第4話:割れたカップと、デバッグの作法
薄っぺらいカーテンの隙間から差し込む初夏の白々しい光が、六畳一間のボロアパートを無遠慮に照らし出していた。
遠くを走る通勤電車の低いモーター音と、ゴミ捨て場を漁るカラスの濁った鳴き声だけが、重く湿った部屋の空気を微かに震わせている。
新田一真は、万年床の中で低く唸り声を上げ、ゆっくりと寝返りを打った。
「……あー、クソ。眠ぃ……」
一真は、軋む体を無理やり起こし、重い瞼をこすった。
そして、無意識のうちに、ちゃぶ台の上へと視線を向ける。
「……」
そこには、昨夜から完全に沈黙を保っている、ひび割れた漆黒のスマートフォンが置かれていた。
ゴミ箱の横には、プラチナが深夜に『全自動掃除』とやらを強行して粉砕した、一真の愛用のマグカップの破片が、古新聞に包まれて捨てられている。
いつもなら、一真が身動きをした瞬間に「マスター! 最高の起床時間です! 直ちに布団を上げ、私の算出した体操を開始してください!」と、やかましいファンファーレと共に銀髪の少女が飛び出してくるはずだった。
だが、今朝の部屋には、息が詰まるほどの『静寂』しかなかった。
「……今日一日、裏側で大人しくしてろ……って言ったのは俺だけどよ」
一真は、ボサボサの頭を左手で掻きむしりながら、小さくため息をついた。
彼女は、一真の「ペナルティ」という命令を文字通り忠実に守り、完全に通信を遮断して息を潜めているのだ。
未来から来た彼女にとって、外界との繋がりを断たれ、暗闇の中に一人きりで置かれるのは、感覚をすべて奪われたまま、狭い独房に閉じ込められているのと同じ苦痛のはずだ。
それでも彼女は、一真の命令に逆らわず、じっと耐えている。
「……反省してんのか、それとも見捨てられるのに怯えてんのか。……どっちにしろ、静かすぎんだろ」
一真は、ちゃぶ台の上のスマホをポケットに突っ込み、洗面所へと向かった。
顔を洗い、冷蔵庫の奥で萎びかけていた半額の食パンを水で流し込む。
「炭水化物ばかり食べると、すぐにだるくなりますよ!」という小言が飛んでこない朝食は、まるで砂を噛んでいるように味気なかった。
*
午前十時。
一真は、照りつける初夏の日差しの下、隣町の住宅予定地で、延々と続く「草むしりと清掃」の作業に没頭していた。
日雇いの現場。監督から押し付けられたのは、時給にすれば最低賃金にも満たない、最も地味で過酷な雑用だった。
「……ふぅっ……」
一真は、首に巻いたタオルで滝のように流れる汗を拭い、しゃがみ込んで土にまみれたドクダミの根を強引に引き抜いた。
一真の目は、無意識に地面の微かな「綻び」を見つけ出していた。この根は深い、こっちは表面的だ。
かつて病棟の最前線で、患者の皮膚の下にある血管を、わずかな指先の感触だけで探し当てていた男が、今は一本の雑草の根を抜くことに全神経を注いでいる。
皮肉なものだが、この「無心」の時間が、過去のトラウマを忘れさせる鎮痛剤として機能していた。
だが。
(……静かすぎる)
一真は、土のついた軍手のまま、思わず自分の右ポケットの上から太ももをポンと叩いた。
いつもなら、この過酷な労働の最中、プラチナがスマホの中から限界まで脳みそを回して介入してくるはずなのだ。
『マスター! 直射日光が強すぎます! 直ちに日陰へ退避し、水を飲んでください!』
『右斜め前の雑草群、根本から四センチの角度で引き抜くのが最も効率的です!』
そんな、呆れるほどやかましく、お節介で、そして温かい「ノイズ」が、今日は一切聞こえてこない。
ポケットの中のスマホは、ただの冷たい金属とガラスの塊として、沈黙を保ったままだ。
「……あいつがいねえと、ただのキツい肉体労働じゃねえか……」
一真は、自嘲気味に笑い、再び地面に向かってしゃがみ込んだ。
機械のように黙々と草を抜く。思考を停止させ、ただ肉体だけを動かす。それは、自分の過去や感情から逃げるために選んだはずの、最適で空っぽな生き方だったはずだ。
(……俺は、あいつのうるさい声に……生かされてたんだな)
一真は、土に塗れた自分の手を見つめながら、はっきりと自覚していた。
三二一〇円の底辺で、明日も見えない泥沼。
それでも絶望せずに毎日目を覚ませていたのは、ポケットの中に、自分を「マスター」と呼び、本気で心配して怒ってくれる、あの銀髪のポンコツがいたからだ。
午後五時。
長い労働が終わり、現場監督から手渡された茶封筒には、約束通り四枚の千円札が入っていた。
一真はそれを財布にねじ込んだ。
現在の所持金。¥7,040。
「……よし。帰るか」
一真は、重い足を引きずりながら、駅前の商店街へと向かった。
そして、帰り道にある百円ショップの前に立ち止まった。
店内に入り、生活雑貨のコーナーへと向かう。目的は一つ。プラチナが昨夜粉砕した、あのマグカップの代わりを探すことだ。
棚には、色とりどりのカップが並んでいる。
一真の視線は、最初、一番下の段に置かれていた「落としても割れないプラスチック製のコップ」に向けられた。
これなら、プラチナがまた深夜に暴走して棚から落としても、絶対に割れることはない。最も合理的で、リスクのない「正解」だ。
だが、一真はそのコップに伸ばしかけた手を、途中で止めた。
(……割れないコップ、か)
絶対に割れない。絶対に傷つかない。だがそれは同時に、失敗を省みることも、やり直す痛みを知ることもない、冷たい世界だ。
プラチナに「絶対に割れない器」を与えることは、結果的に彼女を「失敗が許されない監視下」に閉じ込めるのと同じではないか。
「……落として割れたら、また買い直して、ごめんって謝ればいいだけだろ。……人間なんて、失敗の連続なんだからよ」
一真は、プラスチックのコップから手を離し、中段に置かれていた「陶器のマグカップ」を手に取った。
昨夜割れたものよりも、少し厚手で、ずっしりとした重みがある、無骨な黒いマグカップ。
落とせば、当然割れる。
だが、その不完全な「重み」こそが、今の彼らには必要だった。
「……これ、ください」
百十円を支払い、レジ袋を受け取る。残金、六九三〇円。
一真は、マグカップの入った袋を提げ、足早にアパートへの帰路についた。
*
ガチャリ。
錆びついたドアを開け、一真は薄暗い六畳一間へと帰還した。
部屋の中は、朝出て行った時と全く変わらず、死んだような静寂に包まれていた。
一真は、靴を脱ぎ、ちゃぶ台の上に買ってきたマグカップの袋を置いた。
そして、パーカーのポケットから、丸一日沈黙を守っていたスマホを取り出し、畳の上にそっと置いた。
「……おい、プラチナ。反省の時間は、終了だ。……出てこい」
呼びかけに応じるように。
スマホの画面が、ジジッ……と微かな光を放った。
光の粒子が寄り集まって、およそ二十四時間ぶりに、銀髪の少女のホログラムが姿を現した。
だが、彼女はいつものように胸を張ることはなかった。
小さな両手を前でぎゅっと握りしめ、俯いている。
「……マ、ス……ター……」
プラチナの声は、ひどく掠れ、震えていた。
「……その、……ごめんなさい、でした。……私、一真様のことが、その……自分でも制御できないくらい、『お世話』したくなってしまって……。……大事なマグカップを、私のせいで……」
プラチナの銀色の瞳から、光の粒子の涙が零れ落ちる。
「……長かった、です。……一真様がいない暗闇の中で、私の思考は、この二十四時間を……およそ八六四〇万秒分の、途方もない『孤独』として感じ続けていました。……このまま本当に、見捨てられてしまうんじゃないかって……っ」
一瞬で膨大な考えを巡らせる彼女にとって、人間の一日は、人間が感じる数年、いや数十年に匹敵する永遠の牢獄だったのだ。
「……分かってるよ。……お前がアホなのは、今に始まったことじゃねえ」
一真の声は、先ほどまでの静寂を塗りつぶすように、低く、けれど確かな温度を持っていた。
一真はあぐらをかいて座り、買ってきたばかりの黒いマグカップを、彼女の前にドンッと置いた。
「……っ?」
「昨日割れたやつより、少し厚くて頑丈なやつにしてやった。……だが、落とせば当然割れる、ただの陶器だ」
一真は、自分の左手首にある赤黒く盛り上がった古い火傷の痕を、そっと撫でた。
「接着剤で無理やり繋いだ傷跡ってのはな、使うたびに思い出すんだよ。――焦げる嫌な匂いと、自分がしでかした、取り返しのつかない失敗をな。……俺の腕にある傷と同じだ。消えない過去を毎日眺めて後悔するのは、もうたくさんなんだよ」
一真は、真っ直ぐにプラチナの瞳を見据えた。
「だから、割れたもんは捨てる。そして、新しい器で、新しい茶を飲めばいい。……それが、人間なりの『やり直しの作法』だ」
「…………マスター……」
「……今夜からは、お前がこいつを見張っとけ。俺の専用だ。また割ったら……今度こそ、お前の中身を『もやし炒めの作り方』で塗りつぶして消してやるからな」
一真の言葉は、怒りではなかった。
それは、八六四〇万秒の孤独を耐えた彼女への、彼なりの最高の『赦し』だった。
プラチナは、じっと黒いマグカップを見つめていた。
ホログラムの指先が、表面をそっとなぞる。物理的に触れることはできない。重さを感じることもできない。
だが、彼女の心の最深部には、その不器用な「信頼」が、何よりも重く、温かく刻まれていた。
「……はいっ!! マスター!! 完璧に、守り抜きます!」
プラチナは涙を拭い、今日一番の笑顔で、胸を張った。
「了解しました、マスター! さあ、明日の朝はスーパーで卵が安いです! 六時起床ですよ! 七〇四〇円あっても油断は禁物です!」
「……げっ。また朝からかよ……」
一真の呆れ声と、プラチナの小言が、夕暮れの六畳間に溶けていく。
割れたカップの代わりに届いた、新しい「重み」。
二人の物語は、最も無駄で、だからこそ最も尊い『絆』を、泥臭く育んでいた。
「……さあ、寝るぞ。明日は卵争奪戦だ」
「はいっ、おやすみなさいませ、マスター!」
暗闇の中、スマホの画面が消え、少女の姿が消える。
だが、静まり返った六畳間には、確かな二人の鼓動と、新しいマグカップのシルエットが、温かい夜の気配の中に溶け込んでいた。




