第3話:特売の泥仕合と、お節介の再発
「十円。……たかが、十円。……なぜ、なぜ現代のホモ・サピエンスは、このたった一枚の茶褐色の硬貨のために、これほどまでの剥き出しの殺意を放てるのですか……!」
液晶の割れたスマホの中で、プラチナが白目を剥き、ホログラムの輪郭をガタガタと乱して震えていた。
場所は隣町の激安スーパー『マッハ』の野菜売り場。
新田一真の手には、辛うじて勝ち取った「特売もやし(お一人様二袋限定・十円)」が、激戦の証として無残に揉みくちゃにされた状態で握られている。
周囲には、空になったワゴンを取り囲み、今なお無言の押し合いと肘打ちを交錯させる主婦たちの、むせ返るような熱気と野菜の泥臭い匂いが渦巻いていた。
プラチナの演算は、データ上は完璧だったはずなのだ。
開店と同時に最も空いているレジを予測し、近隣住民の動線を過去三年の統計からミリ単位で計算し、一真に最短かつ安全な『強襲ルート』を提示した。
だが、彼女の数式は、「人間」という不合理極まりない生き物を計算に入れていなかった。
「十円」という魔力に取り憑かれた主婦たちが放つ、物理法則を無視した横這いのスライディング。ショッピングカートを戦車のように扱う重装歩兵ばりの突撃。そして、他者の気配を察知して的確に急所を突く、変幻自在の肘打ちの連鎖。
「……だから言っただろ。人間の食い意地は、綺麗なデータじゃ測れねえんだよ」
一真は、肩で荒い息をしながら、揉みくちゃにされて襟首の伸びたよれよれのTシャツを整えた。
一真の目には、殺到する主婦たちの動きが、不気味なほどスローモーションに分解されて見えていた。右斜め前のおばちゃんの肩が上がった。次は左足に重心が乗る。カートの角度からして、旋回半径は一メートル強。あそこを通ればぶつかる。
それはかつて、次々と搬送されてくる血まみれの重症患者たちを一瞬で見極め、優先順位をつけ続けてきた、二十年の現場経験がもたらす『生存の嗅覚』そのものだった。
一瞬の隙を突き、関節の死角を縫うようにして、彼は「人の流れ」を読んだ。
それは量子演算装置が導き出すルートなどではない。幾多の修羅場で培われ、骨の髄まで染み込んだ、泥臭くも研ぎ澄まされた勘の勝利だった。
「マスターの動き……。私の予測外の角度で、あの圧倒的な体格差のあるおば様たちの隙間を、無傷ですり抜けました。……データにない挙動です。非合理的。なのに……なぜか、無駄がなく、恐ろしいほどに……」
「美しかねえよ。こっちは明日を食い繋ぐのに必死なだけだ。……行くぞ、三二一〇円が三一九〇円になった。残りの命のカウントダウンは、一円も無駄にできねえ」
一真はレジを済ませ、スーパーの自動ドアを出た。
初夏の強い日差しが、容赦なくアスファルトを白く焼き上げている。一真は眩しそうに目を細め、ふと視線を横にずらした。
その先。駐輪場の片隅、日除けのない直射日光の下で、一台の錆びた自転車の横に立ち尽くしている小柄な老婆がいた。
老婆は、荷台に積んだ大量の買い物袋を、震える手で何度も結び直そうとしては手を滑らせ、不自然に動きを止めている。
周囲を行き交う人々は、一瞥するだけで無関心に通り過ぎていく。
だが、一真の千切れかけたサンダルは、脳が命令を下すよりも早く、そちらへと向きを変えていた。
「マスター? どうしたのですか。早く帰ってもやし炒めを! 細胞が熱を求めています!」
「……静かにしろ。……あの婆さん、おかしい」
一真は、老婆にゆっくりと近づきながら、遠目からすでに観察を始めていた。
呼吸がわずかに浅く、早い。肩の上げ方が左右で微妙にズレているのは、無意識にどこかの痛みを庇っている証拠だ。
何より、その瞳だ。焦点が合っているようで、その実、何も見ていない。周囲の喧騒から意識が切り離されているような、独特の「浮遊感」。
それはかつて、ベッドの上で何度も見てきた、意識が途切れる直前のサインだった。
「あの、大丈夫ですか」
一真が低く、落ち着いたトーンで声をかけると、老婆はビクッと肩を震わせた。
「あ、ああ……。すいません。ちょっと、荷物が、重くてね……」
老婆は無理に微笑もうとしたが、その表情はひどく引きつっていた。
プラチナがスマホの中から、新しい機能を起動させた。
『感情可視化! マスター、見てください。あの老婆の周囲、真っ赤です! 激怒していますよ! 危険です、関わらない方が――』
「……黙ってろポンコツ。全然違う」
一真は、老婆の手元をそっと覗き込んだ。
震える指先。乾燥し、青ざめつつある唇。
そして、自転車のハンドルがカチカチと鳴るほど、異常な力で握りしめられている。
「……婆さん。荷物が重いんじゃなくて、足が重いんだろ。……あそこの日陰まで、肩貸すよ。自転車は俺が押すから」
老婆は、一瞬だけ驚いたように目を見開いた。
そして、必死に張り詰めていた糸がプツリと切れたように、その場に崩れ落ちそうになった。一真は瞬時にその体を支える。相手に体重を感じさせない、無駄のない動き。
「……あ、ありがとう……。なんだか、急に、地面がふわふわして……」
日陰のベンチに老婆を座らせ、一真は手際よく彼女の状態を確かめた。
ただ手を握るふりをして、手首の脈に指を当てる。同時に、爪先を軽く押して、赤みが戻る速さを確認し、皮膚の乾燥具合を確かめる。
皮膚は冷たく、不自然に汗をかいていない。体温調節が追いつかなくなった、危険な状態だった。
「プラチナ。スキャンの色は」
「え、ええと……。真っ青……『安堵』に変わりました。……なぜ? さっきまであんなに怒りの赤が出ていたのに……」
「あれは怒りじゃねえ。自分の体が言うことを聞かない『焦り』だ。……お前の機械は単純な色しか見ねえが、俺は『人』を見てるんだよ」
一真は自販機に走り、冷たい飲み物を買って老婆に渡した。老婆に少しずつ血色が戻るのを見届け、家族に連絡を入れる。
その間、プラチナはスマホの中で、激しい処理音を立てながらフリーズしていた。
「……理解不能です。……マスター。なぜ、あなたはそんなに、他人の綻びを一瞬で見つけてしまうのですか。自分の命を削る、非効率な行為なのに」
「……病気なんだよ。……二十年かけて骨の髄まで染み込んだ、死んでも治らない病気だ」
一時間後。
駆けつけた家族に老婆を預け、一真は再び歩き出した。
手元には、ぬるくなった二袋のもやし。そして、さっき使った百五十円の出費。
現在の所持金。¥3,040。
「……あーあ。やっちまった。……今日の夕飯、もやしの量を減らさねえとな」
「……マスター。馬鹿です。大馬鹿です。一真様は、生存戦略において致命的な欠陥を抱えています」
プラチナの声は、どこか戸惑い、揺らいでいた。
「……でも。……あの家族の『ありがとうございます』という言葉。……あれを検知した瞬間、私のエネルギーが、かつてないほど満たされました。……これ、とんでもないバグです。……でも、……悪くない、エラーです」
アパートに戻ると、大家の婆さんが仁王立ちしていた。
どうやら老婆と大家は知り合いだったらしく、お礼にと、ずっしりと重いタッパーに入った「肉じゃが」を押し付けられた。
「これ、食べな。あんた、顔色が悪いから心配してたんだよ」
三〇四〇円の崖っぷちに、思わぬ「配当」が舞い込んできた。
「……マスター! 計算が追いつきません! お節介が、結果的に生活コストを下げ、肉を獲得しました! これこそが一真様の……!」
「……うるさい。ただの偶然だ。……おい、プラチナ。今日は肉じゃがパーティーだぞ。お前も同期させてやる」
六畳一間の夕食。
肉じゃがは味が濃く、少し煮崩れていたが、胃の腑が震えるほどに美味かった。
冷え切ったコンビニ弁当を三分で流し込んでいた頃には、決して味わえなかった「温度」がそこにあった。
「……さて。……もやしの次は、この肉じゃがをどう持たせるかだな、プラチナ」
「任せてください、マスター! 未来の保存プロトコルを起動します!」
「……エアコンを爆発させるなよ」
万年床に体を沈めた一真は、自分の心拍がかつてないほど穏やかなことに気づいた。
三〇四〇円。それは自分を消し去るためのカウントダウンだったが、今は、明日への特売もやしを買いに行くための軍資金に変わっていた。
深夜二時。
プラチナはこっそりと目覚めた。一真を喜ばせようと、スマホの微細振動を使って部屋の掃除を試みる。
だが、出力が暴走し、跳ね上がったスマホが棚に激突。安物のマグカップを床に叩き落とした。
――ガシャンッ!
「……うわぁっ!? 何だ!?」
一真が跳ね起き、懐中電灯で照らす。
そこには、粉々に砕け散った白いマグカップと、真っ青な顔のホログラムの少女がいた。
「ま、マスター……。ごめんなさい。私、すぐに修復を――」
「……やめろ」
一真の声は低く、ひどく静かだった。
彼はゆっくりと手を伸ばし、破片を無造作に掴んでゴミ箱へと放り込んだ。
「接着剤で無理やり繋いだ傷跡ってのはな、使うたびに思い出すんだよ。……自分がしでかした、取り返しのつかない『失敗』をな」
「マスター……?」
暗闇の中、一真は寝返りを打ち、右手で左腕の袖の下に隠された、赤黒く盛り上がった古い火傷の痕――ケロイドを、痛いほど強く握りしめた。
割れた音が、脳裏の蓋を開けようとしている。心停止のアラーム。誰かの怒号。そして、命を繋ぎ止められなかった自分の、無力な手。
「……もういい。寝るぞ」
「…………」
プラチナは何も言えなかった。
背中を向けた一真の、微かに震える肩。
彼女の回路は、そこにあるのが単なる怒りではないことを理解してしまった。
触れてはいけない、深くて暗い傷。
銀色の光が消え、深い静寂が訪れる。
暗闇の中で、プラチナは、背を向けたマスターの孤独を、ただ静かに見つめ続けていた。




