番外編『皇帝・飛燕の事件簿』③:記録官、玉座に上がる
朝の麒麟堂は、いつもより眩しかった。
光が強いのではない。
人の顔色が、やけに青い。
臣下たちは整列し、背筋を伸ばし、口を閉ざしている。
宰相はいつも通り、静かに帳面を広げていた。
私――暁 飛燕が、朝から機嫌よく指を鳴らしているのを見て、皆が悟っているのだ。
(今日は、何かが起こる)
(そして、巻き込まれた者が泣く)
当然だ。
帝の朝は、退屈であってはならぬ。
私は玉座に腰を下ろし、軽く伸びをした。
「……宰相」
「は」
「朕は思った」
私は真面目な声を作った。
「帝国は、あまりにも帝に依存している」
宰相の目が、ほんの少し細くなった。
嫌な予感がしている顔だ。
良い。
その顔が見たかった。
「陛下」
宰相が慎重に言葉を選ぶ。
「帝に依存することは、帝国の本懐にございます」
「だからいけない」
私は頷いた。
「帝が不在でも、政が回るようにしなければならぬ」
宰相が口を開きかけた。
だが私は手を挙げて止めた。
「よい。結論は出ている」
私は侍従を呼ぶ。
「墨華宮へ使いを。李 雪蘭をここへ連れてこい」
「陛下」
宰相が低い声で言う。
「まさか」
「まさかだ」
私は笑った。
「本日は、記録官に帝をやらせる」
宰相は無言で額を押さえた。
◆◇◆
墨華宮から雪蘭が現れたのは、少し遅れてからだった。
いつもの白い下級女官の衣。
いつもの静かな足取り。
いつもの眠そうで眠くない顔。
ただし。
玉座の間に入った瞬間、ほんの一瞬だけ目が止まった。
臣下がずらりと並び、玉座が空いていて、帝がにこにこしている。
状況が、あまりにも異常だ。
「……陛下」
雪蘭は一礼した。
「何か記録の誤りでも」
「誤りではない」
私は堂々と言った。
「本日は“即席即位”の日だ」
「……は」
「安心しろ。重い責務はない」
私は軽く手を振った。
「ただ玉座に座って、帝っぽいことを言えばいい」
雪蘭は瞬きを一つした。
その顔は無表情に近いが、目の奥に小さな文字が浮かんでいるのが見える。
《意味不明》
《幼稚》
《帰りたい》
私は笑いを堪える。
「さあ、座れ」
私は玉座の横にずれて、空けた。
「朕が許す」
雪蘭は動かなかった。
その沈黙が、逆に面白い。
宰相が咳払いを一つした。
「李 雪蘭殿。陛下の御意にございます」
雪蘭はため息をつくでもなく、ただ、静かに歩いた。
そして、ゆっくりと玉座に腰を下ろした。
その瞬間。
臣下たちの顔が一斉に固まった。
笑ってはいけない。
だが笑いたい。
その葛藤が空気を震わせる。
私は玉座の下に降り、わざとらしく臣下の列に混ざった。
「さあ、新帝よ。何か言ってみろ」
雪蘭は玉座の肘掛けに手を置き、ひと呼吸置いた。
そして、淡々と口を開いた。
「……政務日誌が三年分、未提出です」
一瞬で、空気が凍った。
臣下たちの顔色が変わる。
宰相の眉がぴくりと動く。
雪蘭は続けた。
「各部署の帳面は写本が雑。記録番号の重複あり。提出期限が守られていない」
「特に、礼部」
「儀礼の記録が二月分抜けています。理由を述べなさい」
礼部の官吏が、魂が抜けた顔をした。
「は……っ、はは……っ」
雪蘭はさらに続ける。
「厨房の支出帳。油代が不自然に増えている。誰が持ち出した」
厨房担当が膝を折りかけた。
私は息を呑んだ。
(こいつ……帝より帝だ)
雪蘭は感情も起伏もなく、ただ記録官としての眼で、全員を裁いている。
玉座とは、これほど似合うものなのか。
いや、似合いすぎて怖い。
私は堪えきれず、手を挙げた。
「すいません。即位取り下げます」
臣下たちが一斉に顔を上げた。
救われた顔。
同時に、笑いを必死で殺す顔。
雪蘭は玉座の上から私を見下ろした。
その瞳は、静かだった。
だが確かに、愉悦の色が混じっていた。
ほんの少しだけ。
「陛下」
雪蘭は淡々と言った。
「帝位とは、遊びではありません」
「分かっている」
私は真面目な顔で頷いた。
「だからこそ、お前にやらせた」
「……理解不能です」
「理解しなくていい」
私はにやりとした。
「雪蘭が困る顔が見たかっただけだ」
雪蘭は一拍置いた。
そして、ゆっくりと玉座から立ち上がった。
裾についた埃すら整える所作。
そのまま、私の横を通り過ぎようとする。
「待て」
私は呼び止めた。
「感想は」
雪蘭は足を止めた。
振り返らず、静かに言った。
「……玉座は、硬いです」
臣下たちの肩が、一斉に震えた。
笑いを堪える震え。
「そして」
雪蘭はさらに続ける。
「陛下は、もっと硬く働くべきです」
私は声を上げて笑った。
「ははははは」
「それだ。それが聞きたかった」
雪蘭は振り返った。
ようやく視線が合う。
その顔は相変わらず無表情に近い。
だが、目の端がほんの僅かに和らいでいる。
(……こいつ)
(少しは楽しくなってきたか)
それが嬉しくて、私はまた余計なことを言った。
「次は宰相を玉座に座らせよう」
宰相が静かに言った。
「陛下。わたくしは失踪いたします」
雪蘭が、ほんの少しだけ口元を緩めた。
気のせいではない。
確かに、それは笑みだった。
◆◇◆
その日の夕刻。
玉座の間の記録には、ただ一行だけが残された。
『本日、記録官、玉座に座す。
ただし臨時措置。
皇帝、秒で逃走』
私はそれを読んで満足した。
そして思う。
(雪蘭は、困らされても折れない)
(いや、折れないどころか、時々、こちらを折ってくる)
だから面白い。
だから、飽きない。
麒麟堂を出ると、春の風が吹いた。
私はそれを胸いっぱいに吸い込んで、笑った。
明日もきっと、困らせてやろう。
墨華宮の幽霊猫が、少しだけ笑う日が増えるように。




