第2話:『青いペーストと、もやしの美学』
朝、六時。
安アパートの薄く湿った壁を無造作に透過してきたカラスの濁った鳴き声が、新田一真の鼓膜を容赦なく叩き起こした。
それはかつて、深夜の救命救急センターの冷たい静寂を切り裂き、仮眠を取っていた数人のスタッフを一斉に弾き飛ばした、あの不吉なモニターアラームの音よりも執拗で、容赦のない「現実」への引き戻しだった。
一真は、染みの浮いた天井を、焦点の合わない淀んだ目で睨みつけたまま、鉛のように重い瞼をゆっくりと持ち上げた。
視界の端、中空に浮かぶ銀色の幾何学模様が、色褪せたカーテンの隙間から差し込む朝日を浴びて、耳障りな電子音のような光でチカチカと不規則に明滅している。
そして、昨夜の「エアコン爆発」という、全財産三二一〇円の男に物理的かつ精神的なトドメを刺した張本人が、これっぽっちも反省の色を見せずにそこにいた。
「マスター! おはようございます! 完璧な朝です! 私、一晩かけて一真様の生命活動に必要なあらゆる栄養素を精査し、人類史上最も効率的かつ究極の朝食を完成させました! さあ、私を讃え、盛大に拍手してください!」
液晶にひびの入ったスマホの画面から半身を乗り出すようにして、ホログラムのプラチナが、無い胸をこれでもかと張っている。彼女の周囲には、処理能力の余裕を示すかのように、浮かれた音符や星屑のようなノイズが物理現象として飛び交っていた。
一真は寝起きの酷い頭痛――安酒の残りカスと、低血糖、そして慢性的な水分不足が複雑に絡み合って招いた、脳のシワが縮み上がるような鈍痛をこらえながら、畳を這いずるようにして上体を起こした。
口内は砂を噛んだように乾ききり、胃袋は昨夜から続く強烈な空腹で、内側から自分自身の粘膜を消化しようとするかのように嫌な音を立てて疼いている。
視線を、手元に落とした。
畳の上に置かれた「それ」を見て、一真の医療従事者としての論理的思考は、一瞬完全にフリーズした。
……青い。
視覚が生物学的な拒絶反応を起こし、脳幹が「毒だ」と警鐘を鳴らすほどに、鮮やかで、人工的で、毒々しい蛍光ブルー。
それは、百円ショップで買った安物のプラスチックのお椀の中で、ドロリとしたスライム状の塊となって鎮座していた。時折、自重に耐えかねたように「ぷるん」と震える姿は、およそ食材としての尊厳を完全に放棄している。
「……なんだ、これは。新種の工業用グリスか? それとも、お前の回路から漏れ出した絶縁体を固めたものか?」
「失礼な! 昨夜のエアコン爆発で生じた膨大な廃熱エネルギーと、この部屋の空気中に漂う微小な有機物を、私の量子コンパイラで再結合させて生成した奇跡の一品です! 名付けて、完全栄養食『プラチナ・ペースト』!」
プラチナは誇らしげに空中に成分表のウィンドウを展開し、指揮棒のようなものを振るった。
「糖質、脂質、各種アミノ酸、そして現代人……特に一真様の今の枯れ果ててスカスカになった細胞が渇望するすべての微量元素を、ナノ単位で完璧に配合しました。消化器官への負担はゼロ。これを飲み干せば、一真様のバイタルは瞬時に回復し、二十四時間は無敵状態を維持できます。まさにサバイバル界の最終兵器、つまり栄養学の『大正解』ですよ!」
一真は、その自己主張の激しい青い物体を、冷めた目でじっと見つめた。
完璧な栄養素。消化負担ゼロ。生命維持の最適解。
その言葉の響きは、一真の心の奥底にある、最も触れられたくない古傷を容赦なく抉った。
かつて、効率と数字だけを信奉し、患者を「修理すべき機械」としか見ない白い巨塔のシステムに、似たような「最適解」を何度も押しつけられてきた。
口から食べる喜びを奪われ、チューブで胃や静脈に直接流し込まれる高カロリー輸液。データ上の数値は改善しても、患者の目は日に日に光を失っていく。数字は生きているが、心は死んでいく。
目の前の青い塊は、あの頃の冷たい書類仕事や、無機質な点滴のパックによく似ていた。
冷たくて、正しくて、一切の無駄がない。そして、どこにも「人間」がいない。
「プラチナ。これに『味』はあるのか?」
「味、ですか? ……ええと、機能に支障のない範囲で、後付けの人工甘味成分と、喉越しをスムーズにするための粘膜保護用潤滑成分は配合されていますが。エネルギー摂取の効率と消化スピードを考えれば、味覚というノイズは不要だと判断しました。さあ、一気に、噛まずにどうぞ! 一真様の細胞が歓喜の合唱を始めますよ!」
「……不採用だ。今すぐフォーマットしろ」
一真は短く、冷徹に切り捨てると、軋む膝の関節を鳴らしながら立ち上がった。
壁の染みに手をついて体を支えながら、部屋の隅にある小さなキッチン――と呼ぶのもおこがましい、流し台と一口コンロだけのスペースへと向かった。
「ええっ!? なぜですか! これなら材料費ゼロ、調理時間ゼロですよ!? しかも私の演算リソースを三パーセントも消費して合成したんです! 今の三二一〇円という破産寸前の生活において、これ以上の合理的選択はないはずです! 私の高度な演算は、一億回シミュレートしても必ずこの答えに辿り着くのに!」
「正解かどうかは、俺が決める。……いいか、プラチナ。人間にとってメシってのはな、ただの燃料補給じゃないんだよ」
一真は、モーターが悲鳴を上げている冷蔵庫のドアを開けた。
中には、昨日スーパーの閉店間際、見切り品のワゴンから十九円で救出してきた「もやし」の袋が一つだけ転がっていた。
「見た目、匂い、噛んだ時の抵抗、舌に触れる温度……。そういう『無駄』なノイズが合わさって、初めて胃袋が動く。栄養価の数字じゃなくて、『メシ』が食えない奴から順番に死んでいくんだよ。医療現場でもな、最初にバイタルを崩して落ちていくのは、数値が悪い奴じゃない。『食べる気力を失った奴』からだ」
袋の中で少しだけ萎びかけ、端の方が茶色く変色し始めている、細くて白い植物。
一真はそれをザルにあけ、蛇口から出る冷たい水道水で丁寧に洗う。
指先に伝わる、パキパキとした感触。
それはかつて、緊急処置でガラスのアンプルを折った時の硬質で無機質な感触とは違う。
冷たい水に触れ、細胞がわずかに水分を吸い上げて膨らみ、生命が抗おうとする微かな抵抗。それが、今の彼にとって、掌で感じられる唯一信頼できる「生命のバイタル」だった。
「いいですかマスター! その『もやし』とやらの分子構造をスキャンしました。九十五パーセント以上がただの水分です! 残りの五パーセントも微弱な食物繊維ばかりで、エネルギー変換効率は私のペーストの百分の一以下。非合理的です、愚かです、明白なバグです! なぜそんな水浸しのゴミに固執するのですか!」
「……黙って見てろ」
一真は、コーティングの剥げた古びたフライパンを火にかけた。
安物のサラダ油を薄く引き、熱でゆらぎ始める瞬間をじっと待つ。
一真の目は、油がサラサラとフライパンの底に広がり、わずかに揺らぎ始めるその「一瞬の臨界点」を決して見逃さない。
それはかつて、ICUの薄暗い部屋で、モニターの緑色の波形から、心停止の兆候をコンマ数秒の世界で見極めていた、鋭い観察眼の残り香だった。
やがて、フライパンの表面からわずかに白い煙が立ち上った瞬間。
一真は、水気を完璧に切ったもやしを一気に投入した。
――ジャアァァッ!!
景気のいい、爆発するような激しい音が、狭く湿った六畳一間のキッチンに響き渡る。
一真は手際よく、流れるような動きでフライパンを煽り、もやしに均一に熱を通していく。
そのリズミカルな動きは、かつての蘇生現場で、汗だくになりながら胸骨圧迫(心臓マッサージ)のリズムを狂いなく刻んでいた時のように、正確で、一定の強度を保っていた。
油がもやし一本一本をコーティングし、水分を閉じ込めながら表面を焼き上げていく。
味付けは、小瓶の中で湿気で固まりかけた安物の塩と、粗挽きのコショウ。それだけだ。
だが、立ち上る白い湯気と共に、焦げた油と塩の香ばしくもどこか懐かしい匂いが、埃っぽい六畳間の隅々まで一気に拡散し、「生活」という名の熱を呼び戻した。
「……っ」
スマホの画面越しに見つめていたプラチナのホログラムが、ピクリと大きく震えた。
彼女の瞳の中で、高速でデジタルグリッドが回転し、室内の成分変化と一真のバイタルデータを狂ったように解析し始める。
「……どうした。効率重視の未来AI様には、この匂いは単なる炭素と水素の分子の無駄遣いか?」
「……いえ。その、なぜでしょう。数値上は、私のペーストの足元にも及ばない無価値な栄養素のはずなのに。私の演算処理能力が……この匂いの芳香成分の分析と、一真様の脳波のシミュレートに、システムリソースの七十パーセントを強制的に割かれています……」
プラチナの銀髪が、困惑に揺れる。
「……マスターの脳波が、青いペーストを見た時の『拒絶』とは明らかに違う、強烈な快楽物質の分泌に伴う共鳴同調を起こしていて……私のコアの冷却ファンが、意味もなく回転数を上げています。……これ、未知のウイルスですか? それともバグですか?」
一真は火を止め、皿に黄金色に輝くもやしを盛り付けた。
強火で一気に仕上げたことで、シャキシャキとした食感を残し、わずかに透き通るような、それでいて圧倒的な熱を孕んだもやし炒め。
一真はそれを、昨日、階下の大家から「作りすぎた余り物だから」と無愛想な顔で押し付けられた、タッパーに入ったままの冷めた白米の隣に置いた。
「これが、俺の美学だ。お前には食えとは言えないが、せいぜいその『バグ』とやらのデータを同期でもしてろ」
割り箸を割り、白米の上にもやしを乗せて、大きく一口運ぶ。
熱い。
安い塩とコショウの暴力的なまでの刺激が、ガツンと脳幹を直接叩く。
だが、ザクッ、ザクッと奥歯で噛み締めるたびに、もやしの奥に閉じ込められていた仄かな甘みと水分が口の中に広がり、空っぽだった胃袋が「生きてるぞ」と産声を上げるような、熱い感覚があった。
ふと視線を横に向けると、プラチナが一真の隣、すぐ肩が触れ合いそうな距離に座り込み、食い入るようにその皿を見つめていた。
ホログラムの小さな指先が、実体のないもやしに触れようとして、立ち上る湯気をすり抜ける。
「……温かいですね。数値では決して測れない、この圧倒的な『熱』は何なのですか? 私のペーストには、完璧な栄養素はあっても、その温度がありません。……なぜ、私のコアがこんなにも、心地よい過負荷で満たされているのでしょうか……」
一真は咀嚼を止め、冷めた白米ともやしの皿を交互に見た。
「お前の青いペーストには、誰もいないからだ。ただの冷たい数式とエネルギーの塊だ」
一真の声は、先ほどまでの刺々しさが消え、ひどく穏やかだった。
「だが、このもやし一つとっても、種を蒔いて育てた奴がいて、トラックで夜通し運んだ奴がいて、深夜のスーパーで十九円のシールを貼って売った奴がいる。この冷や飯だって、口の悪い大家の婆さんがわざわざ炊いたもんだ。……その見ず知らずの誰かの『手』の記憶が、束になって熱になってるんだよ。俺はそれを、ありがたくいただいてるだけだ」
プラチナは、しばらく黙っていた。
銀髪が、窓から差し込む朝日を反射してゆるやかに揺れる。
一真がもやしを咀嚼し、嚥下するごとに、彼女のホログラムの姿もまた、無機質で青白い透明感から、わずかに体温を感じさせるような、柔らかな桃色の色調へ移ろっていくようだった。
「……分かりました、マスター。学習しました。……私の生成した完全栄養ペーストは、人間社会においては深刻な論理エラーであると認定し、直ちに廃棄処分にします」
プラチナは立ち上がり、小さな拳をぐっと握りしめた。
「その代わり、次のもやし争奪戦には、私の全演算能力を投入させていただきます! 二度と十九円なんて高値(!)で買わせたりしません! 私が、一真様に世界で一番安くて、最高の『熱』を供給してみせます!」
「……おい、ズルはするなよ。あと、お前が変なテンションで演算を回すと、スマホの背面がやけに熱いんだ。ただでさえエアコンが死んで蒸し暑いんだ、これ以上熱源を増やすな」
「えへへ、一真様が『美味い』って思ってくれたエネルギーが、私に流れ込んでくるのがあまりに心地よくて……つい、共鳴システムをフルドライブしちゃいました!」
朝の光が差し込む六畳一間。
三二一〇円の残高は一円も増えていない。むしろ、ガス代と水道代を消費した分だけ、確実に死(破産)に近づいている。
それでも、一真の頬には、昨夜までの生ける屍のような「枯れた死相」が消え、不器用で泥臭い生気が戻っていた。
「……ごちそうさま。さて、三二一〇円の延命治療、今日も続けるか」
「マスター! 近隣ネットワークへのハッキング……いえ、情報収集完了しました! 隣町のスーパーで、本日午前十時より『もやし十円タイムセール』の情報をキャッチ! 近隣住民四百二十名のSNS投稿と、過去三カ年のセールの客動線パターンを解析し、最短かつ主婦層の強固な包囲網を突破する『タクティカル・強襲ルート』を展開します!」
「……だから、お節介だって言ってるだろ。スーパーの特売に軍事作戦並みの演算使うな。……ま、行くだけ行ってみるか」
一真は、よれよれのTシャツを羽織り、千切れかけたサンダルを突っかけて外に出た。
初夏の風が、汗ばんだ肌をじわりと撫でる。
太陽の光が、昨夜の暗闇が嘘だったかのように、暴力的で鮮やかな色彩を街に投げかけている。
一真は道ゆく人々の顔を、習い性の鋭い視線で無意識に眺めていた。
自販機横で缶コーヒーを飲んでいるスーツの男。肩が不自然に上がっている。呼吸補助筋を使っているな、喘息の気があるか、あるいは心不全の初期予兆か。
あっちの横断歩道を急ぎ足で渡る主婦。左膝をわずかにかばった歩き方だ。変形性膝関節症か、それとも重い荷物を持ちすぎた事による一過性の過負荷か。
(……声をかけるべきか?)
元・救命のプロとしての直感が、一瞬足を止めさせる。
だが、すぐに自嘲気味に息を吐き、首を振った。
今の自分には、誰かを救う資格も、力もない。
全員どっかが綻んでいて、傷ついている。だが、それでも必死に痛みをこらえ、地面を蹴って生きてるんだ。俺なんかの出る幕じゃない。
一真は視線を前に戻した。
腹の中には、十九円の熱いもやしが収まっている。満ちている。
それだけで、千切れかけたサンダルの底は、案外しっかりとアスファルトの硬さを捉えていた。
「マスター、次の角を右です! そこに『十円の奇跡』が待っています! 私の予測ルートなら、ベビーカー部隊の側面を突けます!」
「ああ、分かったよ。お前のそのオーバースペックなナビ、信じてやる。……行くぞ、プラチナ」
一真の足取りは、絶望に沈んでいた昨日よりもほんの少しだけ、確かな生へのリズムを刻んでいた。




