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墨華宮の昼寝猫  作者: naomikoryo


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番外編『皇帝・飛燕の事件簿』②:記録官、失踪す?

朝の麒麟堂は、やけに静かだった。

いや、静かにさせているのは私だ。


暁 飛燕は玉座にもたれ、指先で膝をとんとんと叩いた。

宰相はいつも通り書類を広げている。

臣下もいつも通り息を殺している。


「……報告」

私は言った。


侍従が一歩進み出る。

「はい。墨華宮の李 雪蘭殿、本日まだ出仕の記録がございません」


「ほう」

私は口角を上げた。


宰相の筆が、また一瞬止まった。

(止まるな)

(止まると私は楽しくなる)


「風邪か」

私が尋ねると、侍従は首を横に振った。


「昨夜も灯りが消えたのは定刻。体調不良の兆候はなし。書庫室の鍵は内側から掛かっており、異常は見られません」


「鍵が内側から」

私はわざとらしく眉を上げた。

「つまり……失踪だな」


「陛下」

宰相がため息をひとつ落とした。

「そのような結論を急がれますな」


「急がねば物語が始まらぬ」

私は堂々と言った。

「よいか。雪蘭が消えたとなれば、宮中は騒ぐ。騒げば皆の本性が見える。記録官の失踪は、極めて有益な政務だ」


宰相は目を閉じた。

(諦めたな)


「侍従」

私は指を鳴らした。

「手配を始めろ」


「捜索を、でございますか」


「捜索ではない」

私は微笑んだ。

「“噂”の配布だ」


◆◇◆


昼前。

帝都の廊下という廊下に、奇妙な紙が貼られ始めた。


《速報》

《墨華宮の幽霊猫、失踪事件》

《夜半、黒猫に姿を変え、屋根伝いに消ゆ》

《目撃者多数(※当社調べ)》


紙面の隅には、稚拙な挿絵がある。

白い女官衣の猫が、月の下で「にゃ」と鳴いている。

そしてその猫の頭上に、これまた雑な字でこう書いてある。

《幽霊猫》


作者名は伏せた。

代わりに署名はこうだ。


《某・帝》


(完璧だ)

(ばれるに決まっているのが完璧だ)


貼り終えた侍従が恐る恐る戻ってくる。

「陛下……これを宮中に流すのは……」


「面白い」

それだけで十分だ。


私は椅子から立ち上がり、腕を組んで満足した。

だがここで終わらない。

真の愉悦は、相手が反応した瞬間に訪れる。


「墨華宮へ行く」

私は言った。


「陛下」

宰相が即座に立ち上がった。

「なぜわざわざ、ご自身で」


「幽霊猫の失踪だ。天子が動かずして誰が動く」

私は胸を張った。


宰相は額を押さえた。


◆◇◆


墨華宮の扉は、いつもと同じように静かだった。

静かすぎて、逆に腹が立つほどだ。

私は扉を押し開ける。


書庫室は、普段通りだった。

紙の匂い。

墨の香。

棚の影。

そして机の上には、昨日の続きらしい帳面。


だが、雪蘭がいない。


(……本当に、いない?)


私はわざと大げさに咳払いをし、室内を歩いた。

床板がきしむ。

それでも返事はない。


「幽霊猫」

私は呼んだ。

「出てこい。朕が見つけたら、その場で猫缶を与えてやる」


当然、返事はない。


棚の間を覗く。

机の下を覗く。

書の山の陰を覗く。


(いないな)

(……いないのは、少し困るな)


困るのは、私の計画が崩れるからではない。

……いや、崩れてもいい。

だが、私が雪蘭を困らせられないではないか。


私はふと、机の上の紙束に目を落とした。

そこには、見覚えのある筆跡で短い走り書きがある。


《本日、出仕遅延。理由:猫の追跡》


「猫?」

私は声に出した。


すると、棚の奥から「にゃ」と鳴き声がした。

黒い小さな影が、するりと飛び出す。

そして本の上を跳ね、机に乗り、紙束の上にどっかり座った。


(こいつか)

(昨日の墨壺犯だな)


私は猫に近づいた。

猫は毛づくろいをしながら、私をまったく恐れない。

腹が立つほど堂々としている。


「おい」

私は猫の額を指で軽くつついた。

猫は「にゃ」と短く鳴いて、尻尾で私の手を払った。


「……無礼だな」

私は笑った。

「まるで雪蘭だ」


その時。

背後で、紙が擦れる音がした。


振り返る。

棚の奥。

積み上げられた巻物の陰から、白い袖が少しだけ覗いている。


(いるな)

(いるじゃないか)


私はわざと気づかぬふりをし、室内をぐるりと回った。

そして大げさに叫んだ。


「大変だ。雪蘭が消えた」

「これは一大事だ。朕の遊び相手が消えた」


棚の陰が、ぴくりと動いた。


私は続ける。

「仕方ない。代わりに、宰相を幽霊猫に任命する」


「……それだけはやめてください」


小さな声が、棚の陰から漏れた。


私は勝った。

満面の笑みで棚の方を見た。

「出てきたな」


白い衣の下級女官が、ゆっくりと姿を現す。

髪は少し乱れている。

頬に埃がついている。

そして手には、猫を捕まえるための布が握られていた。


「陛下」

雪蘭は無表情で一礼した。

「失踪ではありません。勤務の遅延です」


「遅延理由は?」

私はわざと真面目な顔で尋ねた。


雪蘭は淡々と答える。

「猫が逃げました。追っていました」


「記録官が猫を追う。なるほど」

私は頷いた。

「では、その“失踪記事”はどうだ」


雪蘭の眉が、ほんの僅かに動いた。

机の上の紙を一枚つまみ上げる。

《幽霊猫、失踪事件》

あの紙だ。


雪蘭はそれを読み、静かに紙を折り、四つ折りにし、さらに折った。

丁寧すぎる動作だった。

それが逆に怖い。


「陛下」

「うん?」


「これは、宮中の秩序を乱します」


「秩序は乱してこそ価値がある」

私は胸を張った。


「……では、訂正記事を出します」

雪蘭は折った紙を机に置き、筆を取った。


さらさらと書く。

あまりに早く、あまりに整った字で。


《訂正》

《幽霊猫は失踪していない》

《猫を追っていただけである》

《なお、失踪したのは皇帝の良識である》


私は、息を止めた。

次の瞬間、耐えきれず笑った。


「ははははは」

「良い。非常に良い」


雪蘭は筆を置き、淡々と言った。

「陛下。これを貼り出してよろしいですか」


「もちろんだ」

私は即答した。

「むしろ貼れ。全廊下に貼れ」


雪蘭の目が、わずかに細くなる。

そこに、ほんの少しだけ、呆れと楽しさが混じったように見えた。

気のせいかもしれない。

だが私は、それで十分だった。


◆◇◆


その日の夕刻。

宮中の廊下には、訂正記事が貼られた。

人々はそれを見て、口を押さえて笑い、すぐに真顔に戻って去っていく。


私は麒麟堂へ戻り、宰相に告げた。

「見たか。雪蘭は失踪していなかった」


宰相は淡々と答えた。

「最初から、失踪などしておりません」


「つまらぬ」

私は言った。


宰相は、筆を走らせたまま一言だけ言った。

「陛下が一番楽しそうでございます」


私は鼻で笑った。

だが、胸の奥は妙に軽い。


(幽霊猫は、今日も生きている)

(ならば、明日も困らせてやろう)


墨華宮の静けさは、私の遊びで少しだけ揺れる。

その揺れが、案外心地よいのだと。

私はまだ認めない。

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