三、二、一……」


 ポチャン。


 湿った音と共に、一真の万年床のすぐ横の畳に、最初の一滴が落ちた。

 それは、かつて一真がICU(集中治療室)で聞き続けてきた、点滴の滴下音に酷似していた。正確で、無機質で、逃げ場のないカウントダウン。


「……始まったか。プラチナ、バケツ持ってこい。……あ、お前には無理か」


「むぅ! 物理的に手伝えないことを煽るのは禁止です! ですが、私には未来のスーパーコンピュータをも凌駕する計算能力があります。マスター、雨漏りの軌道は風向きと屋根の劣化具合から完全に予測可能です。一番効率よく水を受け止める配置を算出しました。キッチンにある鍋を、私の指示通りに置いてください!」


 一真は台所から、焦げ付いた片手鍋とプラスチックの洗面器を持ってきた。

 最初は、ただの「作業」だった。ボロアパートに住む惨めさを再確認させられるような、虚しい浸水との戦い。


「……よし、そこです! 落下地点のど真ん中! これで被害は最小限に……ああっ!?」


 プラチナが勝利宣言をした瞬間。

 ヒュゴォォォ、と窓の隙間から強いすきま風が吹き込んだ。その風圧で、天井から落ちてきた水滴の軌道がフワリと曲がり、鍋の縁を掠めて無情にも畳にシミを作った。


「ば、馬鹿な!? 突風によるコンマ数ミリの軌道変化……! いえ、それだけじゃありません、天井の腐った木材が水分を不均一に吸って、落下ポイントが刻一刻とズレています! け、計算が追いつきません! マスター、鍋を三センチ右へ! いえ、やっぱり二センチ手前……あわわ、次が落ちてきます!」


「うるせえな、ちょっと黙ってろ」


 一真は、パニックを起こして画面の中で右往左往するプラチナを無視し、落ちてくる水滴の「間隔」と「風の強さ」をじっと観察した。

 そして、計算でも何でもなく、ただの気まぐれな感覚で、洗面器を無造作にスッとずらした。


 ポチャン。


 今度は見事に、洗面器のど真ん中で水滴が跳ねた。


「……なっ!? なぜですかマスター! 私の演算より早く、どうやって正確な落下地点を……!」


「……アナログな勘ってやつだ。数字ばっか追っかけてると、こういう『空気の流れ』が見えなくなるんだよ」


 一真は鼻で笑うと、その隣に使い古されたアルミのフライパンを置いた。

 ポチャン、ポチャン、カラン。

 洗面器とフライパン、そしてステンレスのボウル。それぞれ違う素材の器に水滴が落ちるたび、狭い部屋の中に奇妙な音が響き始めた。


「……なあ、プラチナ。これ、少し音がズレてねえか?」


「周波数のことですか? 当然です。容器の材質や深さ、水の溜まり具合によって、音の高さは変わります。……ただの耳障りな不協和音ですね」


「……いいじゃねえか。ただの雨漏りだと思うから、惨めで腹が立つんだ」


 一真は、床に胡座をかいて座り込み、膝を軽く叩いてリズムを取り始めた。


「……これは、オーケストラだと思えばいい」


 かつて病院で、死の淵にいる患者の心電図モニターの音を、一晩中聞き続けていた男。あの頃のピッ、ピッ、という規則正しい電子音は、命が消えるまでの無慈悲なカウントダウンだった。

 だが、今のこの不規則な音は違う。

 財布には四千円ちょっとしかなくても、風邪の病み上がりで体が重くても、隣には騒がしくて手のかかるAIがいる。そんな今の自分たちが生きている、泥臭くて温かい生活の鼓動だ。


「……マスター。……また、私の計算にない『無駄な遊び』を始めたのですね」


 プラチナのホログラムが、呆れたように息を吐き……そして、どこからか小さなタクト(指揮棒)を取り出した。


「……了解しました。……それならば、私の処理能力を『音楽的補完』に全振りします!」


 彼女はスマホのスピーカーを使い、雨漏りの音の隙間に、軽快な電子音をハミングのように重ね始めた。

 雨漏りがプラスチックの洗面器を叩く「ポチャン」というくぐもった低音がバスドラムになり、アルミのフライパンの「カン」という乾いた音がスネアドラムになる。

 そこへプラチナの、透明感のあるデジタル・スキャットが乗る。


「……ハハッ、悪くねえ。……お前、意外といい音出すな」


「当然です! 私は二一四五年の全ヒットチャートを学習済みですから! さあ、マスター、次はコーラスのパートです! 恥ずかしがらずに!」


 一真は、苦笑しながらも、低い声でベースラインのハミングを加えた。

 外では猛烈な嵐が吹き荒れ、アパートは今にも崩れそうな音を立てている。部屋の中は、あちこちに置かれた鍋や皿で足の踏み場もなく、薄暗い。

 客観的に見れば、それは極貧と不運のどん底にある、悲惨な光景だった。


 だが、二人の間には、未来のどんな高音質オーディオでも再現できない、馬鹿馬鹿しくて贅沢な「音楽」が流れていた。


「……ねえ、マスター」


 プラチナは、タクトを振りながら、少しだけ寂しそうに、けれどもしっかりとした声で続けた。


「……二一四五年の世界には、雨漏りなんてありませんでした。完璧な防水、完璧な空調、完璧な静寂。……でも、そこにはこの『オーケストラ』はなかったんです」


 プラチナの銀色の瞳が、画面越しに一真を真っ直ぐに見つめる。


「……不便なこと。……足りないこと。……それが、こんなに面白い音を生むなんて、どのデータにも載っていませんでした」


「……足りないから、何かで埋めたくなるんだよ。……最初から完璧だったら、俺とお前が出会う隙間もなかっただろ」


 一真は、リズムに合わせて指を鳴らした。

 雨漏りの音は、次第に激しさを増していく。水が溜まるにつれ、音の高さが少しずつ下がっていく。一真は、音が変わってリズムが崩れるたびに、鍋の水を流し台に捨て、また新しいコップや皿をセットする。


「……マスター。……私、今のこの『無駄な一秒』を、高解像度で保存しました。……たとえ明日、アパートが流されても、この曲だけは私の中から消えません」


「……流されるなよ、縁起でもねえ。……明日は晴れるさ」


 嵐の夜。

 六畳一間のボロアパートは、世界で一番小さなコンサートホールへと変わっていた。

 そこで奏でられるのは、不器用な二人のための、ささやかな行進曲だった。


 やがて、雨音が遠ざかり、雲の隙間から青白い月光が差し込み始めた時。

 部屋には、最後に一滴だけ落ちた「ポチャン」という音が、アンコールの余韻のように優しく響いた。


「……終わりましたね。マスター」


「……ああ。……いいライブだったよ、プラチナ」


 一真は、濡れた床を雑巾で拭きながら、満足そうに呟いた。

 スマホの画面の中で、プラチナはヘルメットを脱ぎ、銀色の髪を整えている。


「……さて。……ライブの後は、片付けだ。……お前は、明日の特売情報のチェックでもしてろ」


「了解です! ……マスター、明日は、この雨上がりを狙った『長靴の叩き売り』があるようです。……私たちの次の装備品、決まりましたね!」


 一真は、その言葉を聞きながら、ふと自分の右手を見た。

 かつて多くの命を救い、そして救えなかったその手は、今はただの古びた雑巾を握っている。だが、その指先には、まだ微かに雨漏りのリズムが残っていた。

 効率や成功といった、かつて自分を追い詰めた「正解」という名の呪縛。それが、この雨漏りの音と共に、少しずつ洗い流されていくのを感じていた。


「……マスター。……未来の私は、全ての答えを持っていました」


 唐突なプラチナの言葉に、一真は手を止めた。

 デジタルな瞳の奥で、光が明滅する。二一四五年の、清潔で、静かで、予定調和しかない世界。

 そこには、雨漏りの音に笑う人間も、全財産を計算してため息をつきながら、ティッシュをもらって喜ぶような男も存在しない。


「……でも、今の私は、一分先の一真様が何を言うかすら予測できません。天井の雨漏り一つ、計算通りにはいきません。……それが、とても……もどかしくて、そして心地よいんです」


 プラチナは、ホログラムの手をそっと一真の掌に重ねた。

 もちろん、物理的な感触はない。けれど、一真にはそこにある種の熱量を感じた気がした。それは、数日前に彼が風邪で倒れた時、彼を救った『偽物の体温』の延長線上にある、確かな意志だった。


「……だから、私はこれからも、一真様という一番予測不能な存在を見守り続けることに決めました。……四千円の残高がゼロになるその日まで、……あるいは、その先までも」


「……ふん。……なら、途中で電源落とすんじゃねえぞ。……俺のお節介は、一筋縄じゃいかねえからな」


 一真は、窓の外を見た。

 雨上がりの澄んだ空気の中に、街灯の光が反射し、アスファルトを銀色に濡らしている。

 明日への不安が完全に消えたわけではない。所持金が心細いことに変わりはない。けれど、一真の心には、嵐の前にはなかった、小さな確信が根付いていた。


「……さあ、寝るぞ。……ライブの後は、泥のように眠るのが礼儀だ」


「了解です! ……マスター、枕元にスマホを置いてください。……明日の朝、最高のファンファーレで、一真様を起こしてあげますから!」


「……ファンファーレは、一番小さい音で頼むぞ」


 部屋の古い常夜灯を消し、静寂の中に横たわる一真。

 かつての「明日が来るのが怖い」という疲労ではない。今は、心地よいライブを終えた後のような、充実した疲労感が彼を包んでいる。

 暗闇の中で、スマホの青いインジケーターが、規則正しく明滅している。


「……おやすみ、プラチナ」


「……おやすみなさい、マスター。……いい夢を、……もやしと雨漏り以外の夢を見てくださいね」


 月光が窓から差し込み、静かな寝息が、雨上がりの夜に溶けていった。

 明日は晴れる。ただそれだけのことが、今の二人にはとても嬉しかった。

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