第12話:商店街の福引と、ハズレのティッシュ
ズビッ。
六畳一間のボロアパートに、盛大な鼻をすする音が響いた。
「……マスター! 鼻腔内の粘膜炎症を確認! 昨日、私の冷却機能で熱は下がりましたが、鼻風邪の症状は続いています! すぐに横になってください!」
ちゃぶ台の上のスマホから、プラチナが眉を吊り上げて抗議する。
昨夜、自らが壊れる覚悟で一真の熱を冷ました彼女は、今朝からすっかり「過保護なナース」を気取っていた。
「……うるせえよ。熱は下がったんだ。これくらい、ただの生理現象だ」
新田一真は、ズビビッと再び鼻を鳴らしながら、よれよれのパーカーを羽織った。
体はまだ気だるいが、昨日の悪寒に比べれば羽が生えたように軽い。何より、彼の財布が休むことを許さなかった。
現在の所持金、四千三百円と少し。
昨日の現場で雨に降られて帰らされたため、予定していた収入はパァだ。ここで油断すれば、再びあの絶望的な底辺へ真っ逆さまに転落してしまう。
「それに、トイレットペーパーがもう底を尽きかけてる。ついでに、俺たちの命綱である『もやし』も補充しねえと、マジで干からびるぞ」
「むぅ……! 物資の枯渇は死活問題です。……了解しました。ですが、体力消費を抑えるため、本日は私の案内に一ミリの狂いもなく従ってくださいね! ムダ歩きは厳禁です!」
プラチナの小言をBGMに、一真はアパートの錆びついたドアを開けた。
昨日の土砂降りが嘘のように空は高く澄み、生暖かい南風が頬を撫でていった。
*
向かった先は、古びたアーケード商店街だった。
雨上がりの湿気と、八百屋に並んだ島野菜の青臭い匂い、惣菜屋から漂う揚げ油の香ばしさが混ざり合い、むせ返るような「生活の熱気」を放っている。
一真はプラチナの指示通り、一番安いトイレットペーパーを買い、スーパーで十九円のもやしを三袋カゴに放り込んだ。
レジで会計を済ませると、パートのオバチャンがピンク色の小さな紙切れをレシートと一緒に手渡してきた。
「……ん? なんだこれ」
「マスター。これは現在この商店街で開催されている『春の大感謝祭・福引補助券』です。五枚で一回、福引機を回せます」
プラチナの解説を聞きながら、一真は財布の中を探った。
そういえば、数日前に豚肉を買った時や、百円ショップでマグカップを買った時にも同じような紙切れを押し付けられていた。財布の隙間からくしゃくしゃになった補助券を引っ張り出すと、今日貰った一枚を合わせて、ちょうど五枚あった。
「……一回、回せるな」
「マスター! 商店街の掲示板を読み込みました! 特賞はなんと、『黒毛和牛・極上霜降り肉の詰め合わせ(一万五千円相当)』です! 一真様の食生活を劇的に改善する絶好のチャンスです!」
プラチナのホログラムが、スマホの中で「肉! 肉!」と書かれたうちわを振り回している。
「……特賞ねぇ。あんなの、最初から入ってねえんだよ。せいぜい五等のポケットティッシュか、良くて四等のうまい棒だろ」
一真は鼻をすすりながら、気怠げにアーケードの中央に設置された福引の特設会場へと足を向けた。
カランカランという鐘の音と、「はい、残念賞ねー!」というダミ声が響いている。列には、特賞の和牛を狙う主婦たちが血走った目で並んでいた。
一真は列の最後尾に並び、鼻水を啜りながら順番を待つ。
病み上がりの体に、この湿気と人混みは堪える。早く引いて、さっさと万年床に潜り込みたかった。
その時だった。
「――マスター! 朗報です!」
ポケットの中のスマホから、プラチナの興奮しきった声がイヤホンを通じて響いた。
「私のシステムの一部を使って、新しい機能のロックを解除しました! 名付けて、『物質透過』です!」
「……は? 透視?」
「はい! カメラと電磁波の反射率を計算することで、薄い木材やプラスチック程度なら、中身をスケルトン化して見ることが可能です!」
プラチナがドヤ顔で言い放つと同時に、一真の視界の端(ARディスプレイ上)に、目の前にある巨大な木製の福引機の「内部構造」が、ワイヤーフレームの透視図となって浮かび上がった。
「……マジかよ。中身が丸見えじゃねえか」
「ふふん! 驚くのはまだ早いです。内部にある数百個の玉の重心と摩擦を解析した結果……見つけました!」
透視図の中で、底の方に沈んでいる無数の白い玉に混じって、たった一つだけ、黄金色にハイライトされた玉が光って見えた。
「あれが特賞の『金色の玉』です! まだ誰にも引かれずに、底の方で眠っています!」
プラチナの言葉に、一真は息を呑んだ。
本当に、一万五千円相当の和牛が、あの木箱の中に眠っている。
三二一〇円の底辺生活の中で、日々もやしの値段に一喜一憂している一真にとって、それはあまりにも巨大な「誘惑」だった。
「一真様、よく聞いてください。私の完璧な計算によれば、現在の金色の玉の座標は、排出口から三十二センチ奥の右側です」
プラチナの指示が、早口で脳内に叩き込まれる。
「一真様の順番が来たら、取っ手を持ち、初速〇・八メートル毎秒でゆっくりと回し始めてください。そして、ちょうど『三回転半』のところで、手首のスナップを利かせてコンマ二秒だけ回転速度を上げます。そうすれば、他の白い玉を掻き分け、金色の玉が確実に出口へ誘導されます!」
画面の中で、プラチナが完璧な勝利の計算式を展開している。
あと数分で、俺の順番が来る。
言われた通りに回せば、特賞の和牛が手に入る。もやし炒めではなく、滴るような脂の乗った本物の肉が食える。
「……マスター。バイタルサインに迷いが見られます。なぜですか? 私の計算は完璧です。手首の角度まで、ARのガイドラインでアシストします。さあ、和牛をゲットして、私たちの食卓を豊かにするのです!」
一真の順番が来た。
福引の係のおじさんが、「はい、兄ちゃん。五枚だね。一回回して!」と愛想よく声をかけてくる。
一真は、福引機の木製の取っ手に、火傷の痕が残る右手をかけた。
視界には、プラチナが提示した【緑色の完璧なガイドライン】が、回すべき速度と角度を正確に示している。
この緑色の線の通りに動かせば、肉が手に入る。
誰にもバレない。システムを使って、最短距離で「正解」を掴み取るだけだ。
一真は、取っ手を握りしめたまま、小さく息を吸い込んだ。
ズビッ。
鼻の奥で、病み上がりの粘膜が不快な音を立てた。
(……俺は)
一真の脳裏に、かつてICUで働いていた時の光景がフラッシュバックした。
患者の顔を見ず、モニターの数字だけを見ていたあの日々。
生存確率という「データ」だけを信じ、救えないと分かった命を効率的に切り捨てていくことに、心を擦り減らしていた自分。
結果だけを求め、過程を排除し続けた結果、彼自身の心が完全に壊れ、病院から逃げ出すことになったのだ。
(……透視して、計算して、確実に当たりを引く。……そんなもん、あの時の無機質なモニターの数字を追っかけてるのと、何が違うんだ)
一真は、目を閉じた。
そして。
「……マスター! 三、二、一……今です! ガイドラインに従って……!!」
プラチナの声を、一真は完全に無視した。
ガラガラガラガラッ!!
一真は、手首のスナップも計算もすべて放り投げ、ただ無造作に、乱暴に取っ手を回した。
「あわわわわっ!? マ、マスター! 速すぎます! これでは……金色の玉が通り過ぎてしまいますぅ!!」
プラチナの絶叫が虚しく響く中、カラン、と乾いた音がして、一つの玉が受け皿に転がり落ちた。
一点の曇りもない、真っ白な玉だった。
「はいっ、白玉! 参加賞のポケットティッシュね! また商店街で買い物してよ、兄ちゃん!」
おじさんが、無地のポケットティッシュを一袋、一真の手のひらに乗せた。
「……ああ。どうも」
一真は、ティッシュをパーカーのポケットにねじ込むと、何事もなかったかのようにアーケードを歩き出した。
スマホの中では、プラチナが絶望のどん底に叩き落とされていた。
アーケードの外れまで来たところで、プラチナがスマホの画面から這い出し、ホログラムの姿で一真の目の前に立ち塞がった。
「なぜですか、マスター! なぜ自ら和牛を手放し、あんな数円の価値しかないティッシュを選んだのですか!? 私の計算は完璧だったのに!」
一真は立ち止まり、夕暮れに向けてオレンジ色に染まる空を仰いだ。
「……プラチナ。……お前の世界には、『ズル』って概念はないのか?」
「ズル……。目的を達成するために最適な手段を選ぶことは、未来では『誠実』と呼ばれます」
「……そうか。だがな、俺たちの世界じゃ、それをズルって呼ぶんだよ」
一真は、自分の右手のひらを見つめた。
日雇いで泥にまみれ、昨夜はプラチナの熱を冷ますために氷のように冷たくなった、不格好な手。
「……透視して、計算して、確実に当てる。……そんなもん、運試しでもなんでもねえ。ただの万引きと変わらねえよ」
「万引き……? 違います、私はただ、持てる技術を……」
「和牛は美味いだろうよ。……だがな、そんなインチキして手に入れた肉は、食っても味がしねえんだ」
一真の言葉は、静かだった。
「……俺が食いたいのは、俺が泥水啜って働いて、この手で選び取ったものだけだ。……結果だけをハッキングで盗み取るのは、俺が今まで歩いてきた、この底辺の道のりを、全部否定することになるんだよ」
プラチナは、言葉を失った。
彼女のデータベースにある「利益の最大化」という大原則が、一真の不器用な意地によって、真っ向から否定されていた。
「……利益よりも、自分の意地を優先する。……人間は、お腹が空いていれば、汚い手を使っても肉を欲しがる生物だと、記録にはあったのに」
「……記録を書き換えるんだな。……人間は、プライドだけで腹を膨らませることもできる、最高にアホな生き物なんだよ」
その時だった。
夕暮れの冷え込みのせいか、一真の鼻の奥が、強烈にムズムズと震えた。
「――ぶっ、ぇっくしょん!!」
豪快なクシャミが響き渡った。
一真の鼻から、とめどなく鼻水が垂れ落ちそうになる。
「あー、ヤベェ……」
一真は慌ててポケットに手を突っ込み、先ほど貰ったばかりの『参加賞のポケットティッシュ』を取り出した。
急いでビニールを破り、ズビズビと派手に鼻をかむ。
「……あー、助かった。……いいタイミングで手に入ったもんだ」
一真は鼻をかみ終えると、丸めたティッシュをゴミ箱に放り込み、ハハッ、と短く笑った。
「……ほらな、プラチナ。風邪気味の俺には、和牛じゃ鼻はかめねえだろ? ……今の俺に必要だったのは、和牛じゃなくて、こっちの方だったんだよ」
プラチナは、その一真の笑顔を、じっと見つめていた。
鼻をかむために使い切られる、白い紙切れ。
和牛に比べれば、価値は数千分の一。
けれど、一真が今、そのティッシュのおかげで「助かった」と笑ったその瞬間。
プラチナのセンサーには、一真が和牛への未練を完全に断ち切り、病み上がりの気だるさの中にあっても、不思議な満足感に満たされていることが記録された。
「……マスター。和牛よりティッシュを喜ぶなんて……一真様の計算式は、やはりバグだらけです」
「バグで結構。俺は機械じゃねえ。自分の手で掴んだ安っぽい紙切れの方が、天から降ってきた霜降り肉よりずっと肌に馴染むんだ」
一真の足取りは、和牛を逃した直後よりもずっと軽かった。
「……一真様。未来の福引はすべて管理され、当たる人は最初から決まっていました。そこには『ハズレ』の失望も、『当たり』の喜びも、そして……今のマスターが見せているような意地もありませんでした」
プラチナのホログラムが、一真の肩のあたりでふわりと浮き上がる。
「完璧すぎる世界は、こういう無駄を切り捨ててきたのでしょう。でも……」
プラチナは、一真の胸のポケットに収まったティッシュの残りに、そっとホログラムの手を重ねた。
「……この白い紙の重さ、私も少しだけ分かりました。利益を捨てて手に入れた、贅沢な参加賞ですね」
「……何が贅沢だ。ただの紙だろ。……さあ、帰るぞ。もやしの特売に遅れたら、それこそ大損だ」
「了解です、マスター! 次回は、もやしの袋詰め放題に『マテリアル・スキャン』を応用し、限界を超えた五キロ詰めを狙いましょう!」
「……だから、ズルはしねえって言ってんだろ!」
夕闇が深まる商店街を、一人と一機は歩き続けた。
一真はふと、古いパン屋の店先に吊るされた風鈴を見た。
春の風に揺れ、チリンと乾いた音を立てている。
三二一〇円の残高から始まった生活。
和牛を手に入れるチャンスを捨てても、彼の残高は一円も増えなかった。
けれど、胸のポケットにある一袋のティッシュは、一真の心を温かく満たしていた。
「マスター。……向かいの惣菜屋で、コロッケの十円引きが三十秒後に発生します!」
「……行くぞ、プラチナ。そいつは俺たちの正当な戦利品だ」
一真は、笑いながら商店街を歩き出した。
病み上がりの体は軽く、ポケットの中のティッシュが、かさりと小さな音を立てていた。




