表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
スマホの中のプラチナ 〜底辺から始めるポンコツ未来AIの(に)お世話生活〜  作者: ひろボ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

1/100

第1話:スマホの中のポンコツ

 液晶画面にひび割れた蜘蛛の巣越しに浮かび上がる数字は、残酷なまでに不動だった。


 ¥3,210


「……詰み、だな」


 新田一真にった かずまは、すり減った指先で画面をタップするのをやめ、肺の底に溜まった重いおりを吐き出すように息を漏らした。


 築四十年、木造モルタル二階建てのアパート『コーポ・あけぼの』。

 六畳一間の空気は、昨日から降り続く陰鬱な雨が残した湿気と、畳の奥深くに染み付いた古びた埃の匂いを孕んで、ねっとりと肌にまとわりついてくる。

 薄い壁の向こうからは、隣人の大学生が流しているらしい、単調なベース音がドゥン、ドゥン、と微かに響いていた。


 これが、四十二歳の男が、二十年の歳月を医療現場に捧げて手に入れた最終的な居場所であり、全財産だった。


 一週間後の光熱費の引き落としまで、残り約百六十八時間。

 一日三食食うと仮定すれば、一食あたりにかけられる金は百円を大きく切る。

 ただ胃袋を膨らませるだけなら、業務用の安い小麦粉を水で練って焼けばいい。だが、長年の職業病が、一真の脳内で勝手に無慈悲な計算を始める。

 ビタミンとミネラルが決定的に不足すれば、数日で末梢神経の痺れが始まり、思考がひどく鈍る。表皮はカサつき、免疫力が低下すれば、こんな不衛生な部屋ではすぐに感染症を引き起こす。


 人間の肉体が一日で消費するカロリーと、スーパーの特売もやしの原価を天秤にかける。

 すり減った脳みそが弾き出すその生存計算は、かつての自分の仕事を思えば、ひどく虚しく、滑稽だった。


 救命救急センターやICU(集中治療室)で、数千万単位の高度な人工呼吸器のモニターを睨みつけていた日々は、今や濃い霧の向こう側の出来事だ。

 モニターの波形のわずかな乱れ、血圧計の数ミリの変動、患者の微かな息遣い。

 それらから「死」の足音を誰よりも早く察知し、力技で現世へ引き戻す。それが彼の、そして彼が心血を注いで愛したはずの仕事だった。


 だが、今の彼に残された「生命維持装置」は、部屋の隅でコンプレッサーが末期の喘鳴ぜんめいのような異音を立てている中古の小型冷蔵庫と、この割れたスマホだけだ。


 燃え尽きた。そうはっきりと自覚したのは、いつだったか。


「効率」と「病床回転率」という数字だけで人間を捌き、次の入院患者を入れるためにベッドの空きを作ることを最優先する、巨大な病院のシステム。

 それに抗い、患者一人ひとりの「顔」と「人生」を見ようと泥臭く足掻いた結果、組織から疎まれ、孤立し、最後には自分自身の精神が摩耗してちぎれ飛んだ。

 気づけば、退職届を叩きつけ、逃げるようにこの底辺という名の吹き溜まりへと流れ着いていた。


 今の彼は、治療を諦め、ただ静かに終わりの時を待っている患者と何ら変わりない。


 一真は、畳の上に散乱した小銭を指先で弾いた。

 十円玉が、鈍い音を立てて転がり、シミのついた万年床の端にぶつかって止まった。


「……寝るか。起きてたって、腹が減るだけだ」


 彼がペラペラの掛け布団を引き寄せ、現実から逃避するように目を閉じようとした、その時だった。


 枕元に放り出していたスマホが、突如として、掌を焼くような異様な熱を放ち始めた。


「――っ!?」


 一真は反射的にスマホから手を離し、即座に身体を起こした。

 パニックにはならない。長年培われた習性が、恐怖よりも先に「観察」を強制する。息を詰め、視線を固定し、対象の危険度を測る。


 スマホの背面が、内側からの異常な圧力で不気味に膨らみ始めている。古いリチウムイオン電池の熱暴走か。もし破裂すれば、可燃物だらけのこの部屋は一瞬で火の海になる。

 一真がスマホを布団から遠ざけようと手を伸ばした瞬間。


 画面のひび割れの隙間から、見たこともないような――深夜の病院の廊下で見る青い誘導灯よりも、ずっと鮮烈で不吉な――青白い光が、暴力的なまでの光量で漏れ出した。


 爆発の衝撃に備え、一真が枕を盾にして腕で顔を覆った、その直後。


 キィィィィン――!!


 鼓膜を直接太い針で貫くような、強烈な超高周波の共鳴音が六畳間に響き渡った。

 同時に、部屋中の埃やゴミが一瞬にして重力を失ったかのようにフワリと宙に浮き上がり、目に見えない磁力線に沿うように、空中で幾何学的な模様を描いて整列し始める。

 物理法則が局所的に書き換えられたとしか思えない、異常な光景。


『――対象の脳波パターンの異常低下を検知。これ以上の放置は自己崩壊に繋がると予測。……共鳴同調、強制デバッグを開始します』


 無機質な、しかしどこか幼さを残した少女の声が、スマホのスピーカーからではなく、部屋の空間そのものを震わせるように響いた。


 直後、スマホの画面から溢れ出した光の粒子が、空中に整列した埃を巻き込みながら猛烈な速度で螺旋を描き、六畳間の中心で人間の形へと再構成されていく。


 そこに、立っていた。


 銀糸のように細く、透き通るような長い髪。

 それは重力という概念をあざ笑うように微かに宙に浮き上がり、時折、古いテレビの砂嵐のようなノイズを混じらせて明滅している。

 少女は空中で軽やかにくるりと一回転すると、不格好な――しかしどこか自信に満ちた着地を、擦り切れた畳の上で決めて、無い胸を大きく張った。


「お待たせしました、一真様! あなたのあまりにも低品質で絶望的な生活環境を改善し、未来から完璧にお世話デバッグしに来ました! 自律型AIサポートユニット『プラチナ』、ただいまオンラインです! えへん!」


 一真は、盾にしていた枕を下ろし、数秒間、目の前の存在を無言で凝視した。


 胸郭の上下運動、なし。呼吸音も聞こえない。肌の質感は異常に滑らかで、光の反射が不自然だ。

 何より、その瞳の奥には一定の周期で無機質なデジタルグリッドが走っており、生き物ではないことなど一目で理解できた。

 だが、その表情だけは、高度な計算式からは絶対に弾き出されないであろう、得意げな「ドヤ顔」そのものだった。


「……幻覚か。ついに脳みそにカビが生えたか」


「失礼ですね! 私は実在する、超・最新鋭のサポートAIです! 一真様の現在の、あまりに不衛生で、栄養失調寸前で、明日をも知れぬ悲惨な生存ログを検知して、特例で救済に参上したのです!」


 プラチナと名乗った少女は、むっとした顔で人差し指を振る。

 それだけで、空中に半透明の光るウィンドウが次々と展開された。


 そこには、一真の銀行残高「3,210円」が、警告を示すような真っ赤な文字で強調表示されていた。

 さらには、昨日の夕飯が「十九円の特売もやし一袋」であったこと、しかもそのもやしを「三食に分けて食べる」という涙ぐましい生存計画までもが、残酷なほど正確な円グラフとなって空中に可視化されていた。


「マスター。このままではあなたの幸福指数はマイナスに突入し、肉体が停止するより先に精神が枯死してしまいます。ですが、安心してください! 私の高度な演算能力とサポートがあれば、このボロ屋を宮殿に、一真様を幸福の絶頂へと導くことが可能です!」


「……いいから消えろ。そのライトアップ、一秒ごとに電気代が積み上がってるのが計算できないのか? スマホが完全に壊れたら、買い替える金もねえんだよ」


 一真の言葉は、冬の朝の金属トレイのように冷ややかだった。


 かつて「奇跡」だの「最新の治療法」だのという耳触りのいい言葉に縋り、最後には残酷な現実の重みに押し潰されていった患者やその家族を、彼は嫌というほど見てきた。

 根拠のない希望ほど、人間を内側から腐らせ、残酷に殺す毒はない。

 一真にとっての誠実さとは、まず冷徹なまでに「現実」を受け入れることから始まるものだった。


「むぅ! ならば証明してみせましょう! 私がどれほど優秀で、一真様に必要不可欠な存在かを! まずは……そうですね。一真様の不快指数を跳ね上げている、この劣悪な室温環境を『最適化』します!」


 プラチナの指先が、空中のウィンドウを勢いよく叩いた。

 彼女の意識が一真のスマホを経由し、壁に取り付けられた古びたエアコン――プラスチックが黄ばみ、もはや内部がカビの温床と化している、二十年選手の中古品へと干渉する。


『エアコンの制御権を奪取しました! 未来の超効率冷却プロトコルを適用します。涼しくなーれ!』


「おい、バカやめろ! そいつはもう、騙し騙し回さないと――」


 一真の制止よりも早く、エアコンの室内機が「ギュリリリリッ!」と、断末魔のような酷い金属摩擦音を上げた。


 プラチナが叩き込んだ「未来の最適解」の制御プログラムは、現代の、それも限界を迎えている老朽化した機械にとっては、死の宣告に等しい過剰負荷オーバーロードだったのだ。


 モーターの異音を聞いた瞬間、一真は最悪の事態を予測した。


 ガタガタガタガタッ!!


 室内機が壁からもげそうな勢いで激しく震え出す。

 そして、吹き出し口からは、涼しい風などではなく、焦げ付いたオイルのひどい悪臭と、内部に溜まっていた古い真っ黒な埃が、爆煙のように一気に噴き出した。


「あれ? おかしいですね。出力が……あっ、供給電力が現代のアナログな規格を超えて――あわわっ、制御不能です、安全装置が反応しませんっ!」


「コンセントを抜け!! 早く!!」


 一真が叫び、コンセントへ向かって飛び込もうとした、その瞬間。


 アパート全体のブレーカーが、プラチナが強引に流し込んだ異常な電流の濁流に耐えきれず、ガチンッ!! という凄まじい破裂音と共に弾け飛んだ。


 プツン、と。

 一瞬にして、世界が真の闇と静寂に包まれる。

 唯一の光源だったプラチナの姿も、激しいブロックノイズと共に、虚空へ掻き消えた。


 …………。

 …………。


 圧倒的な、暗闇。

 焦げ臭い匂いだけが、六畳間に充満している。


 一真は、暗闇の中で深く、深く、肺の中の毒素をすべて吐き出すように、長い息をついた。


 エアコンは完全に死んだ。買い替え費用は安く見積もっても数万は飛ぶ。

 アパート中のブレーカーを落としたことで、明日の朝、階下に住む耳の遠い大家から怒鳴り散らされるのも確定だ。

 三二一〇円の残高から、この損失を埋める術は、天地がひっくり返っても存在しない。


 カチッ、と。

 一真が手探りで、枕元に転がっていた懐中電灯――看護師時代の忘れ形見である、瞳孔確認用の医療用ペンライト――を点ける。


 細い光の円が、畳の上を照らし出した。

 そこには、床に体操座りで膝を抱え込み、半泣きの顔でスマホの画面越しにこちらを覗き込んでいる、銀髪の少女の姿があった。


「け、計算外ですぅ……。現代の機械が、これほどまでに脆いポンコツだなんて……。私の完璧な論理回路では、一秒で理想の二四度になるはずだったのに……」


 ペンライトに照らされたプラチナは、先ほどの尊大な態度は跡形もなく霧散し、まるで処置室で注射を怖がって震えている子供のような顔をしていた。


 一真は、全財産の三二一〇円と、二度と動かないであろう壁のエアコンの残骸。そして目の前の「自称・未来の救世主」を、まるで手の施しようがない末期症状の患者を見つめるような、深い諦観を含んだ目で凝視した。


「……お前、アホだろ。それも、救いようのないレベルの」


「うぅ……否定、できません……。でも、一真様が、あまりに寂しそうで、冷え切った『色』をしていたので、私がどうにかしなきゃって……。お世話モードの優先順位が、論理よりも先に暴走してしまって……」


 プラチナは、実体のない指先をもじもじと絡ませながら、消え入りそうな声で続けた。


「……未来の記録データでは、一真様は、伝説の『お節介焼き』として語り継がれているんです。傷ついた人を見捨てられない、不器用で、誰よりも熱い人だって。だから、私は、あなたに笑ってほしくて……」


 伝説のお節介焼き。

 その言葉の滑稽さに、思わず自嘲の笑みが漏れた。


 目の前にいるのは、伝説でも何でもない。日雇いの肉体労働で食い繋ぎ、もやしの数十円の値段に一喜一憂し、世の中から背を向けて死んだように生きる、枯れ果てた中年だ。


「救世主だのお節介だの、そういうのはもっと体力のある、キラキラした奴に任せとけ。俺はただ、静かにこの三千円を使い切るのを待ってるだけだ。……だいたい、死にかけてる古い機械に無理やり全力を出させるのは『治療』じゃねえ。ただの迷惑な拷問だぞ」


 一真はペンライトを床に転がし、湿った壁に背中を預けて座り込んだ。


 暗闇の中、プラチナの姿が微かな光を放ちながら、再び一真の目の前で形作られる。

 今度は部屋を冷やすなんて無謀なことはせず、ただ膝を抱えて、一真の影に寄り添うように隣に座り込んだ。


「……一真様の手、すごく綺麗ですね」


 唐突な言葉に、一真は自分の両手を見下ろした。


 長年の消毒液で皮膚が荒れ、数え切れないほどの針を刺し、止まりかけた心臓を何度も力任せに叩いてきた手だ。指先は、今も微かに震えている。

 どれだけの命を繋ぎ止めようと足掻いても、結局は指の隙間からこぼれ落ちていった冷たい感触だけが、皮膚の奥底にこびりついて離れない、呪われた手だ。


「……汚れてるよ。もう、誰も救えない。ただ震えてるだけの手だ」


「いいえ。一真様の『人を見る目』……声の震えだけで相手の苦しみを読み取り、背中をさするだけで不安を鎮める、その指先。それは、未来のどんなスーパーコンピュータよりも正確で、温かいと記録されています。私は、その温かさに憧れて……この時代に漂着したんです」


 プラチナの声には、冷たいデジタルの合成音とは思えないほどの、不器用な熱量が宿っていた。


「……暑いな」


 エアコンが壊れた六畳間は、急速に熱気が籠もり、まるで蒸し風呂のようだった。

 一真は立ち上がり、窓を細く開けて、雨の匂いのする湿った夜風を部屋に招き入れる。


 三二一〇円。

 明日からは、今日よりももっと絶望的で厳しい生活が始まる。

 だが、スマホの中からじっと自分を見つめ、不器用に寄り添おうとする銀髪の少女を見て、一真は不思議と「俺の人生はこれで終わりだ」とは思わなかった。


 この「アホな居候」を放置しておけば、次は何を爆発させるか分かったものじゃない。

 その監視と後始末だけでも、明日を生きる理由としては十分すぎるほど、面倒くさそうだ。


「おい、プラチナ。お前、充電はどうするんだ。電気は完全に死んだぞ」


「あ、私は一真様の感情の起伏……『共鳴システム』によって駆動しているので、コンセントは不要です! 一真様が私に呆れたり、驚いたり、少しだけ笑ってくれるだけで、私はビンビンに動けます!」


「……じゃあ、当分はバッテリー切れの心配はねえな。お前には呆れ通しになりそうだからな」


 一真は短く息を吐き、ポケットに入っていた百円ライターを取り出して、意味もなく火をつけたり消したりして弄んだ。

 ふと、ナース時代、ある患者に言われた言葉を思い出した。

『新田さんは、怒ってる時が一番、目が笑ってるね』と。


「プラチナ。ここに居候するなら、俺のルールを教えとく。いいか」


 一真は、かつて新人ナースを指導していた頃のような、低く通る声で告げた。


「いきなり動くな。まず周りをよく見ろ。俺が息をしてるか、周りに火の気はないか、前提条件を全部確認しろ。そして、俺に聞く前に余計なものには一切触るな。分かったか」


「はい! マスター! 完璧に、不器用に、一生懸命お世話させていただきます! まずは明日の朝、一真様の心拍数が跳ね上がるような、ハッピーな朝食メニューを提案しますね!」


「……不吉な予感しかしねえが、まあいい。寝るぞ」


 真っ暗な部屋の中。

 三二一〇円という絶望的な現実と、銀髪のやかましいポンコツAI。


 まったく噛み合わない二人の、長くて騒がしい「お世話生活」が、今、最悪の形で幕を開けた。

 一真は目を閉じ、闇の中でスマホから漏れる銀色の微かな光を瞼の裏に感じていた。


 明日の家賃の心配よりも、目の前の面倒くさいAIの存在が、彼の凍りついていた「心臓」を、かつてないほど激しく、生々しく叩き続けていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ