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墨華宮の昼寝猫  作者: naomikoryo


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番外編『皇帝・飛燕の事件簿』①:猫の名を記せ

朝の麒麟堂は、いつもより騒がしかった。

というより、騒がしくしているのは私だ。


暁 飛燕は玉座に座り、指先で机を軽く叩いた。

御前に控える宰相は、眉一つ動かさずに書類を整えている。

周囲の臣下は空気を読んで沈黙している。

私が何か思いついたとき、余計な口を挟むと碌なことにならないと皆が知っているからだ。


「退屈だな」

私は言った。


宰相は顔を上げずに答える。

「陛下。国政は退屈であるほど良うございます」


「ならば退屈を増やしてやろう」

私がそう言うと、宰相の筆が一瞬止まった。

ほんの一瞬だ。

だが私は見逃さない。


(止まったな。よし)


私の視線が、机の上の紙束を滑る。

奏上。

裁可。

税の帳面。

兵站。

どれも面白みがない。

数字は整っているが、魂がない。


そうだ。

魂といえば、あの書庫の猫だ。

幽霊猫。

昼寝猫。

そして今は、私の遊び相手。


私は侍従を呼び寄せた。

「墨華宮へ文を出せ」


「は。どのようなご用向きで」


「命令だ」

私はさらりと言い、紙に筆を走らせた。

墨が紙に落ちる音が心地よい。

私はそのまま、思いつくままに書いた。


――『本日中に、宮中の全猫に名を与え、それを記録せよ。

猫の顔立ち、性格、歩き方、鳴き声の調子に応じて命名すること。

名は帝国の格式を損なわぬよう、雅であり、かつ可憐であること。

命名は記録官 李 雪蘭が責任を負う。

なお、猫に触れる際は礼を尽くすこと。

以上。皇帝・暁 飛燕』――


侍従の喉が、ごくりと鳴った。

宰相の咳払いが、一つだけ落ちた。


「陛下」

宰相がやっと顔を上げた。

「それは政務にございますか」


「もちろんだ」

私は微笑んだ。

「宮中の猫は鼠を獲る。鼠は書を齧る。書は国の礎。ならば猫は国の礎を守る功臣だ。功臣に名がないのは不敬だろう」


宰相は目を伏せた。

(反論を飲み込んだな。偉い)


私は侍従に紙を渡す。

「届けてこい。雪蘭に。今すぐだ」


侍従は、顔色を失いながらも頷いた。

「は……っ」


その背中を見送りながら、私は満足した。

今日の退屈は、これで終わる。


◆◇◆


墨華宮は、静寂の塊みたいな宮だ。

派手な装飾もなければ、笑い声もない。

あるのは紙の匂いと、眠気と、書の山。


私はいつものように、護衛もそこそこに、ふらりと書庫室へ向かった。

(猫が走り回っている頃合いだろう)


扉の隙間から、ぱたぱたと足音が聞こえる。

人の足音ではない。

小さく軽く、焦りを含んだ音だ。


私は、わざと音を立てずに扉を押し開けた。


「……っ」


目の前の光景に、私は思わず息を飲んだ。

いや、笑いを噛み殺した。


書庫室の中央で、李 雪蘭がしゃがみ込んでいる。

白い下級女官の衣の裾が、あちこち埃を吸って灰色になっている。

髪はきちんと結っているはずなのに、一本だけ頬に落ちている。

そして何より、彼女の腕の中には猫がいる。

猫は腕をすり抜け、机の下に逃げようとし、雪蘭はそれを必死に押し留めている。


「……こら」


雪蘭の声は小さい。

怒っているのに、迫力がない。

だが猫には効いていない。


(猫は人を見ている)

(特に雪蘭は、なめられている)


机の上には帳面が広げられていた。

ずらりと並ぶ欄。

「毛色」「目」「耳」「歩き方」「鳴き声」「性格」「推定年齢」

そして最後に、「名」。


欄の端には、すでにいくつか名前が書かれている。

「薄墨」

「春霞」

「鈴音」

「団子」


(団子?)

私は口角が上がるのを抑えた。


雪蘭は私の気配に気づき、顔だけを上げた。

その目は眠たげではない。

薄く鋭い。

しかし今は、明らかに疲れている。


「……陛下」


「ご苦労」

私は気軽に言った。

「猫は偉いからな」


「……猫は偉いです」

雪蘭は真顔で頷いた。

「ですが陛下の命令が、猫より偉いとは限りません」


(言ったな)

(今日も遠慮がない)


私は笑って椅子に腰を下ろした。

「どうだ。進捗は」


「四十七匹中、二十八匹まで命名しました」


「宮中に猫がそんなにいるのか」


「陛下が“全猫”とおっしゃったので、厩舎、厨房、庭、外門周辺まで調べました」


(真面目すぎる)

(そこが良い)


机の下から、猫がひょいと顔を出した。

灰色の毛並みで、片耳が欠けている。

それが雪蘭の足首にすり寄り、すぐに離れていく。


雪蘭は帳面に目を落とし、淡々と書いた。

「歩き方、左に重心。鳴き声、短い。性格、距離感が悪い」


「距離感が悪いとは」


「近づくくせに逃げます」


私は吹き出しそうになった。

それは猫のことを言っているのか。

それとも私のことを言っているのか。


「名は?」

私は尋ねた。


雪蘭は一拍置いた。

「……『半月』」


「ほう」


「欠けた耳と、夜の庭に溶ける色が似ています」


(詩人か)

(いや、記録官だ)


猫は「にゃ」と鳴いて、今度は机の上へ飛び乗った。

そして帳面の上を堂々と踏み、墨壺のすぐ横で尻尾を振った。


「……っ」


雪蘭の顔色が変わる。

彼女は猫を掴もうとしたが、猫はすり抜けた。

次の瞬間、尻尾が墨壺に当たった。


どさ。


墨が倒れた。

黒い液体が帳面の上に流れ、真新しい紙がみるみる染まっていく。


雪蘭が固まった。

その表情は、数多の陰謀の報告を受けたときよりも深刻だった。


「……あ」


私は、耐えきれず笑った。

「はは。良いな。黒猫はやはり黒いことをする」


雪蘭はゆっくりとこちらを見た。

目が、冷たい。

凍る。


「陛下」


「うん?」


「この命令、取り消してください」


「嫌だ」


「……では、陛下も名前をつけてください。残り十九匹」


「朕が?」


「はい。帝が名を与えるのは、むしろ正しい」


(やり返してきたな)


私は顎に手を当て、わざと考えるふりをした。

「よかろう。では、その灰色のやつは……『無礼』だ」


雪蘭が瞬きした。

「……猫に失礼です」


「ならお前が別の名にしろ」


雪蘭は墨で染まった帳面を見つめ、深く息を吐いた。

そして淡々と言った。


「……『陛下』」


「何?」


「性格、距離感が悪い。近づくくせに逃げる。時々、墨を倒す」


私は一瞬、言葉を失った。

次の瞬間、笑いが込み上げた。


「ははは。言うではないか、幽霊猫」


雪蘭はむっとした顔をした。

そのむっとした顔が、少しだけ人間らしくて。

私はなぜだか、胸の奥が妙に軽くなった。


◆◇◆


夕刻。

宮中のあちこちで、猫が名を呼ばれているのが聞こえた。

「薄墨、こっち」

「春霞、そこで寝るな」

「団子、団子、団子」


私が廊下を歩くと、侍従が小声で言った。

「陛下。墨華宮より記録が届きました」


受け取ると、分厚い帳面だった。

猫の名簿。

筆跡は雪蘭のもの。

丁寧で、端正で、腹が立つほど整っている。


最後の頁に、追記がある。


『本日、宮中の猫四十七匹に命名を行った。

なお、命令を出した者は非常に幼稚である。

記録官、非常に疲労す。

皇帝、猫を嫉む。

筆者、就寝希望。』


私は声を立てて笑った。

廊下の侍従たちが、恐る恐る目を伏せる。


(いい)

(実にいい)


私は帳面を閉じ、胸の中でそっと呟いた。


(猫が眠る場所は、朕が作ってやる)

(だが今日は眠らせない)


退屈は、もうしばらく先送りだ。

墨華宮の幽霊猫が、少しだけ表情を動かしたのだから。

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